小説|腐った祝祭 第一章 23
12月に入ると、お忍びで皇太子が大使館を訪ねてきた。
街には雪が10センチから20センチほど積もっていたが、空は晴れていた。
なにも大使館に「忍んで」来なくとも、という感はあるが、正式に来るとなると一つのニュースになってしまう。それではもちろん、一人きりでは来られなかっただろう。
皇太子は一人で街の馬車を拾って大使館前に乗りつけると、多めの料金を払ってすばやく馬車を行かせた。それから警備員に話をつけ、クラウルが電話で呼ばれて慌てて駆けつけた。
「お、お懐かしゅうございます」
寒さのためか緊張のためか、クラウルは挨拶を噛んでしまう。
「うん。元気そうで何よりだ」
クラウルはコートを着ていない寒さも忘れて、慇懃に皇太子を屋敷に案内した。
ふたりが玄関に入ったところに、ちょうどサトルは駆けつけた。
クラウルに言いつけられた女中から王子が来たと聞いて、走ってきたのだ。
「これは殿下!驚きました。どうされたんですか?」
「どうしたもこうしたも、いったい君はいつまで焦らして……。なんだか、忙しそうだな?」
皇太子はサトルやクラウル、控えている女中たちを見回して、訝しげに言う。
みんなが意気の揚がった雰囲気をみなぎらせていた。
「タイミングが悪かったか?アポイントメントを取っておいた方がよかったのかな」
「とんでもない。歓迎しています。ただちょっと、問題が発生していまして。クラウル、後は頼んでいいかな?」
「もちろんでございます。お任せくださいませ」
「それでは殿下、えっと、そうだな、本館へ行きましょう。あちらの応接室の方が広いし、落ち着ける」
「私は何処でもいいがね」
サトルはご足労をかけますと言って、公邸の玄関を出て本館へ案内する。
女中たちが緊張気味にお茶の用意をしたりコートをかけたりしているところを見ると、よほど普段は気が抜けているらしいなと、サトルは思った。
ソファーに落ち着くと、皇太子は言った。
「いったい何が起きているんだ?クーデターでも勃発したのか」
「まあ、似たようなものですね」
「どうした?」
「ナオミが見つからなくて」
「は?」
サトルは少し笑ってから説明をした。
「今朝からエステティシャンを呼んでいたんです。我々の国は湿度が高くて、乾燥ぎみのこの地の気候は彼女の肌に合っていないんです。そのうち慣れるとは思いますが、今のところ彼女の肌はそのために酷い状態なんですよ。手の甲なんてアカギレで痛々しいほどです。あれを見たら、きっと殿下は私を軽蔑するでしょうね。自分の婚約者に川での洗濯を言いつけているとお思いになります」
「そんなに酷い荒れ方なのかい?」
「ええ、見てるこっちが痛いくらいで。正直、女中たちの手の方が艶々しています」
サトルは女中の一人に「ね?」と、声をかけた。
彼女は緊張の面持ちで、そっと頷いた。
皇太子は信じられないと言うように首を振る。
「それで?」
「ええ。ナオミは薬をつけていれば平気だと言うんですが、一週間様子を見ても大した改善は見られなかったんです。それで先程、皮膚科医の資格を持ったエステティシャンに来てもらって、手の手入れをしてもらいました。それまでは良かったんですが、ボディーマッサージもすると言ったら、嫌がって逃げ出したんですよ」
「エステティシャンは男なのか?」
「いいえ。女性ですよ。私が男をつれてくると思いますか?大事な婚約者のマッサージに」
「まあ、それはそうだな」
「可笑しいでしょう。そりゃ裸になるのは少しは恥ずかしいでしょうが、だからってじろじろ見られるわけでなし、ただベッドにうつ伏せに寝てればいいだけなんですよ。そんなに恥ずかしがることないのに」
「それで、家人総出でナオミの捜索を?」
「ええ。彼女はかくれんぼが好きでして、最近は屋敷の間取りをほとんど覚えてしまったんです。だから探す方も大変なんですよ。実に巧妙に隠れるんです。もしかしたら屋根裏にも潜り込むかもしれない。これじゃ使用人を増やすことになるかもしれません」
皇太子は笑って言った。
「大使夫人特別捜索隊結成か」
「ええ。もしくは、大使夫人かくれんぼ同盟」
「それがいい。敵対するより、仲間を増やそう」
二人は一息ついてお茶を飲んだ。
「それで、急にどうされたんですか?殿下にこんな所まで来ていただけるなんて、驚きました。そろそろお忙しい時期でしょう?」
「そうだった。本題を忘れる所だった。君たちの話だよ。どうなってるんだ?まだ婚約もできないのか?」
「ああ」
サトルは頼りなく微笑む。
「説得は続けているんですが、どうも、私が向こうに行くか、向こうがこちらに来るかしないと話は進まないようです」
「なんだ、人事みたいに」
「いやいや、そういうつもりではないんですが。ナオミの会社の問題は解決しました。正式に退職したんです。あちらも、ナオミに帰る気がないのだけは判ってくれたようで、いろいろと世話を焼いてくれたんです。急な退職なので手続き上、給料面ではナオミに損をさせることになったんですが、ナオミは今まであまり休みを取っていなかったので有給休暇がずいぶん残っていて、それほど……。ハハッ、殿下にこんな話をしても、ピンと来ないでしょう」
「なんだ?バカにして。僕の恋人だって月給取りだぞ」
皇太子は張り合うように、少し威張ってそう言った。
サトルはクスクスと笑う。
「すみません」
「君は帰れないのか?僕ができることなら」
「いや、殿下の手を煩わせる訳には。補佐官か参事官か、とりあえず代理人が来てくれるのを待つのみです。要望書は出しましたが、年内は無理のようですね。年が明けても、せっかくの休みに誰もすぐには来てはくれないでしょうし、こちらの外務省の審査もありますから」
「ああ、やっぱり審査するって言ってたかい。そっちなら僕が、」
サトルは苦笑いで首を振る。
「私は審査して欲しいんです。自国の恥になるような人間をこの国に入れたくないので」
「君は、すっかりルル人だな」
「そうですね」
「ナオミの両親は?」
「ご両親揃ってでないと行けないという事で、まとまった休みが取れるのは春になるようです。たぶん4月になるでしょう」
「気の長い話だな」
「あちらにしたら、私たちの方が気が早いと言われるんじゃないかな。ご両親はまだ結婚に納得されていないから、その気持ちもあるんだと思います。私に会わないうちは、私たちは確実に結婚できないですからね。でも、もしかしたら私の休暇よりも、そちらの方が早いかもしれないんです。それに実は、ナオミは帰国には消極的なんですよ。私以上と言ってもいいかも知れない」
「ほう」
「だから、最近では、のんびりご両親をここで待とうという気持ちでいます。すみません報告が遅れて。でも、お判りでしょう?」
「結局、何も進んでないんじゃないか」
「そういうことなんです」
「こら。笑ってないで、なにか考えようじゃないか。ご両親の了解や、役所に届け出る書類の問題以外に、問題はないんだろう?つまり、君たち二人の気持ちは固まっているんだろう?」
「ええ」
サトルが答えると、皇太子はなぜか照れくさそうに笑った。
「どうされたんです?」
「君が真面目な顔をしているからさ」
「酷いな、殿下」
「すまない、すまない。身内だけで披露宴をするとか、何かないかな?」
「しかし、正式に結婚してまた挙式、披露宴と、かなり面倒なことになりますよ」
「自分の結婚をそんな風に言うものじゃないよ。それに、みんなパーティーが好きなんだ。文句はないだろう」
「そうですね。ナオミと相談してみます」
「へえ。自分勝手に何でも決めていた男が、そう来たか。なかなか成長したね」
「素晴らしい成長ぶりでしょう」
「ああ。認めよう。そうなれば、ナオミがこの場にいれば話は速く進んだのにな」
「すみません」
「ま、いいよ。ゆっくり考えなさい。私は今日のことをモルガに報告しなくちゃ」
「お互い、なんだかジワジワと自由を失っている気がしませんか?」
「バカだな。今頃気付いたか。もう遅いよ。君もとうとう蟻地獄の巣の中さ。でもいいだろう?底で牙を剥いてるのは愛らしいナオミなんだから」
「そうですね。運命を受け入れて、喜んで身を捧げましょう」
皇太子は笑って頷き、ポケットから封筒を取り出した。
サトルに手渡す。
「『冬の月夜にシューベルトのアヴェ・マリアを聴く集い』のチケットだよ。二人でおいで」
「頂いてよろしいんですか?」
ルル国立劇場で開催されるもので、タイトルのアヴェ・マリアのステージの後に、オペラの公演が続くという趣向のものだ。
何の演目が上演されるかは上演開始まで秘密になっていた。
もちろん観客の期待を裏切らない素晴らしい舞台が用意されている、毎年恒例の人気のチケットだ。
簡単に2枚もプレゼントできるのは皇太子ならではの事だろう。
サトルの場合は、無理をしてチケットを取ったことはないが、2回ほど女にもらって行ったことがある。
「とりあえず前祝だ。今年はクリスマス前にあるようだね」
「晴れたらいいですね」
月夜の、と銘打っていても、上手く夜空に月がでているかどうかは天気次第だ。
公演日程は、雲がかかっていても、その上には月のある夜に決められている。