第1回ケータイ文学賞大賞【短編小説】解氷
恋なんて、まして結婚なんて私には全く必要ない、ていうか、想像すらしなかった。本心。だって今の私は幸せ一杯だから。そう、本心。
でも私には彼がいる。しかもプロポーズされた…。
出会いはドラマティックでも何でもなく、居酒屋での合コン。盛岡が一番寒く、雪も多い二月だった。その夜は雪がちらつくうえに、特に冷え込みが厳しく、外を歩いていると顔が凍るように感じて、繁華街の大通りを走るタクシーもタイヤを滑らせながら走っていた。
私たち「たんぽぽ学園」の女性職員と岩手県庁の男性職員、四人対四人。同僚で同い年の彩(あや)がセットした。彩に両手を合わせてお願いされたので、仕方がなく参加した。
居酒屋の中は当然暖かかったけど、私は居心地が悪く、寒くてもいいから早く外に出て帰りたいとだけ思っていた。理由は単純、ただそういう場が根っから苦手なだけ。病的なぐらい。
彼とは少しだけ話をしたけど、優しそうで真面目そう、という感じのごく平凡な印象以外は特に何も無かったし、ルックスも眼鏡をかけていて、いわゆる中肉中背…以外はぼんやりとしか覚えていなかった。今思えば、私自身が何の期待もしないでその合コンに参加していたせいだと思う。
私は一次会が終わると、二次会に行く輪から外れて帰路に着いた。ただ、すぐにタクシーには乗らず、あえて雪の降る盛岡の街をちらつく雪を楽しみながら一キロほど離れた盛岡駅まで歩いてからタクシーに乗った。途中にある開運橋では立ち止まって、北上川に落ちては消えていく、街灯に照らされた雪を眺めていた。私にとっては合コンよりもその「散歩」のほうが楽しかった。
そんな合コンの次の日、職場で彩から、
「福田さんから美(み)月(づき)の携帯の番号とメルアドを知りたいって言われたんだけど、教えてもいい?」
と聞かれて、無防備だったかも知れないけど、特に抵抗も無く了承して、彩から伝えてもらった。たぶん彼に「軽そう」とか「信用出来なさそう」とかの悪い印象が無かったからだと思う。
彩は四人の中で一番明るくてルックス的にも目立っていた人と三次会まで行って、アドレス交換どころか、次の約束までしてきたと言っていた。
彩の恋愛は奔放だ。たくさんの男性の話が彩の口から出てくるが、どの人が本命なのか職場で一番親しい私にもよく分からない。
彩は、女の私から見ても美人だしお洒落。すっぴんにジャージで出勤する私と違って、ちゃんとそれなりの私服で出勤してからジャージにエプロンという「仕事着」に着替え、その格好に浮かない程度の上手なメイクも毎日してくる。そして、仕事が終わるとまた私服に着替えて、メイクも変えてそのまま遊びに行く。住まいは、繁華街から徒歩圏内の本町通にある賃貸マンションを借りて住んでいる。たんぽぽ学園のすぐ近くに古いアパートを借りて、スーパーやコンビニに寄る以外は、ジャージのままほとんど真っ直ぐ家に帰る私とは大違い。
でもそんな彩を私は、うとんだり、軽蔑したりはしない。むしろ、私は彩が好きだし、少し大袈裟かもしれないが、尊敬しているぐらいだ。
たんぽぽ学園は、盛岡駅から三キロほど北に行った住宅地にある就学前の知的障害児が通う施設。言ってみれば知的障害児の保育園。
彩は、園児の扱い方がとても上手だし、何より園児にすごく優しい。
私が人間を見る基準はそこにある。いや、そこにしか無いのかも知れない。
最初の彼からのメールは、年齢や出身地、趣味や特技などの自己紹介。公務員らしい堅い人かな、と思った。歳は私より三つ上の二十六歳。私と同じ盛岡の出身。趣味や特技の紹介もスノーボードやジャズが好き、などなどごく普通で、驚きも無かったが、嫌味なところも全然無くて、どことなく謙虚な印象を受けた。それから何度か電話やメールのやり取りを重ねていく中で、少しずつ「いい人」と思うようになった。
そしてやっぱりドラマティックなことは無いまま、なんとなく映画を一緒に観に行く約束をした。それから何度かドライブや映画なんかのデートをしたけど、彼は、第一印象通りに優しくて真面目。プラスされたのは結構面白いってことだったろうか。
彼は一緒のときにもメールでも仕事の話はほとんどしない。「プライベートのときは仕事を忘れたい」と言う。よくあることだし、気持ちも分かるから私も仕事の話はしない。別に私は仕事の話をしてもいいんだけど。ただ、彼に私の仕事のやりがいが分かってもらえるか不安に思うとこもあったから「渡りに船」でもあった。それがもし分かってもらえなかったら、二人の関係の致命傷になってしまうぐらい私にとっては重要なことだったし、もうその頃は、彼と終わってしまうのも淋しくなっていたから。たぶん。
だから一緒のときは、ほとんど彼の趣味のスノーボードや釣りの話、お互いの好きな音楽や映画の話なんかで時間は過ぎていった。そして彼は私を退屈させなかった。
子どもの頃の話もしたが、私は出来るだけ気付かれないように避けたりごまかしたりした。
六月に車の中で一度だけキスをした。ほんの二秒ほどの優しいキスだった。そして、
「できれば結婚して一生一緒にいたい」
とプロポーズされた。
彩から聞いたのだが、彼の同僚の話によると、彼は財政課に配属されている、いわゆる県庁のエリートだという。県庁内でも数少ない東京の有名私立大学の卒業だそうだ。
でもそんなこと私には興味がない。たてまえじゃなくてこれも本心。いや、むしろ全く逆の意味でその学歴やエリートだということが気になって仕方がない。
私だって幸せになりたい。でも今のままでも十分に幸せだ。今の仕事が続けられれば、結婚しなくてもいいとさえ思っていた。
たんぽぽ学園に勤めてから、もう三年が過ぎた。
「初心忘るべからず」という教訓があるけど、私には全く必要がない。仕事は毎日楽しくて仕方がない。始めた頃からずっと。とにかく子供たちが可愛い。可愛過ぎる。
ダウン症の子どもは人懐っこくて、いたずら大好き。一日中笑ったり泣いたりで大忙し。みんな顔が似ているのに、個性は爆発している。
自閉症の子どもは好き嫌いがはっきり。興味が無いことにはずっとそっぽ向いているのに、好きなことには真剣そのもの。自閉症は暗いっていうイメージがあるけどそれは嘘。にこにこ笑うことだっていっぱいある。
たんぽぽ学園の園児はみんな明るい。笑わない子どもなんて一人もいない。ダウン症の子どもはもちろん、自閉症の子どももそれ以外の障害を持つ子どもも。つられて私もいつも笑ってばっかり。こんな楽しい仕事は他には無いって思うし、一生続けたい。
別に彼が結婚したら仕事を辞めろと言っている訳じゃない。共稼ぎでいいと言ってくれている。
でも本当に私は彼と結婚してやっていけるのか?
私の左の手首から肘の裏にかけては、今でも消えない傷がたくさんある。中学や高校のときに付けたリストカットの痕だ。顎の下だしファンデーションを塗るとほとんど目立たないけど、長い傷が首にもある。
小学校の頃は、いじめられはしなかったけど、友達はほとんど出来なかった。理由は簡単、「集団に馴染めない」っていうやつだ。
みんなが楽しそうにしていることが全然楽しく思えない。決められた場所に決められた日程で行く遠足のどこが楽しいのかが全く分からなかった。運動会もそう。自分が何位でも良かったし、赤が勝っても白が勝ってもどっちでもよかった。
行事が近付くと先生がよく言う「みんなで助け合ってクラスを盛り上げましょう!」とか「みんなで一緒に頑張って楽しい思い出を作りましょう!」という掛け声に、一応「はーい!」と返事はするものの行動が伴わない。周囲の盛り上がりに付いていけずにいると先生が「みんなが頑張ってるんだから美月ちゃんももうちょっと頑張ろう」と優しい声で話しかけてくる。でも私は物凄いショックを受けてしまう。なぜ頑張らなきゃならないのかが分からない。挙句に「頑張る」とはどういうことなのかさえ分からなくなった。
もちろん行事のときだけではない。普段の授業もやはりみんなが頑張っていることを頑張れない。授業中、先生の質問にみんなが我先にと手を挙げているとき、私だけ手を挙げない。分からないときもあったが、分かっていても手を挙げない。手を挙げて先生に、そしてみんなにアピールし、さらに当てられて立って答える必要性が全く分からなかった。
授業中に椅子に座っていることも物凄く苦痛だったけど、必死で我慢した。我慢しながら覚えたのは、窓の外を眺めたり、教室の壁や床、天井の汚れやシミを見つけたりする、私なりの時間を過ごす術だけだった。
学校が終わって家に帰ってもほとんど一人で絵を描いたり、本を読んだりして過ごした。宿題はあまり苦にせずに、毎日やるものだと思ってきちんとやった。だから小学生の頃はあまり親から叱られなかった。
中学校から私の本当の苦しみは始まった。その大きな原因は、試験や成績。そもそもなんで将来の役に立ちそうもない勉強をしなくちゃならないのかが分からなかった。それはみんなそうだったかも知れない。けど、なんでみんなが点数や順位を気にするのかが分からなかった。なんでそのことで親が私を叱るのかが分からなかった。そしてそれが当たり前の世の中が分からなかった。これは、それまでにぶつかってきた壁の何倍も厚い壁だった。
唯一クラブだけは楽しかった。陸上部で長距離をやっていた。練習で走っているときは本当に楽しかった。ただ、早く走ろうとは思わなかったし、タイムや大会の順位には全然興味がなかった。「欲を出せ」と先生には言われたけど、その意味もやっぱり分からなかった。ただ、走るのが好きだった。でも周りはそうじゃなかった。だからクラブでも友達はいなかった。
教師だった親は私を馬鹿呼ばわりした。私は一人っ子。兄弟はいない。親は自分の子供だから頭が悪いはずはないと、自分のプライドだけは保っておいて、私のことを勉強しようとしない「馬鹿」だと言った。言葉の端々に「学歴が一番大事」という私にとって全く理解不能の考え方が見え隠れした。
リストカットはクラブを引退した中学三年の夏頃からするようになった。その頃から周りの雰囲気は受験一色。学校に行きたくなかったが、親に無理やり行かされた。何度も校門の前まで車で連れて行かれた。私が昇降口の中に入って見えなくなるまで、親は車を止めて監視していた。
死ぬ気は無かったと思う。いや、間違って死んでしまったらそれでもいいか、くらいは思っていたかも知れない。とにかくそれくらいしか自分の苦しみを表現する方法が思い付かなったし、痛みでしか生きている実感を味わえなかったのだと思う。
入りたくなかったけど高校にも入った。成績が悪くて地元の高校の普通科に入れず、その高校では普通科よりもレベルが低かった福祉科に仕方なく入った。
すでに親は私を見捨てていた。「子はかすがい」というから私のせいかも知れないが、その頃から親同士も不仲になり、それぞれ勝手なことをしているようだった。詳しいことは知らない。私も親に無関心になっていた。
高校では、国語や数学だけじゃなく、中学には無かった科目もあるからほんの少しだけ期待した。でもあったのは社会福祉の歴史や制度についての授業や、お互いが介護する人とされる人になりながらするおむつ交換や車椅子への乗せ方、押し方の実習。やっぱりつまらなかった。
クラブにも入らなかった。その高校の陸上部は駅伝の強豪で、とても私が入るようなところではなかった。
学校は休みがちになった。高校生ともなると、さすがに親も無理やり行かせられなくなったし、第一、親は私にほとんど構わなくなっていた。
リストカットは続いた。先生と親との話し合いが何度かあったが、私には全くその内容が分からなかったし、周囲に何の変化も無かった。今思えば、ただ大ごとだけは起こさないよう、あとは穏便に様子を見ていく、程度の話し合いだったのではないかと思う。
そんな頃、首をやはりカッターで切った。首から胸にかけて血だらけになりながら、親の寝室に行った。なぜ、行ったのかは分からない。やっぱり死にたくなかったのだろうか。それとも親への見せしめだったのか。
救急車で病院に運ばれたが、傷は浅く、五針塗ってもらい、二晩だけ入院して、家に帰った。
もともと友達なんかいなかったけど、いつも腕に包帯を巻いていた私が今度は首に包帯を巻いてきて、さらにクラスメイトは誰も私に近付かなくなった。だからぐれることもなかった。悪い道に進もうにも、そういう仲間がいなかったし、外に出ること、盛岡の街に出ること自体も嫌いだった。
とうとう親は私を精神科に連れて行った。もちろん学校や親戚には隠して。診断名は教えてくれなかったけど、おそらく精神安定剤だと思う薬を飲まされた。飲むと気分が楽になり、学校に行くには行けたから一応進級は出来た。
だけど、クラスが変わっても私の状況は全く変わらず、孤独感、無力感、喪失感、あらゆるネガティブな感情だけが私を囲み、その囲いはどんどん私を狭い場所へ追い込んでいった。学校、家、街、私の周りには、抜け穴らしき光は全く見当たらなかった。
そんなことを繰り返してばかりの最悪の状態だった高校二年の秋に、たんぽぽ学園での体験実習があった。ここで私の人生は変わった。光を見つけたのだ。
三歳から小学校入学前までの子どもたちが通うこの施設にはルールが有って無いようなものだった(私にはそう見えた)。
園庭で「みんな集まって!」と先生が言っても集まる子は数人。あとはみんなまだ自分のしたいことを続けている。滑り台の梯子を登って、これからまだまだ滑ろうとしている子、ぐっしょり汗を掻きながらひたすらボールを追いかけている子、体を後ろに反らしながら首も後ろに曲げてブランコを漕ぎ、まるで変わっていく空の風景を楽しんでいるように見える子、砂場で頭から砂を被っている子もいる。口や鼻の周りはよだれや鼻水に砂が付いて砂まみれだ。結局先生たちが一人ひとりの手を引いて連れて来る。だからと言って叱られる子はいない。せいせい「ダメだよ」とか「ちゃんと集まろうね」と優しく言われるぐらいなもの。
お遊戯の練習が始まる。先生の真似をして踊る子はやっぱり数人。その園児たちはもちろん楽しそう。残った園児たちはと言うと、アドリブのダンスを繰り返す子、なぜかヒーローごっこになっちゃう子、そしてまだ滑り台や砂場で遊びたくてそっちに向かって走り出す子。なかにはおもらししてしまう子もいる。そんなときに先生は「あららら」と言いながら後ろから両脇を抱えてトイレに連れて行く。もちろん叱ったりはしない。そんなこと日常茶飯事だから慌てたりもしない。先生たちにとっては当たり前のことで、それが仕事。
お絵描きの時間なんて傑作。画用紙からはみ出して机に線を描きだす子、自分の手のひらに色を塗りだす子、紙を破りだす子、クレヨンを口に入れようとする子までいる。先生たちは必死だ。でも先生も園児たちも生き生きとしている。教室中が活気で溢れている。
そして出来上がった作品もすごかった。同じような絵は全くない。人や物らしきものを描けている子は数人。あとは線と色の大爆発。いや、紙自体が爆発して破れているものもある。それを先生たちと一緒に私も教室の壁に貼り出した。そしてあらためて見ると、一つ一つもすごいけど、全体的に一つの立派な作品にも見え、すごく感動した。
そんなふうに園児たちや先生たちの様子を見たり、ほんの少しだけ園児のお世話をしたりする程度の内容の実習だったが、忘れられない出来事が最後の三日目にあった。
給食のあとの自由時間、ホールで園児たちと遊んでいると、旭(あきら)くんというダウン症の子がホールから園庭への出口に腰掛けて私に手招きをする。いや、その時は手招きなのかさえもはっきりとは分からなかった。旭くんは言葉が話せない。
「どうしたの?旭くん」
私が戸惑って声を掛けると、トコトコ私に近付き、私の手を取って引っ張り、さっき腰掛けていた場所に連れて行く。それでも私が何をすればいいか分からずに立っていると、旭くんは自分の座っている場所の横をトントンと叩く。私は何となく「お前もここに座れ」という意味なのかな、と思った。ただ、どうしてそこに座れと言うのか、よく理解出来ずにいたのだが、座ってみてすぐに分かった。
外は秋晴れだったが、真昼だったので太陽は高く、ホールの中はほとんど陽が当たらずにひんやりとしていた。しかし、その場所だけには陽が当たり、ポカポカと暖かかった。
「ここは暖かいよ。ここに来て一緒に座ろうよ」
旭くんの心の声がやっとで私にも分かった。その証拠に、自由時間が終わるまで旭くんはそこにいて、私が隣にいることに満足気な顔をしていた。
「こんな自由な世界があったんだ」、「自分がやるのはこの仕事しかない」と私は思った。旭くんが、たんぽぽ学園の園児たちや先生たちが、私のネガティブな感情の包囲網を一気に取っ払ってくれた。
それからは、つまらなかった勉強も「手段」として頑張った。信じられないぐらい勉強をするようになった。成績は上がり、資格も取れた。さらに資格を取るために短大に行った。勉強が楽しかった。「夢」があったから。
それなのに就職に親は反対した。「知恵遅れの子どもの世話をして何になる」と父親は言った。私は説得しようとも思わなかった。子どもの頃からの親との歴史の中で、理解してもらおうとする労力が無駄だと私には分かっていた。価値観の違う人に分かってもらおうなんて無理だと思った。
たんぽぽ学園を勝手に受験した。そして合格した。誰も一緒に喜んでくれなかったけど、私は自分の部屋で合格通知を見ながら一人で泣いて喜んだ。
それからの私は幸せいっぱいの日々。毎日園児と一緒に歌ったり踊ったり。おしっこやうんちの処理なんて全然苦じゃない。むしろそのおむつやパンツが愛おしくすら思える。これ以上の幸せはいらないとさえ思っていた。
無数のリストカットの傷痕は、薄くなったがやはり目立つ。だから「肌が日光に弱い」と理由を言って、仕事中は夏でも薄い長袖を着ている。暑くても慣れてしまった。プール遊びとか、どうしても腕を出さなければならないときには、なるべく人に腕の裏側を見せないようにしている。たぶん気付かれていないと思うし、もし気付いている人がいたとしても、誰も聞いてきたり、ましてや陰口を叩いたりする人はいないだろう。職場の仲間もみんな優しい。とにかく毎日が充実している。
そんな時、彼に出会った。
本当に彼でいいんだろうか?いや、本当に私でいいんだろうか?
その日は仕事を終えてアパートに帰り、彼と食事に行くための準備をしていたのだが、鏡に向かい、仕事の時にはしない化粧をしたり、薄手の水色で長袖のブラウスと紺のタイトスカートに着替えたりしながらも私はやはりそんなことばかり考えていた。
待ち合わせした映画館通りのゲームセンターの二階にある居酒屋に彼は、三十分遅れてきた。メールで「先に食べてて」と連絡があったし、お腹が空いていたからフライドポテトとサラダ、それからジンジャーエールを注文して先に食べていた。お盆休み明けの金曜日のせいか店は混みあっていた。
彼の仕事はとにかく忙しい。聞いた話だが、県庁は巷で「不夜城」と呼ばれているらしく、日曜の夜中でさえ、必ずどこかの部屋には明かりが点いているという。明日からは土日で本当は休みなのだが、二日とも出勤しないと仕事が間に合わないと彼は言う。
「そんなに忙しいのに約束して大丈夫?」
と夕べ私が聞くと、
「どうせ土日も出勤するんだから、金曜の夜ぐらいやりたいことをやるよ」
と彼は言ってくれた。
彼はスーツ姿のまま来た。「上下で一万円の安物」と彼は言うけど、着こなしが上手なせいか、そうは見えない。彼が来るなり、私もビールにして乾杯した。
「旨い!」
と彼は一口飲んで言ったが、その後は喋るのと食べるのが中心。私も彼もあまりお酒が強くない。ジョッキの生ビールを一杯飲むのに一時間もかかる。
彼はプロポーズの答えを要求してこない。あれから二か月も経つのに。私が答えないうちは永遠にこのままの状態が続くのかも知れないと思うほど、そのことには触れない。目の前の料理のことや先々週に二人で遠野へ行ったドライブの話ばかりしている。もちろん私はそれでいい。むしろ助けられている気持ちだ。
二件目は駅前の十三階建てのホテルの最上階にあるカクテルバーに行き、窓際の席に向かい合って座った。
彼はメニューを見てから、
「よく分からないから、アルコールが薄いやつをお願いします」
とウェイターに言った。私も同じものを頼んだ。出てきたのは細長いグラスに入ったグリーンでシトラスの香りがするカクテルだった。一口飲むと彼はやっぱり、
「旨い」
と言った。そしてちょっとずつ飲む。
大都市ではないが盛岡の夜景も綺麗だ。その夜は空気が澄んでいて特に遠くまで見渡せた。盛岡城址の岩手公園だけが、ぽっかりと市街地の中で明かりが点いていなかったが、あとは、ほとんど山際まで明かりで満たされている。それを眺めながら、私は子どもの頃に嫌いだったこの街が、心から好きになっていることを確認していた。
彼は二キロほど離れた官庁街の「内丸」にある県庁を指差して、
「うわー、見たくねえ!」
と言った。県庁には金曜の夜とは思えないほど明かりが点いている。残業している人がたくさんいるのだろう。
「大変だね」
と私が言うと、
「大変の種類が違うだけで、何の仕事をしたって大変だよ。好きなはずの野球やってるプロ野球選手でさえ、練習が嫌だって言うんだから」
と事も無げに言った。珍しく仕事が話題になった。思わず私が、
「私はね、仕事が大変だと思ったことがないの」
と言うと、彼は「全く?」と聞き返すでもなく、不思議がるでもなく、
「すごく幸せなんだね」
とすんなり言い、
「うん」
と私は答えた。
「一度見てみたいな、美月の働いているところ」
彼は、カクテルをまたちょっとだけ口にしてから言った。
「見ないほうがいいよ。ジャージにエプロン姿で、すっぴんに汗かきかきで子どもを追い駆け回してばっかりだから」
と私が笑いながら言うと、
「それ見たい!絶対に見たい!」
と笑顔で言い、
「美月が溌剌としているところを見たいな」
と今度は夜景に視線を移して真顔で言った。
私が自分の気持ちが暖かくなっていくのを感じながら何も言えずにいると、彼はさらに、
「とにかく美月のいろんなことをもっと知りたいんだ。それが俺の今の生きてるエネルギー」
と言ってくれた。
その夜、そのホテルで彼と初めて愛し合った。私にとっては男性と二人で過ごす、生まれて初めての夜でもあった。
私は、体を見られることの恥ずかしさを忘れてしまうほど、左腕を見られるのが怖かった。暗い照明でもはっきりと見える無数の傷。一目見ればなぜ付いたのかが分かる傷。そして一生消えず、いつまでも隠す訳にはいかない傷。
だけど彼は何も言わなかった。もちろん見たと思う。気付いたと思う。頭のいい彼のことだから、それ以上のことも分かったと思う。
でも、彼はひたすら愛してくれた。何も言わず、優しく、それ以上望みようがないほどに優しく。そして言った。
「今まで以上に幸せにしたいと思ってる」
私の目には涙が溢れた。それは、単に男女の一線を越えたから出た言葉ではないことが私には痛いほど分かったからだった。
それからの彼の私に対する態度に、馴れ馴れしくなったり、逆によそよそしくなったりするような変化は全く無かった。いや、もしかすると微妙にあったのかも知れない。それは以前よりもさらに優しくなったことだった。彼の何気ない言葉の端々にそんなことを感じた。
私はますます彼を好きになった。それでも私の不安は消えてくれなかった。
同じ盛岡に生まれて育ったが、彼の育った環境と私のそれとではあまりにも違い過ぎる。
県内一の進学校から東京の有名私立大学へと学歴社会を勝ち抜き、県庁という規則と常識に縛られた大きな組織の一員として、しかもエリートとして生きている彼と、学歴社会を理解できずに、仲間から疎外され、親に否定され、自分を傷つけ、やっとで見つけた幸せな空間、自由な雰囲気に囲まれた職場で仕事をしている私。価値観が同じはずがない。いや同じじゃなくても理解し合えればいいが、それさえも難しいと思ってしまう。
家庭を築けばいろんなことがあるだろう。それを二人で乗り越えていけるのか。私には自分の育った家庭しかイメージができない。価値観の違う人と暮らすことの辛さ、理解し合えない人と過ごす時間の息苦しさを知り過ぎるほど私は知っている。いや知ってしまった。そして私と同じ思いを愛する自分の子どもには絶対にさせたくない。
最近では、障害者がたくさんテレビなんかに登場し、ドラマや映画の主人公になったりしているし、障害者への理解や社会のバリアフリー化が進んできていると言っても、未だに私の親のような人たちもたくさんいるのが現実。スーパーの障害者用の駐車場に平気で車を止めていくおよそ障害者には見えない人たちも頻繁に見かける。理解はしても出来れば関わりたくないと思っている人もたくさんいるだろう。その程度の理解の人と、私は一緒には暮らせない。
考え過ぎと言われればその通りだけど、私は失敗したくない。今でも十分に幸せだから。そして自分を理解してくれる人が誰もいなかったあの頃のような経験は二度としたくないから。
彼に私の仕事の楽しさが理解できるのか。私の大好きな子どもたちの可愛さが分かるのか。私がやっと見つけてたどり着いた、たった一つの生きがいを理解してくれなかったらきっと私は彼と一緒に生きてはいけない。
ホテルで過ごした日から一月ほど経ち、季節が秋に変わると、お互いに仕事が忙しくて会えない日々が続き、私はその間、またそんなことばかりを考えて過ごしていた。
私は、たんぽぽ学園の一年間で最大の行事、「学園祭」の準備に追われていた。園児たちの出し物の衣装や大道具、小道具作り。園内の飾りつけに、出店やゲームコーナーの準備。園児たちの作品の掲示。毎日夜遅くまでてんてこ舞いだが、充実した日々を過ごしていた。
一方、彼の忙しさはそれどころでなく、予算編成とやらで眠る暇も無いらしい。朝の四時に退庁してアパートに帰り、シャワーを浴びてパンをくわえながら八時半までに出勤、ということもざらだと言う。さすがの彼も仕事以外に何もしていないから、メールの内容にも仕事の愚痴が出てくるようになった。それはそれでまた二人の間の壁が少しだけ薄くなったような気がして私にとってはうれしいことだった。
「体を壊さないように」
私はひたすら彼の健康が心配で、そんな内容のメールばかりを送った。
そして、学園祭当日。台風一過の綺麗な秋晴れの日曜日で、小学校の校長先生を退職してからこの施設に来た、園児たちにとってはおじいちゃんのような存在の園長先生は、「みんなの元気とパワーで青空になりました」
と開会式でにこやかに言った。
私は、午前中は園児たちの出し物の黒子をし、午後は園庭のゲームコーナーの担当。仕事は熊の着ぐるみを着て、子どもたちとジャンケンをし、子どもが勝ったら大きなお菓子を、負けたら小さなお菓子をあげるというもの。秋とはいえ、Tシャツとジャージの上に着ぐるみを着ると物凄い暑さで汗だく。しかも近所の子どもたちもたくさん来て、すごい行列。でも、少しでも子どもたちに喜んでもらえるようにオーバーアクションで頑張った。途中で隠れて水分補給しながらも、かなりの重労働でヘトヘトだったが、それでも私にとっては、この上ない幸せな仕事だ。もちろん大好きな子どもたちに囲まれているから。子どもたちが笑ってくれるから。
閉会式まであと一時間ぐらいになったとき、子どもたちの行列の一番後ろを見て私は驚いた。彼がいる。日曜出勤を抜け出して来たのだろう、スーツを着ていて、一人だけ完全に場違いな格好だ。園長先生が来賓かと思い、声をかけている。彼は園長先生と一言二言言葉を交わすとスタスタ私のほうに向かって歩いて来た。すると突然、ダウン症で、まだよだれ掛けを付けている克(かつ)哉(や)くんが彼に飛び掛かった。もちろん悪気は無い。ただ、場違いな格好をした人にじゃれてみたくなっただけだ。
「タアー!」
と言いながらチョップのまねをする克哉くん。私が困ってしまって止めようとした瞬間、彼は、
「ワアー!」
と叫んでスーツのまま後ろに転がった。大喜びの克哉くん、さらにチョップやキックを浴びせる。彼はその度に、
「いてててて!」
と言って転んだり逃げたりしている。スーツは土ぼこりだらけ。突如彼は反撃に出て克哉くんを抱っこしてぐるぐる回しだした。克哉くんはまたまた大喜び。そして彼のスーツの上着は今度はよだれだらけ。
呆気にとられて私が見ていると、彼は克哉くんを抱っこしたまま、私に近付き、
「スーツが汚れたからその着ぐるみ、貸してくれないかな」
と囁いた。
「はあ?」
と私が聞き返すと、
「それ、俺にもやらせて」
と今度は言った。私は戸惑ったが、結局、
「ちょっと休憩!」
と子どもたちに言って、誰もいない教室に行き、着ぐるみを貸してあげた。
ふと私は、すっぴんに汗だくで髪はボサボサ、Tシャツとジャージが汗で体に貼り付いている自分の姿を恥ずかしいと思った。でも彼は、そんなことには目もくれず、熊の着ぐるみの頭以外全部着た姿で、
「最高だな、ここ」
と言って、私にキスをした。そして熊の頭を被ると大急ぎで走って園庭に出て行った。
彼のオーバーアクションはセミプロのはずの私が顔負けの大袈裟さで、子どもたちは閉会間近なのにさらに行列を作った。
「誰よ、あれ?」
私が入っているはずの熊が、私が隣にいるのに動いていることを不思議に思った彩が聞いてきた。他の職員も集まって来て聞いてきた。でも私は答えられなかった。
一年で一番、子どもたちの笑い声で溢れかえっているたんぽぽ学園の中で、私は一人だけ泣いていた。
了
・第1回ケータイ文学賞(ソニー・デジタルエンタテインメント主催 2007年)大賞受賞
・「大人のケータイ小説」(オンブック社発行)掲載
・iBook、Kindle、コミックシーモア等から電子書籍として販売
・現在の著作権は著者に帰属
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