コーヒー&シガレッツ、やめられない私のルーティン
ジム・ジャームッシュの作品に『コーヒー&シガレッツ』という奇怪だが、とってもクールな映画がある。
なにが奇怪かというと、この映画、さまざまな登場人物が、入れ替わり立ち替わりカフェにやってきて、コーヒーを飲み、タバコをくゆらしながらだべっているというシーンが、延々と続くのだ。ジャームッシュのカフェ愛、タバコ愛溢れる作品となっている。
タバコ愛という点でいくと、フランスの哲学者のジャン=ポール・サルトルがいる。サルトルは晩年、『ニューズウィーク』誌のインタヴューで、「現在あなたの生活で最も大切なことは何ですか?」という質問に対して、「さぁ、わかりませんね。 すべてだな。 生きること。 煙草を吸うこと」とさえ答えている。サルトルにとって、喫煙なき人生は生きるに値しなかったようだ。
ジャームッシュのクールすぎる映画や、哲学者サルトルの言葉を持ち出すことで、けっして喫煙自体を美化したいわけではないのだが、私自身、タバコをもう二十数年吸い続けている。止めようと思ったことは一度もない。
祖父もヘビースモーカーだった。銘柄は確か、「俺の赤」のキャッチコピーの「キャビン」だったと思う。私は祖父の遺伝を受け継いだ、わが家系唯一のスモーカーとなってしまった。
「コーヒー&シガレッツ」と英語表記にすれば、なんだかカッコいいのだが、多くの日本のおじさんにとっては、「缶コーヒー&たばこ」って感じだろう。
人の好みはいろいろだろうが、私にとって、タバコに欠かせない缶コーヒーは、砂糖たっぷりの甘い缶コーヒーだ。ジョージアエメラルドマウンテン、ワンダ モーニングショット、これが今の私にとっての黄金比といえる。
もちろん、ブラックも飲む。だが、ブラックを飲むなら缶コーヒーではない、という妙なこだわりがある(笑)。ブラックを飲むならやはりお店のもの、ドトール、ルノアール、タリーズ。最近ではコンビニのコーヒーも侮れない。
夏はアイス、冬はホット。いずれも、タバコとの相性はよい。季節で飲み分けている、とも限らない。気分によっては、寒い日にアイス、熱い日にホット、なんてこともある。
タバコを吸う時間は、人それぞれだろうし、ほぼ毎時間といってもいいくらいなのだが、欠かさない習慣、儀式的なところでいけば、やはり、仕事の前の一服だろう。これがないと、その日の調子がくるってしまうので、これだけは欠かせないのだ。
昔から、たとえば古代世界のアメリカインディアンなんかにおいては、煙は神聖なものであり、神と交信するための手段として、宗教儀式や戦いの儀式の際に使われていたようだ。パイプを吸って、吐き出される煙の形から、未来や吉凶を占ってさえいたらしい。
職場はいつだって戦場である。サラリーマンはみな、ソルジャーである。私は、そんな戦場におもむく前に、その日の調子を、煙で見極めているのかもしれない。これは、あながち比喩ではない。タバコがうまい朝は、やはり仕事も調子がよいのだ。逆に、どうもタバコがうまく感じられない朝は、何をしても調子が出ない、というのがある。単純にタバコがうまく感じる時ほど、体調がいいというだけなのかもしれないが(笑)
しかし、なんといってもタバコがいちばん美味く感じる瞬間とは、酒を飲んでいる時、かつ、脂っこいものを食べた後の一服である。これは美味いという次元ではない。もはや至福である。
みなさんの周りにもいないだろうか。普段はタバコなど吸いませんと、禁煙していますと言っているにも関わらず、飲み屋に行って酒に酔うと、タバコが吸いたくなって、喫煙している人からお裾分けしてもらう方々・・。
これは、そう。酒と脂と煙のマリアージュ。この味の記憶を一度でも持つものは、それが忘れられず、ついつい今夜だけはと言って、禁断の誘惑に手を出してしまうわけである。
だが、喫煙者が、今日ほど肩身の狭い思いをする時代はない。作家の筒井康隆氏が書いた小説『最後の喫煙者』が、未来の予言書だったと思えるくらいに、リアリティを持って、喫煙者排除に向けた世界が迫ってきている。それでも私はタバコをやめることはないだろう。
最後に、タバコは歴史的にも、アメリカインディアンが生み出した神との交流のための宗教的手段でもあったということ、その後、西洋の植民地支配により嗜好品としてブルジョア社会で高級品として扱われ、労働者階級にも広がり、芸術や文化的なものとは切り離せないものになっていった、ということは記しておきたい。
ジャームッシュに限らず、映画はほとんどそう。西部劇、ギャング映画、魅力的な女性が出てくる映画に、タバコというアイテムは欠かせない。
文学においてもそう。文豪とタバコもまた、切り離すことができない。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、中原中也、坂口安吾、中上健次、村上龍・・・あげればきりがない。
とりわけ、映画において、「煙」というものは、白黒映画においてこそ、映えるものだが、映画作家は、煙の動きで、時間の流れであるとか、空間における重み、軽さ、登場人物の陽気な気持ち、沈んだ気持ち、高揚感やパッション、あるいは苛立ち、焦燥、不安、怯えなどを表現しているといえる。
ジャン・リュック・ゴダールの映画で、もしアンナ・カリーナがタバコを吸っていなかったら、『気狂いピエロ』も『女と男のいる舗道』もまったく違う映画になっていただろうし、タバコを吸わないアンナ・カリーナなど、アンナ・カリーナではないのである。
なぜ、タバコを吸うのか、と問われれば、私もサルトルと同じように「人生」と言うのだろう。人が、その人生において、生活の余剰として、あらゆる嗜好を必要としてしまうように、本を読むように、映画を見るように、絵を描くように、音楽を聴くように、ゴルフをやるように、釣りをするように、ファッションやショッピング、レジャーを楽しむように、それらとまったっく同じ「生活の余剰」(それは現代人においては「人生」とイコールだ)として、タバコを吸うのだと。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?