小説|腐った祝祭 第一章 21
その夜はナオミとは別行動だった。
誰だかがオーナーのサロンでの集まりだった。
それほど重要なものではなかったので、気晴らしのつもりで足を運んだ。
医者によればナオミの体調は心配するようなものではなかったが、寒い夜に無理をさせるのも可哀相だ。
来てみると、皇太子の顔を見つけて、来て良かったと思う。
モルガの姿はなかった。
皇太子はサトルの顔を見るなり言った。
「あれ、スピード破局かい?」
サトルは挑戦的な微笑を返してやった。
「残念ですか、殿下を追い越してしまいましたよ」
「え?どういうことかな」
「婚約しました」
「ええ!」
皇太子の大声は、さすがに周りの注目を集めた。
すぐに数人に囲まれた。
皇太子は発表していいのかと目で聞き、サトルは駄目だと目で答える。
皇太子は先月、隣国のカジノで五千万を勝ち取った者がでたという話にすり替えてくれた。
しばらくカジノの話で時間が流れ、人も増え、ここにもカードくらい出来るテーブルを設置しようという話でまとまった。
室内楽の設備は整っているが、ゲームの設備は一つもなかったからだ。
実際そうなるかは疑問だが、二人は歓談の輪からひっそりと抜け出すことに成功する。
サトルは壁際まで押しやられた。
「誤解されますよ、殿下」
「バカ者、笑ってる場合じゃないぞ。本当か?ナオミと?」
「ええ」
「何てことだ。なぜ早く言わない?大々的に発表しろ。僕の屋敷を会場として提供するぞ。それともこっそり済ませてしまうつもりだったか?この悪党!」
「興奮なさらないでください。あちらのご両親の了解がまだなんです。だから、婚約と言ってもまだ正式では」
「反対か?浮名を流し過ぎた報いを受けたか?ハハハ、様あ見ろ、堕天使め」
「殿下。先程から不適切な単語がちらほら聞こえますが」
「まったくもって適切じゃないか。フフフ、そうか、君がとうとう。フフフ」
なにが嬉しいのか、この国の心優しい王子様は、多少気味の悪い笑い声をお出しになった。
「それで、どうして反対されてるのかな?」
「いいえ。全てはこれからなんです。今あちらにお伺いを立てている最中です」
「ほう、そうかい。なるほどね。じゃあ、ことは極秘裏に進めないとね。そうかそうか。モルガもきっと張り切るよ。料理人を紹介すると言い出すに決まっている。彼女の友人に最高のフレンチのシェフがいるんだ。今はフランスにいるから呼び寄せると言うだろうね。もしかしたらウェディングプランナーを自ら買って出るかもしれない。いやね、モルガは君のことを心配していたんだよ。君は何かしら放っておけない気持ちに女性をさせるようだから。フフフ」
「殿下、いつになるか判らないんです。ありがたいのですが、あまり今から張り切っていただくのは、プレッシャーを感じます」
「プレッシャー?君が」
皇太子はことさらに笑った。
「安心しろ。いきなり明日、式場を確保したりはしないよ。まずは婚約披露パーティーだ。順を追って進めよう。進展状況は僕に逐一報告するんだぞ」
サトルは素直な気持ちで嬉しかった。
胸に手をあてて、皇太子に敬意を表する。
「ありがとうございます。その命令に感謝します」
「かしこまるなんてがらじゃないよ。君は私の大事な友人なんだから」
皇太子は自分の結婚の悩みは棚に上げ、あるいは一時的にでも忘れたかったのかもしれないが、「リディア湖で、湖上のウェディングというのもなかなか……」などと呟いていた。
しばらくして二人はそれぞれに場所を離れ、サトルは宮廷画家のフェルという男を紹介された。
正式にはフェルメールで、通称がフェルだということだ。
名前は聞いていたが、実際に会うのは初めてだった。
グレーっぽい金髪とグレーの瞳を持っている。巻き毛でやや長めの髪だが、さっぱりした雰囲気があり、背は高く細身。
芸術家と言われればそう見えるし、証券コンサルタントと言われればそう見えるし、物理学者だと言われればそう見える、といった感じの男だった。
「それでは、あのプリンセスの絵をお描きになったのは貴方ですね」
「ええ、そうです。ご自身はあまりお気に召されなかったようですが」
「私は彼女の評価を耳にしましたよ」
「え、本当ですか?私には何もおっしゃっていただけないのですよ。遠慮されているようなんです。プリンセスは何と?」
「五割増しだと」
フェルは一瞬の後、苦笑いをした。
「そんなに美化した覚えはないのに。どうして彼女は気に入ってくれないんでしょうかね」
「あまりに美しく描かれているのに、ご自分に似ていたので照れくさかったのじゃないでしょうか。勝気な方ですが、そういうシャイな所もおありですから」
「そうだといいんですが」
フェルの話によれば、宮廷画家といっても宮廷に召されているのではなくて、住まいは市内にあるとのことだった。
それに仕事は、王家の依頼が最優先なのは当たり前だが、それ以外にも受け付けているという。
「宮廷からの仕事は年に一度あるかないかですから、怠けていられないのです。何年もかかる大作を命じられれば別ですが、そういうのは今のところありませんから」
「それなら、例えば私が依頼しても受けていただけるのですか?」
「もちろんですとも」
フェルはおざなりでない笑顔を見せてくれた。
しばらくして、赤いドレスの女がフェルを頼りに近付いてきた。
大きなウェーブの長く美しい赤毛で、瞳は茶色だった。
フェルが彼女を紹介した。
「ヘレンです。彼女にはよくモデルを頼んでいるんです」
サトルはヘレンと握手を交わした。
そのうちヘレンは、フェルに態度で「邪魔だからあっちへ行って」と頼む。
フェルはかぶりを振ってその場を離れ、サトルはヘレンと二人になった。
サトルはそれが礼儀のような気がしたので、新しいグラスを彼女と自分のために取り、改めて乾杯した。
「モデルというだけあって、お美しい方だ」
「ありがとう。大使にそう言っていただけるなんて光栄だわ。でも、モデルは本業じゃないの。フェルに頼まれたから時々ね」
「そうですか」
「でもちゃんと働いてるのよ。レジャーな身分じゃないの」
「普段は何を?」
「なんに見えて?」
あまり楽しい会話ではなかった。
ヘレンはしなを作る話し方をした。
やたらに首を傾げ、うっとりとした目付きでサトルを見上げる。
そのたびに髪が揺れ、甘い香りを周囲に撒き散らした。
なにか気の利いた返事でもしてやりたかったが、そんな気持ちも萎える匂いだった。
安物ではない。懐かしさも覚えるが、今はなぜか鼻につく嫌な臭いに感じる。
「さあ?」
サトルが曖昧に微笑むと、やはり女はがっかりしたようだ。
ヘレンは言った。
「銀行員なの」
「ほう」
「意外でしょう?いつもそう言われるの。ルルの銀行はお堅いことで有名ですもの」
「そうですね」
「でも、お給料がいいから絶対銀行に勤めようって、学生の頃から狙ってたのよ」
「優秀な方なんですね。銀行の採用試験は難関だと聞いています」
「そうよ。でも、意地悪な女がいるの。あたしは面接だけで受かったんだと言うのよ。そんな訳ないと思わない?」
「それは酷い」
同情を顔に表してみせた。
しかし、この女の銀行を利用することは避けたいと思った。
ヘレンはフェルに出会ったのは窓口で受付をしている時だと言った。受付でいきなりモデルの申し込みをされたそうだ。確かに銀行の窓口にこの女が座っていれば人目を引くだろう。小さな額の取り引きをするのをためらう男も多いだろう。預金を増やす者も出てくるに違いない。
銀行の選択はある意味成功だ。
「でも、銀行員っていうのはここでは内緒よ、閣下。フェルに頼んで連れてきてもらったの。ここでは宮廷画家お抱えのモデルなのよ」
「判りました。でも、銀行員でも構わないとは思いますが」
「駄目よ。そんな肩書きじゃ、きっとこのサロンには入れなかったわ。それに、そんなのつまらない。暗くてカサカサした女だと思われるわ」
「あなたなら、どこのパーティーでも人気者でしょう」
「まあ、嬉しい。ねえ、閣下。どうしてあたしが貴方にだけ白状したかお判り?」
退屈な会話だった。
誰か助けに来てくれる者はないだろうかと、そっと辺りを見渡すが、誰もが無関心を装っていた。
近くのテーブルでキャビアを突いている小太りの男がいたが、それなどは明らかに装っていた。
きっと気を利かせているのだろうが、大きなお世話だ。
唯一の救いの友は、ずいぶん離れた場所で楽しい会話に包まれている。
「閣下。誰もあたしたちを見ていないわ。気になさらなくてもいいのに」
「ああ、そうですね。美女を前にすると、いつも周囲を気にしてしまうんです」
「ふふ。あたしが聞いていた噂とは何となく違うのね」
「噂ですか」
「ええ。あなたの噂はよく耳にするのよ。紙幣を数えすぎて乾燥肌になってる女だって、パーティーに出かける機会くらいはあるの。今日ほど上品なパーティーにはなかなか出られないけど、そこでは女の子たちの話題に、あなたのことがよく登っているの。やっとお会いできてとても嬉しいわ」
「私もあなたのようなお美しい方に会えて嬉しいですよ。何か料理を取ってきましょうか?」
「いいえ。カクテルなら」
カクテルなら給仕がすぐに持ってきてくれた。
サトルは逃げる機会を失った。
「ごめんなさい。銀行の話なんかつまらなかったわね」
そんなことはありませんよと、サトルは慰めた。
「閣下は絵にご興味が?」
「多少は。友人の大使の一人が画家でして、彼から偶に授業を受けるんです」
「そう。あたし、フェルの絵はとても好きなの。あなたはご自身でお描きになることは?」
「それはありませんね。残念ながら、そういう才能はないようです」
ヘレンはサトルに体を寄せて囁いた。
彼女の名誉のために言えば、彼女は本当に美しい容姿の女だった。
少なくとも宮廷画家の目を奪うほどには美人だった。
彼女に囁かれてなびかない男は、そうは多くないだろう。
「あたしを描く気にはならなくて?あたし、フェルにはいつもヌードモデルを頼まれているの。フェル以外にはそんな仕事しないつもりでいたんだけど、相手が閣下なら、喜んで引き受けたいと思うわ」
ヘレンは偶に見るタイプの女だった。
しかしそれは、恋人がいない時でもサトルが誘ったりはしないタイプだ。
サトルはヘレンを見つめ、微笑んだ。
それであきらめて欲しいと思った。
「あなたの前でなら、どんなポーズでもとれそうよ」
あきらめてくれなかった。
サトルはとうとう口調を変えてしまった。
「君みたいな魅力的な女を、他の男たちが放っておく筈はないね」
「あら、そう思う?」
「興味が出てきた。どれだけの男のモデルになったんだい?ヘレン。君の才能がどれほどのものか、聞かせてくれないか。才能豊かな女は好きだよ」
「あら、悪趣味ね」
そう言いながらヘレンは笑った。
赤い唇が蜜のように輝いている。
「才能という点では…いろいろよ。きっといろんなことが得意よ。自信があるの。あたしの画家たちはいつも私を褒めてくれるもの。とてもお利口なモデルだと思うわ。きっと閣下だって褒めてくれるわ。あたしあなたの存在を知ってから、ずっと試したいと思ってたの。あなたの画法とか、技術とか、タッチとか。ねえ、これから二人でアトリエに行かない?早くあたしの絵を描いて欲しいわ」
サトルは残念そうに首を振った。
この女の生活習慣は、おそらく20パーセントくらいは理解できた気がした。
「悪いが、アトリエには行けないね。言っただろう?絵の才能はないんだ。君はきっとがっかりするよ」
「謙遜してるの?それとも本当のこと?あたしは絵画教室の先生の資格も持ってるの。自信がないのなら教えてあげるわ」
ヘレンはまだ優しく微笑んでいた。
彼女には本心を言わなければならないのだろう。
女を傷付けるのは、サトルの本意ではないのだが。
「正直言うと、私は臆病者なんだ。君みたいな女を見ると怯んでしまう。ゴメンね」
「嘘よ。あなたはそんな男じゃないはずよ」
ヘレンは自信を持って言った。
「君の聞いた噂がデマだったんだよ、きっと」
ヘレンはやっと表情をくもらせた。
自尊心の高いヘレンにとって、それはあり得ない事だったのかもしれない。
「気に入らないって言うの?」
「怒らないでくれ。君が美人なのは私だって理解している。パーツの配置も曲線も申し分ない。美しい赤毛に滑らかな肌。誰もがうっとりするだろう。今まで君の存在を知らなかった自分に驚くくらいさ。フェルが一目惚れしても仕方ない」
「じゃあ何が気に入らないの?」
「二度も言うのは恥ずかしいが、臆病者なんだ」
「意味が判らないわ」
「判った。はっきり言うよ」
言うしかなかった。
「淋病なんかにはかかりたくないんだ。君も気をつけた方がいい。どんな予防策も絶対なんてことはあり得ないんだからね。もし下半身の病気が原因で死んだりしたらどうする?死体が一つ地上に増えるだけじゃない。身内のいたたまれなさが増え、弔辞を考える者が余計な苦労を強いられることになる」
グラスの酒を顔にかけられた。
それは素晴らしい早わざで、酒は目に入ってしまった。
ヘレンの瞳は怒りで燃えるように輝いていたが、そう見えるのは目がしみているせいだけではないだろう。
ヘレンは酒と睨みだけでは足りずに、サトルの足をピンヒールで思い切り踏んづけてから会場を後にした。
会場のほとんど全ての人間が二人の様子を見守っていた。
女が出て行った後に、しんとしていた会場内がざわつき始める。
取り残されたサトルは苦笑いするしかなかったが、誰かが近付いてくるとぷっと吹き出してしまった。
なぜ笑ったのが自分でも判らなかった。
とにかく愉快な気分だった。
最初に近付いてきた男を、目をこすりながら見るとフェルだった。
フェルはうろたえているようだった。よく見えなかったが。
「彼女が何か?それとも、彼女に何か?」
サトルは笑うのに忙しかったので、近くにいたキャビア信奉者が口をもぐもぐさせながら答えてくれた。
「悪いのは女だよ。俺は聞いてたんだ。このジェントルマンは正直者だっただけさ。ま、多少正直過ぎたきらいはあったがね」
そのあと、サトルはキャビアマンと仲良く酒を飲むことが出来た。
パーティーとは楽しいものだと、サトルは改めて思う。
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