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【小説】レフトアローン(第4,最終話)

第19章 祷り

 「主役が外れて大丈夫か?」と和哉が心配して聞いた。
 「大丈夫。文香が上手くやってくれる」と言って隆次は先にパブを出た。それに付いて行く形で啄郎と和哉、知佳がパブを出て通路を挟んで向かいの店の扉の前に立った。店の名は「ミスティ」。ジャズのスタンダード曲の名前だが、まさにこれから隆次が何をしようとしているのか解らずに戸惑っている三人にぴったりの店の名だった。啄郎が「ミスティ」の扉を開いた。
 狭い店でカウンターの他にボックス席が二つしかない。カウンターの向こうにはバーテンダーが一人。他に店のスタッフはいない。その後ろにはウイスキーやジン、ウォッカなどの瓶が数えきれないほどに並んでいる。店内は全て木目調で統一されていて、壁には酒の瓶をモチーフにしたイラストが額に入って飾られている。照明は暗い。隆次は三人を奥のボックス席に座らせ、カウンターの高い椅子をそちらに向けて座った。
 店にはやはりジャズが流れていた。さっきのパブと同じ有線だろうと啄郎は思った。その証拠にやはりジャズの曲としてはベタな曲が続き、隆次が話を始めようとした時はマイルス・デイビスの「バグス・グルーヴ」がかかっていた。
 「『総括』しようと思うんだ」と隆次は急に切り出した。
 「『総括』って連合赤軍とかの『総括』か?めでたい日に随分と物騒だな」と啄郎が言った。
 「何を総括するんだ?」と和哉が訊いた。
 「亨甫をだよ」と隆次は静かに言った。
 バーテンダーが銘柄は分からないがウィスキーの水割りを全員に出した。スピーカーからは「バグス・グルーヴ」のピアノソロの部分が流れ、セロニアス・モンクがユーモラスで美しい不協和音を星屑のようにキラキラと散りばめていた。
 「いまさら亨甫の何を総括すんだよ」、和哉はパブでアルコールを飲まずに冷ましていたが、また水割りを口にし、少しだけ強い語調で言った。
 すると隆次も水割りを一口飲み、同じような語調で三人が驚くことを言った。「亨甫が自殺したのは右翼思想からの殉死なんかじゃない。あいつが自殺した理由は別にあるんだ。あいつは最後の最後に俺達を裏切りやがった」
 三人は唖然とした。だが一人だけ意味合いの違う驚きをしていた者がいた。
 「自殺の動機が思想じゃないとしたら何だ。それになんでそんなことがお前に分かるんだ」と和哉がさらに語気を強めて言った。
 和哉も啄郎も怯えていた。その後、病気の原因になるほどの出来事、人生の分岐点と言ってもいいほどの事件だっただけにその根本に触れられることは癌の転移を告知されるように怖かった。
 「俺は刑務官だから厳格な守秘義務がある。だが俺は言う。それはみんなのため、自分のため、そして…亨甫のためだ」、隆次はそう言うと何故か知佳を見た。知佳は何も言わず、首を縦にも横にも振らず、隆次を見ていた。
「仙台刑務所に来て2年目だ。見たことがある男が移送されてきた。ヤミ金の社長宅に押し入り、社長と夫人をナイフで脅して金庫を開けさせ5千万円を奪って二人を刺して逃げた。社長は一命を取り留めたが夫人が3か月後に死んだ。強盗殺人罪、無期懲役の重罪犯。経歴を見てすぐに思い出した。『KINKAKU』のマスターさ。刑務所で刑務官と服役囚が私語を交わすことはほとんど無い。だが奴はいつも俺の顔を見ると『ふっ』と笑うように見えた。俺はそれが気になって仕方が無かった。よく考えてみたら生前最後の亨甫に会ったのは奴かも知れないと思った。それで宿直の時に一緒に勤務だった職員に秘密にするよう口止めをして奴を懲罰房に連れて行って話した」、ここまで話すと隆次はまた水割りを口にした。
 他の三人は、身動き一つできなかった。
 隆次は続けた。「奴はこう言った。『あんた達の自殺した友達が殉死だってことになったろ。あれで俺も警察を甘く見ちまったんだよ。あれは殉死なんかじゃねえ。あれは好きな女のケツを追いかけた挙句に暴行未遂して俺んとこに呆然自失として逃げてきたんだよ。噛まれた手の歯形を見せて。腹も蹴られたようだった。それで俺は言ったんだ。相手が被害届を出せばお前は刑務所入りだ。歯形が証拠になる。だからこうやって死ねばカッコが付くってな。もちろん有り金は組織のためにって全部置いて行かせたさ。まあそれまでもたっぷりバイトしてもらって俺がいただいてたんだけどな。それにしてもまさか本当に自殺するとは思わなかったよ』」
 隆次はまるで懲罰房の重い鉄の扉を開こうとしているかのようにしんどそうに話し、疲れた様子を見せたがその辛い作業を続けた。
 「罪状を見ると、奴は右翼組織の支部っていう看板を利用し、それに傾倒してくる純真な若者を騙して金を集めた。3年で500万集めたそうだ。それをバブルに乗じて不動産投資やらに回して一人だけ財テク成金になって遊んでたんだ。結局奴には右翼も三島も無かった。そしてバブルがはじけ「KINKAKU」も潰れ、逆に借金に困った奴は金を借りてたヤミ金の社長宅に押し入ったってわけだ」
 曲はジョン・コルトレーンの「ホワッツ・ニュー」に変わった。コルトレーンの細やかで尚且つ流麗なテナーサックスのバラードが店内の壁や床にまで沁みた。
 隆次は完全に疲れ切っていた。
 「まさか…」、和哉はいろんな意味を含んでそうこぼした。
 「暴行未遂っていうのは…」と啄郎は隆次に訊いた。答えを知りたくなかったが訊くしかなかった。だが隆次は下を向いたまま答えなかった。
 「私…」、知佳はいつの間にか泣いていた。そしてそのままテーブルに泣き崩れ、号泣へと変わっていった。
 その様子を見て隆次が口を開いた。
 「ごめんね、知佳ちゃん。でも知佳ちゃん同様にみんなあの件で苦しんできたんだ。これで終わりにしよう。奴に突っ込んで聞いたら『先に告白してたのに親友に取られた。でもあきらめられない。親友は憎んでないがどうしてもあの娘が欲しかった』って亨甫が言ってたそうだ。それで俺も知佳ちゃんだって分かった」
 知佳はテーブルに臥せて泣き続けていた。
 隆次は戸惑った。自分がしたことが「総括」であったにしろ犠牲者を生む   「総括」になってしまったのではないかと心配した。啄郎も和哉も「奴」や亨甫は忘れ、知佳のことだけを案じた。
 「ごめんね、知佳ちゃん」と隆次がもう一度言うと知佳は頭を振ってか細く「大丈夫」と言った。
 啄郎は隣に座っている知佳の背中をさすったり肩を叩いてあげたかったが自分がその立場にないことも知っていた。ただ知佳の涙が20年間溜めたものなのか時折独りで少しずつ流していたものの残りなのかそれを考えていた。
 知佳の嗚咽だけが店内に響き、しばらく時は流れた。嗚咽が止み、コルトレーンが「ホワッツ・ニュー」を吹き終えたとき、口を開いたのは知佳だった。それはまるで警察の事情聴取に答えているような無機質でゆっくりとした話し振りだった。
 「亨甫先輩は最初からあんなことをしようとして来たんじゃないと思う。亨甫先輩が一人だったから私はアパートの玄関先での立ち話にした。亨甫先輩はそれまでに何度か聞いた私への想いを言った。私は啄郎先輩以外に今は考えられないって繰り返し言った。そうしたら亨甫先輩は解ったからせめて中に入れてゆっくり思い出話をさせてくれって言った。卒業前の思い出にそれぐらいいいだろって。でも私は断った。自分では今でも常識的な判断だったと思う。いくら親しい先輩でも。確かに他の先輩達と一緒の時は入れたけどあの状況からすれば。そしたら亨甫先輩は無理矢理入って来た。20年間なるべく思い出さないで来たのに今でもだいたい覚えている。押し倒されて口を塞がれたのは覚えている。本当に怖かった。殺されるかもしれないって思った。その手を噛んだかも知れないし、お腹を蹴ったかも知れない。でも大きな声を出して、足で床をドンドン鳴らしたら亨甫先輩は逃げていった。木造アパートの2階だったから。一分ほどの出来事だったと思う…」
 続けて話した知佳の言葉にはさらに力は無かった。
 「亨甫先輩が逃げて行って鍵を閉めた後、私に残ったのは啄郎先輩に頼りたい気持ちではなくて、男性に対する恐怖心だけだった。そして四日後に亨甫先輩は死んだ」
 啄郎は愕然としていた。知佳を見られなかった。知佳を守ってやったと思っていたがそれはただの自己満足だった。守ってやったどころか知佳は自分よりも大きな傷を受けていたのではないか。
 啄郎と隆次の気が重くなっているのを察して和哉が言った。「知らなかったよ。本当に情けないけど…。でもどうしようもなかった…」
 隆次も気を取り直して重い口を開いた。「ああ、知佳ちゃんには悪いけど、知佳ちゃんのことも亨甫のこともどうしようもなかったんだ。思想の問題だとしてもなかなか他人がどうこうできるものじゃない。あの時の俺達は考えも若かったんだ。ましてや亨甫の場合、知佳ちゃんに対する失恋と罪と奴に騙されていた事実とが重なってどうにもこうにもならない状態だった。だから俺達にはどうしようもなかったんだ」
 琢郎も亨甫の死については二人と同じ心持ちだった。ただ琢郎は違う立場で混乱していた。
 「でも…」、そう話し始めようとした啄郎を制するように和哉が言った。
 「やめよう。せっかく隆次が人生で一番幸せな日の一部を使ってまで作ってくれた時間だぜ。知佳ちゃんも嫌なことを話してくれた。もういいじゃん。俺は事実を知って正直良かったと思う。あの惨状は忘れられないがあの惨状を招いたのが俺達じゃないって思えるような気がする」
 それに隆次が続けた。「そうしてくれれば助かるよ。俺自身、奴の話を聞いて事実を知り、20年も腑に落ちなかった疑念がだいぶ晴れた。だから守秘義務違反してまでみんなに伝えた。頼むからこれで総括にしてくれ」
 和哉が「隆次、ありがとう」と言った。
 隆次は「知佳ちゃん、ごめんね」とまた言った。
 知佳は「大丈夫」とだけ言った。
 啄郎の混乱は続いていた。だが四人のタイムリミットが迫っていたし、何より隆次と知佳が払った犠牲が報われなければならないと思い、言った。
 「隆次、ありがとう。これで総括にしよう」
 それを聞いて知佳はまた泣き出し「うん、うん」と頷いていた。
 その時、ベタな曲のオンパレードをしていたスピーカーからはあの惨状にも流れていたマル・ウォルドロンの「レフト・アローン」が流れた。亨甫の事件以来、ジャズが好きな啄郎も「レフト・アローン」だけは聴けなかった。知佳も「レフト・アローン」の件は啄郎から聞いて知っていた。あの現場を見た啄郎と隆次、和哉は立ち上がり、ジャッキー・マクリーンのアルトサックスの絶望的に淋しげなメロディーを聴きながら黙祷し、知佳も真似て黙祷した。その祷りは曲の最後のリフレインが終わるまでの6分間続き、四人はもう一度それぞれがそれぞれの「総括」をした。

 四人はパブに一旦戻ったが程なくして二次会は終わり、新婚夫婦と啄郎達三人だけが残った。
 仙台駅西口の歩行者回廊、ペデストリアンデッキの青葉通りが正面に見える場所でみんな解散することになった。
 隆次夫妻は式をしたホテルに今晩泊まり、明日からハワイに行くという。
和哉はJR仙山線で山形へ帰るから新幹線に乗る啄郎と一緒に駅へ向かえば良かったのだが混むと座れないから先に駅に行くと言う。啄郎と知佳に気を遣っているのは明らかだった。
 「混んでたら次の電車にすればいいだろ。何本もあるんだから」と啄郎が言ったが、和哉の気持ちがありがたかった。そして――和哉は昔から気を遣って俺達四人の仲を調整してくれていた。とあらためて思い出した。
和哉が隆次と文香に言った。「文香さん、隆次をよろしくね。こいつ親分肌だから何かとリーダーになっちゃうんだけど実はその分、悩みを人に言えないとこがある。察して聞いてあげてね」
 「はい」と文香は答えた。
 続いて隆次が照れながら和哉に返した。「やかましい…けどありがとう」
次に和哉は啄郎に言った。「啄郎、病気、お互いに頑張ろうな。俺は今日の総括でだいぶ気が晴れた。たぶん病気はいい方に向かう。かみさんとガキのために仕事にしがみつくよ」
 「ああ、俺もしがみつく。必死でな。あれよりしんどいことはそうないだろうから大丈夫だ。和哉も元気で。また近いうちに会えるといいな」
和哉は「おう!」と返し、最後に知佳に「辛い思いを独りで何年も抱えさせてごめんね。もうみんなで共有したから独りじゃないからね」と優しく言い、さらに「山形から活躍を期待してるよ!」とおどけて気障に言い、知佳に向けて親指を突き出した。
 知佳が頷くのと同時に知佳、そしてみんなと握手をして「またな!」と言って駅方向の雑踏に消えて行った。

 和哉が去ると今度は隆次が啄郎と知佳に別れの言葉を言った。やはり啄郎と知佳に気を遣っている。
 隆次が言った。「今日は本当にありがとな。お陰様で今日は二つの意味でいい人生の節目になった」
 啄郎は隆次の懐の広さを実感しつつ言った。「お前のお陰だろ。しかしお前、相変わらず馬鹿だな。結婚式の一日の時間を割いて規則違反までして…。まあ誰も他に公言なんかしないから安心しろ。お前が変わってなくて嬉しかったよ。こっちこそありがと。すっきりしたよ」
 「嘘つけ。お前はまだすっきりなんてしてないよ。昔っからくどいししつこいからな」
 「ホントにすっきりしたって。確かに全部とはいかないけどそれはみんなそうだろ。とにかくお前の総括のお陰で昨日までより何倍もすっきりしたことは確かだ」
 「ゼロにするって訳にはいかないからな」
 「そう。亨甫っていう人間は確かに生きていて俺らの友達だったんだから」
 「そうだな」
 隆次は少し感傷的になり、青葉通りの車の流れに視線を移した。二人のやりとりを知佳は懐かしさとともに文香は幸せとともに見守った。
啄郎はめでたい日だからこそ明るい別れにしなければならないという思いで気を取り直して言った。「蜘蛛の糸を必死に辿ってお前はようやく自由になったんだ。後は健康に気をつけて目一杯幸せになれよ。文香さん頼むね。そして文香さんも目一杯幸せになって。こいつは凄い奴だよ。安心して付いて行って」
 「はい。ありがとうございます」と文香は幸せいっぱいの表情で返事をした。
そして隆次が返した。「お前みたいな病気の奴に『がんばれ』って言っちゃダメらしいが、俺は言うぞ。とにかくがんばれ。病気に負けんな。お前なら勝てる」
 啄郎は目頭が熱くなるのを感じながら言った。「お前の『がんばれ』は特別だな。ありがとう」
 隆次は知佳にも別れの言葉を言った。「俺は仙台にいるから知佳ちゃんの報道はだいたい知ってる。俺はね、知佳ちゃんに国会議員になって欲しいんだ。俺は国家公務員だから国会議員に従う立場だけど公務員としてじゃなく、一人の国民として見てもどいつもこいつも頭はいいのかも知れないけど雲上の人っていう感じ。だから722人もいる国会議員のうち一人でも俺達の気持ちが絶対に解ってくれる人がいたらどんなに素晴らしいだろうって思う。もちろん俺のわがままだから気にしないで」
 「はい。隆次先輩、文香さんも一緒に時々飲みましょうね」、知佳は落ち着いた表情をしていた。
 「それじゃあ、二人の時間を楽しんで!」、隆次は手を振りながらそう言って文香とホテルの方へ歩いて行った。
 「馬鹿!それはこっちの台詞だ!またな!」と啄郎は今日一番の大声で隆次達に向かって言い、隆次はもう一度手を挙げて人込みに消えて行った。
 そしてとうとう啄郎と知佳だけが残った。

第19章 メッセージ

「新幹線、何時?」
 「18時38分」
 「もうすぐじゃない」
 「うん」
 啄郎は引き出物が入ったビジネスバック大の袋を右手に持ち、駅に向かって歩き始め、その左横を知佳が歩いた。
 「懐かしいね。こうやって歩くの」
 「うん」
 「うそ。忘れたでしょ」
 「いや」
 「忘れてないよ、とは言えないよね」
 「…」
 「独身の強み。ちょっと意地悪だったね」
 「そんなことより大丈夫か。有名人が俺なんかと歩いてて」
 「大丈夫よ。別に『独身』だとか報道されてるわけじゃないし。第一立候補なんかしない」
 「だけど研究は一段落するんだろ。出てみてもいいんじゃないか」
 「本気で言ってるの?」
 啄郎は改札口へ近付くと「ちょっと待ってて」と言い、構内のコンビニに走り、戻ってきた。さらに当たり前のように券売機で入場券を買い知佳に渡した。
 「繰り返すようだけど俺も隆次と同じ意見。今の日本の政治にはうんざり。生徒に胸を張って教えられることは何一つ無い。まあ俺は給料泥棒教師だけど」
 改札を抜け、ホームの乗車位置を見つけると、二人とも線路側を向いて並んで立った。
啄郎が続けた。「ネットで見たんだけど知佳は労働組合系の市民フォーラムによく呼ばれて出てる。政和党から出るのはいいんじゃないか。学生運動上がりのかつて左派の党の出身者がたくさんいるし労働組合も支持している。知佳の理念からは外れないだろ」
 そう言うと啄郎はさっきコンビニで買い、引き出物の袋に隠して入れてあった缶のソルティードックを二つ出して言った。「ハーパーは飲めたから」
 「ありがとう」
 「知佳の輝かしい未来と、俺のどんよりした未来に乾杯」
 「何それ。でも乾杯…」
 缶のソルティードックは意外に美味しかった。だが知佳は啄郎の小さなサプライズに喜びながらもやはりしんみりしてしまった。
「やっぱり飲み口に塩が欲しいな」と啄郎が言った。
「無理に決まってるでしょ。じゅうぶん美味しいよ」
啄郎は残された時間が無い中、伝えなければならないことを考えた。が、今の啄郎に話せる話題は他に無かった。「やってみろよ。選ばれた人間にしか来ないチャンスだぞ」
 「でも私なんかに選挙も国会議員も無理に決まってる」
 「俺達の代弁者になって欲しい」
 「無理、無理」と知佳は泣きそうになりながら首を横に振り、続けて呟いた。
 「私は仙台から離れたくないの」
 「仙台?」
 「『AVANT』も『名画座』も無くなったけど仙台からも青葉学院大学からも離れたくないの」
「俺はやっぱりあの日から離れられそうにない」
「やっぱりまだこだわってる」
「しつこいからな」
「私との別れはあっさりしてた」
「あっさりなんかしてない」
「嘘。いずれ私はここから離れない」
「人生の夏休み、知佳が言う泡沫(うたかた)はとっくの昔に終わったよ。全部思い出さ」
 「過去に生きるって決めたの。亨甫先輩とのことがあって、すぐに亨甫先輩が死んで、あの時の私は完全にパニック状態だった。そして男の人が怖かった。だから別れてくださいって言った。でもね、内心引き戻してくれると思ってた。『大丈夫だよ』って言ってくれると思ってた」
 啄郎が言葉を見失っていると啄郎の乗る新幹線が到着するアナウンスが流れた。
「実は大学に勤めてからカウンセリングに行ったの。男性と上手く付き合えなくて。そしたら精神科を紹介されてそこで事件によるPTSDだって言われた。特に大きな症状が無かったから薬も出なかったけど。軽度の男性恐怖症ってとこかな。今は特に不自由は無いから大丈夫」と知佳は近付く新幹線を気にしながら言った。
「本当に?」
「私は過去に生きればそれで幸せ。だから過去ばっかり研究してる。特に『バブル』」
 新幹線がホームに到着してドアが開いた。啄郎は必死に言葉を探し、強がって言った。「前言撤回。俺もずっと過去を引きずって歩いてきたけど今日を区切りに今とこれからのことを見て生きる。亨甫のことも必死で乗り越える。病気も。だから知佳も自分の未来を…」
 啄郎は新幹線のデッキに乗り、ホームの知佳に右手を伸ばして二人は握手した。知佳は全く怖さを感じなかった。啄郎は知佳の手の感触を驚くほど覚えていたが、それを知佳に話す時間は無かった。
 「私にはできないよ」と知佳が言い終わるのと同時にドアは閉まり、二人の手は離れた。
 啄郎は窓越しにただ知佳を見つめた。知佳は動き出した新幹線の中の啄郎に向かい、やはり聞こえない「さよなら」を言った。
  *
 新幹線の座席で薄暗くなり始めた車窓の景色をぼんやりと眺めながら拓郎は自分の愚かさ、無力さに苛まれていた。
 ――あの時、俺は大きなショックのせいで茫然自失としたまま知佳から切り出された別れ話に頷いた。ただ知佳だけは守ったつもりでいた。でもそうじゃなかった。俺は自分のことしか考えていなかったんじゃないか。知佳は女性として俺以上に傷ついていた。俺はいい、里恵がいる。苦しみを共有してくれる家族がいる。だけど知佳は20年間一人で苦しんでいた。もしあの時、知佳の心の傷に気付いていたら俺は知佳を離さなかっただろう。絶対に。そうすれば二人のその後の人生は変わったかも知れない。いや、あの時の俺に傷ついた知佳を受け止める度量があっただろうか。今だってこんなに心が弱くてちっぽけな人間なのに。やはりこれが運命だったんだろうか。運命とはこういうものなんだろうか。
 亨甫についてもそうだ。俺が一番亨甫の性格を知っていた。隆次は「裏切り」と言った。でもそうだろうか。あいつは四人の中で抜きん出て純粋だった。だから思想にも傾倒していった。知佳への想いも純粋だったのだろう。知佳のアパートの玄関で「思い出話をさせてくれ」って言ったのも本心だったかも知れない。そしてKINKAKUのマスターの脅しをまともに受け止めて死んだ。それも運命と片付けていいものだろうか。
 知佳はスピーチで世の中のほとんどが必然ではなくて偶然でできているのかも知れないと言った。本当にそうだろうか。
 俺はあの時、いやあれから20年間何をしてたんだろう…。
 琢郎は盛岡に着くまでの約一時間、同じ事を考える堂々巡りを繰り返し、その間に間にホームからこちら見つめ、聞こえない「さよなら」を言っていた知佳の愛おしい姿を思い出していた。
  *
 知佳はマンションに帰るとダイニングの椅子に腰掛け、しばらく呆然としていた。もう泣いてはいなかった。
 しかしふと壁のコルクボードに貼っている「AVANT」のコースターが目に留まった。ピンを抜き、コースターを手に取って裏のメッセージを見た。そしてまた泣き崩れた。
 「Merry Christmas! 10年後、20年後、100年後のクリスマスも一緒に。1988.12.24 知佳へ 啄郎」

終章 啄郎(8)

 残暑が去り、秋が深まり始めた9月末、啄郎はいつもの平日の朝を迎えていた。
 その日は所々から青空が顔を出す曇り空で、大きな雲が岩手山にかかり、中腹から下しか見えなかった。それでも気温は20度前後で盛岡は啄郎の五感で感じて一年で一番いい季節を迎えていた。
 しかし啄郎は鬱の中にいた。しばらく来ていなかった鬱に入り二日目。ただ軽い鬱だからどうにか仕事には行けそうだ。
 給料泥棒教師を自認する啄郎だが公民科の教員としてニュース番組は欠かせない。だるい頭で身支度し、食卓に着いた啄郎は新聞を広げ、チャンネルを情報番組からニュースに変えた。ローカルニュースでは岩手県南で稲刈りが始まったニュースが流れていた。
 里恵の勤める中学校は啄郎の高校よりも近い。中学生の子供二人は啄郎よりも早く出かけるが、里恵と園実は啄郎より後に出る。
 里恵が作る朝食はハムエッグがウインナーとスクランブルエッグに変わるぐらいで、あとはトーストとサラダ、コーヒーと決まっていたが、啄郎はこのビジネスホテルのモーニングセットのような朝食が気に入っていた。
 コーヒーをすすりながら新聞を読んでいると里恵が驚いて言った。「あれ、知佳先輩じゃない」
 啄郎は反射的にテレビに視線を移した。
 ローカルニュースは全国ニュースに切り替わっていた。
 そこには落ち着いたクリーム色のスカートスーツに身を包み、記者会見をしている知佳が映っていた。ブラウスの襟元のネックレスと耳元に真珠が一粒ずつ、左胸にはハープのようにも鈴蘭のようにも見える銀色のブローチが輝いている。背景にはおおよそ30センチ四方の白と緑の市松模様で、白には緑で大学名が緑には白で校章が書かれた大きなパネルがあった。テーブルに見慣れた政和党のマークがついた白地の旗が貼られていたが、そこが青葉学院大学なのは明らかだった。知佳の両脇には派手なネクタイを締めたどことなく見覚えがある学長らしき人物と政治家らしきバッジをつけた男性が座っていた。
 次期衆議院議員補欠選挙の立候補表明会見で近く予想される解散に伴う総選挙の前哨戦として、さらに党の副総裁の後継候補に大学の女性准教授が出馬するということで注目され全国放送されていた。
 知佳の表情は啄郎が一度も観たことがないもので凛としていた。
 「これまでの日本の政治や今の政治をダメだと言うばかりではなく、これまでの政治をよく知り、尊敬するべきところは尊敬しなければ政治家を志す者としては失格だと思います。私はこれまでの研究で身に付けた過去の政治を礎に今を考え、子供達の未来を見据えて誠実に政治に取り組みたいと思います」
里恵は手をタオルで拭きながらテレビの前に立ち「知佳先輩、凄い!」と興奮気味にニュースに見入っていた。
 「おい、突っ立ってテレビ見てると遅れるぞ。しかし党はいいとして大学の宣伝みたいだな」、啄郎はそう言うと、新聞を綺麗に閉じてテーブルに置き、三錠の薬を水で流し込んだ。
 そして一息おいて立ち上がり、こちらを向いた里恵に、「いつもありがとな」と言った。
 「何、それ?」と里恵がいつもの微笑みを浮かべながら返したが、琢郎はそれに応えず、上着を着て玄関に向かった。

 リビングから聞こえる知佳の華々しいニュースを背に啄郎はいつも通り、ベルトの色に合わせて靴を選んで履いた。
 しかし啄郎はただ出勤するのではない。人生の夏休みの宿題を片付けに行くのだ。
 隆次の結婚式以来、宿題は若干減ったが新たな宿題がまた増え、残る量は途方もないほどにまだ多い。
 「こつこつ行くか」と啄郎は静かに呟き、鬱で重い頭を上げて立ち上がった。
 「いってきます」
 ドアを開けると思いがけない強い風が入り込んできた。
(了)

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