見出し画像

小説|腐った祝祭 第一章 11

 朝食の後に大使館にやってきたのは、サトルが懇意にしている会員制美容室の女性スタッフだった。
 ナオミにセアラという女中を一人つけて、荷物を抱えてやってきた三人の美容師の雑用の手伝いに、もう二人の女中を貸し出す。
 サトルが仕事をしている間、七人は本館の小ホールにこもっていた。
 十時を過ぎてホールを訪ねると、目隠しに立てられたスクリーンの陰から女中の一人が出てきた。
「彼女はドレスを着たかい?」
「お召しになりました」
 女中は真面目な顔でそう言ったが、瞳に楽しそうな輝きが浮かんでいるのを、サトルは見逃さなかった。
「何か変わったことでも?」
「いえ、そういう訳ではありません」
 ミリアならすぐに喋るだろうが、それ以外の女中はこちらがことさらに勧めないと余計な話はしないのだった。
 サトルは優しく言う。
「言ってごらん。君が何かを楽しんでいるのは判ってるよ」
 女中はやっと表情を素直に和ませた。
「ナオミ様はお綺麗なお方ですね。それに、先刻から可笑しなことばかりおっしゃって、面白いお人だと思います」
 どんな話をしていたんだろう?
 サトルはとりあえず後で本人から聞くことにした。
「彼女はどのドレスを選んだ?」
「チョコレートブラウンのワンピースです」
「判った。仕度は後どれくらいでできそうかな」
「もう三十分ほどもあればよろしいかと」
「そう。それならこっちの応接室で待ってるから、そう伝えておくれ」
「かしこまりました」
「あ、そうだ。靴のサイズはどうだった?」
「ちょうどお合いになる物がございました」
「よかった。じゃ、よろしく」
「イエス、サー」
 女中は恭しくお辞儀をした。

 サトルは玄関近くにある応接室で待っていた。
 扉を開いたままにしておいたので、数人の足音の響きが聞こえてくると廊下に出る。
 ナオミとセアラが話しをしていたようだが、サトルに気付いてセアラは口を閉じた。遅れてナオミがサトルに気付く。
 サトルはナオミの前に進み出た。
 プロの美容師から施された化粧は彼女の魅力を充分に引き出していた。
 その時になってナオミがあまり化粧をしていなかったのだと気付く。
 素顔の印象はそのままに、上品で華やかな雰囲気がプラスされていた。
 茶色のドレスも似合っている。スカートの部分が広めのプリーツになっていて、少女のように愛らしかった。真っ直ぐだった髪に少しカールを付けられ、胸元で軽く揺れていた。
 ナオミの可憐さは、一時間くらい遠目に眺めて楽しみたいくらいだった。
 しかし、すぐにでも抱きしめたい気持ちもある。
 サトルはそのどちらをも我慢して、「とても綺麗だ」とだけ呟く。
 そして美容師たちに礼を言い、二人の女中に見送りを頼んだ。
 それらが去っていくと、サトルはセアラにも下がってもらった。
 そうなれば、ナオミの表情も若干緊張してくる。
 サトルは肩をすくめた。
「君を安心させるためには、数メートルはいつも離れていないといけないのかな?」
 そう言って、本当に数メートル離れる。
 そこからナオミを眺める。
 サトルは胸に手をあてて溜め息をついた。
「私は君を可愛い人だと思っていたんだけど、本当は綺麗な人だったんだね」
 ナオミは困ったように笑う。
「言い過ぎよ」
「そんなことはない」
「でも、自分でも少し驚いたのは確かなの」
「あんまり綺麗で?」
「そうじゃないわよ。お化粧って、こんな風にするものなんだって。だって私、チークだってしたことなかったの。朝起きて、慌てて用意して会社に出かけるのよ。ゆっくりお化粧する習慣なんかなかったわ。ね、可笑しくない?頬っぺたが赤くて、変じゃない?」
「全然変じゃない。自然で、健康的だし、うんと可愛らしくなっている」
「ありがとう。でも、ねえ。きっとあの人たちの手にかかれば、どんな女の子だって十倍は美人になれるのよ。きっとそうだわ」
「ああ、もう我慢できないよ。早く出かけよう」
 ナオミは首を傾げた。
「何処に行くの?」
「リディア湖」
「リディア湖?」
 ナオミは少し考える。
 依然、二人の間には数メートルの距離があった。
 サトルは早く自分のもとに来てくれればいいのにと、もどかしく思っていた。
「ああ、昨日の写真集に載っていた湖ね」
「そうだよ」
「今から行くの?」
「そうだよ。どうしたの?本当に僕らはこの間隔を保って出かけるの?」
 ナオミは苦笑いして、ゆっくりと歩いてきた。
「私はそれでもいいわ」
「冗談じゃない!なんて意地悪なんだろう!」
 サトルは天を仰いだかと思うと、すぐにナオミの前に走って手をつないだ。
 そして笑っているナオミを強引に外へ連れ出した。
 外では準備万端整った馬車が待ち構えていた。

 ロウボートを漕ぎながら、湖からの風景を眺めているナオミを見ている。
 湖面をそよぐ風が彼女の巻き髪を時々ゆらす。
 湖には他にボートは出ていなかった。
 湖岸にはボートハウスがあり、一般客にボートを貸し出しているが、運のいいことに昨夜のうちに貸し切ることができた。
 紅葉の美しい季節で、山のふもとにある湖には観光客も多いのだが、少し肌寒いのでボートに乗る客はそうはいなかったのかもしれない。
 それでも雪が降るまでは貸しボート業は営業しているそうだった。
 ボートの近くで銀色の魚が跳ねた。
 キラリと日の光を受け、深く潜っていく。
 ナオミはその音で湖面に視線を落とし、そっと手を伸ばす。
 水に指先が当たりそうなところで、サトルは叫んだ。
「噛まれるよ!」
 ナオミはびくっとして手を引っ込める。
 そして、笑っているサトルに目を向け、頬を膨らませる。
「もうっ、びっくりさせないでよ!」
 サトルはオールを動かす手を休めずに、からかうように笑っていた。
「怖がりだな」
「だって、本当に噛まれるかと思ったんだもの」
「噛むもんか」
「意地悪ね」
 ナオミは水を少し手にすくい、サトルにひっかけてやった。
 うわっとサトルは目をつむる。
 上手いこと鼻先と頬の辺りに水はかかった。
 どう見ても目には当たらなかったようだが、サトルは目を開けなかった。
「酷いよ、早く拭いてくれないと」
「それくらいで風邪をひくとでも言うの?大使だなんて偉そうにしていても弱虫なのね」
 ナオミにからかわれてもサトルは引き下がらなかった。
 早く拭いてくれとせがんで、目を開けようとしない。終いにはオールから手を離そうとするので、ナオミはあきれて承知した。
 向かい合う二人の間には、ジョエル特製のランチの詰まったバスケットが置いてある。ナオミはボートが揺れないように気をつけながら、バスケットの上に体を持っていき、向こう側にいるサトルの膝に手をついた。その上着の胸からハンカチーフを取って、顔を拭いてやる。
 水なんかほとんど乾いていた。
「困った人ね」
 言うと、サトルはやっと目を開ける。
「ああ、助かった。ところでせっかくここまで来たんだから、私の隣に座ったら?」
「それが目当てだったの?」
 サトルはオールを上げてから、ナオミに手を貸した。
 バスケットを少し脇に避けて、ナオミはおぼつかない足取りで移動する。
 ボートは広めの四人乗りだったので安定感はあるのだが、やはりナオミは怖がりなのだ。
 ナオミはワンピースの上に、袖を通さずにコートを羽織っていた。
「寒くない?」
「大丈夫。天気が良くてよかったわね。サトルさんは暑くなったんじゃない?もう湖の真ん中に近づいてるみたい」
「暑くはないけど、寒くもないよ」
 サトルはバスケットを広げた。
 二人は消毒済みのタオルで手を拭いて、サンドイッチを食べ始める。
 ジョエルはきちんと、ナオミが食べやすい大きさに全ての料理をカットしてくれていた。
 魔法瓶の中の紅茶はまだ熱く、サトルがティーカップに注ぐと、ナオミが櫛型に切ってあるレモンを絞ってくれた。ダージリンとレモンの香りが二人を優しく包む。
 紅茶を一口飲んで、ナオミは空を見上げた。
 森の方で鳥の鳴き声が聞こえたが、その姿は目にすることができなかった。
 空には高い位置に筋状の雲が現れていた。
「いつの間にか雲が出てるわ」
「そうだね。雨が降る前ぶれかな」
「そうなの?」
「多分。でも、まだ平気だよ。あれは雨雲じゃないから、今すぐ降ってくるわけじゃない」
「そう」
 バスケットは大きなもので、ティーカップを固定できるホルダーもついている。ナオミはそこにカップを置いて、玉子の入ったサンドイッチを手に取った。
「家にいる時より、食欲があるみたいだ」
「そう?」
「うん」
「そうかもしれないわね。ピクニックって好きなの。でもボートの上でランチだなんて初めてよ。このボート、とても綺麗ね。水も綺麗。素敵だわ」
 知り合いのボートがハウスに保管されていた。
 先方に連絡を入れてそれを借りたのだ。
 一般客が使用するのは木製ではあるが、少し古くなったり、擦り傷の目立つものがほとんどだ。もちろん、サトルの要望で船着場からそれらのボートは一掃されていた。粗末なボートのせいで雰囲気が台無しになるのは御免だった。当然それらはナオミには黙っていた。細かい裏の事情など知らない方がいい。無駄に夢を壊しても意味がない。
 この湖にはいつも、こんな艶のある木材で作られたボートばかりが浮かんでいる。
 そう思っていた方が愉しいだろう。

前 腐った祝祭 第一章 10|mitsuki (note.com)

次 腐った祝祭 第一章 12|mitsuki (note.com)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?