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記憶のピース─#12─夕焼けの中で

※PTSDをお持ちの方は、どうぞお気をつけてください。


翌日はパートの面接に赴き、無事合格をした。市内のビジネスホテルの客室清掃の仕事で、 対人恐怖の私が働ける唯一の仕事だった。面接では「明日から働けます」と伝えていたので、 さっそくシフトが組まれた。久しぶりの肉体労働だったが、接客がない分、神経を尖らせずに集中することが出来た。職場で一週間程働くと、私はクレジットカードを作り、不動産会社へと足を運んだ。市内の最も家賃が安い物件だけに絞って貰い、何件かの物件を車で回った。不動産会社の人がある部屋の玄関のカギを開けると、スルッと何かが足元を通った。野良猫が二匹、玄関の廊下からこちらを見上げている。 「コラッ」 不動産会社の人が追い払おうとするも、猫はお構いなしに家の奥へと入っていってしまった。

「すみません」

謝られたが、私は笑顔になった。人懐こいノラちゃん達。チャチャと別れて寂しい私の胸の内にスッと入ってくれるかのようだった。部屋も、古い分広くて陽当たりも良い。

「私、ここに決めます」

ノラちゃんは喉をゴロゴロ鳴らせて、私を歓迎してくれた。 敷金と礼金はクレジットカードで捻出した。あとは保証人だった。こればっかりは親に頭を下げて願い出ねばならなかった。父のいる日曜日に実家を訪問して、頭を下げた。父はまだ怒り顔だったが、保証人の欄に判子を押してくれた。チャチャと会えなくなるのは寂しかっ たけれど、母によくお世話をしてくれるよう頼み、アパートへと戻った。布団、カラーボッ クス、衣類。実家から運び込んだ荷物は多くなかった。洗濯機や冷蔵庫はリサイクルセンタ ーで揃える。実家の部屋にはアンテナのない、VHS再生専用の小テレビがあって、映画を観ようと思い一緒に運び込んだ。

仕事や自炊にも慣れ、テレビのない静かな部屋で過ごす一人暮らしは、穏やかだった。アパ ートの各部屋には外廊下に面した壁に窓がしつらえらえており、隣の部屋の住人は、いつもその窓を少し開けていて「不用心だな」と思っていたのだが、ある日、ノラちゃんが慣れた様子でその窓から中に入っていくのが見え、納得した。この窓はノラちゃん専用の通路口だったのだ。若い女性の一人暮らしで不用心ではあったが、私も隣の住人に倣って窓を少し開けてみた。すると「コトリ」という足音と共に、ノラちゃんが部屋に入ってきてくれた。それも二匹での来訪だった。二匹ともよく似た顔のトラ猫で、きっと兄弟猫なのだろう。まったく人見知りをする様子を見せず、私の足に体をこすりつけてくる。こんなに可愛らしい友人の来訪つきで、家賃は二万二千円。私にとっては、あまりにも贅沢な物件だった。 

二〇〇五年。二十二才の秋だった。ある日の仕事帰り、私は久しぶりに映画でも観ようと思いツタヤに寄った。ホラー映画コーナーの前で「リング・バースデイ」を手に取った。ブラウン管から這い出てくる悪霊でおなじみのホラー映画。生身の人間だった貞子が悪霊に身をやつしていく物語で、貞子の悲恋で純愛のストーリーが切なく、私はこの映画のファンだった。恐いシーンは目をつぶってしまうのだが、物語の中で私を不思議な感覚へと陥らせる場面があった。貞子が住む小さな部屋が、小学生時代に私が使っていた三畳の部屋ととても良く似ていたのだ。木造の古い柱、小さな和室のすすけた畳…… その部屋で一人うずくまる貞子を観る度に、私はストーリーを忘れ、ただただ昔の自分の部屋の空気を思い出すような 感覚に覆われていた。

この時も、私は映画のお供にと買ってきたスナック菓子を食べる手を宙に浮かせ、じっと貞子の部屋に見入っていた。夜の貞子の部屋には彼女が所属する劇団の監督が訪れていた。彼は貞子に執心していて、彼女の部屋の窓辺に立ち、何かを暗示するように場面は暗転する──…… 。 その時だった。私の頭の中に、突然猛烈な閃光が走った。閃光の中で私は小学生時代へとワ ープし、私の目の前にはあのセクハラ教師の姿があった。教師は私の部屋の窓枠に寄りかかっている。 これは何?こんな記憶は知らない。けれどその光景は、今現在自分が体験していることの ように生々しく五感に体感されていった。私はその感覚に抵抗することを止め、その奔流に流されるままに飛び込んだ…… 。

私は小学校高学年の服を着ていて、居間に寝転んで漫画を読んでいた。家には他に人の気配はなく、留守番をしているようだった。呼び鈴が鳴って玄関の扉を開けると、そこにセクハラ教師が立っており、私は目を丸くした。

「久しぶり。元気だった?」

頭の中で、教師への思いが高速で駆け巡る。「セクハラ教師。自分をずっと騙していた大人」 …… しかし、それらの敵意を表明するにはまだ幼かった。私は、「先生をずっと慕っていた子供」の演技をはじめた。

「先生!元気です」

不自然に声が甲高くなる。本心に反した言葉を言う度に、体が心から離れていく気がした。 教師に留守番中だということを告げ、居間に通して飲み物を出した。

「ナオミちゃんの部屋が見たいな」

教師がそう言ってきた。私は仕方なく自分の部屋へと教師を案内した。教師は開け放たれた窓枠から身を乗り出して外を見ると、静かに窓を閉めた。少しの間の後、

「あれする?」 と教師は聞いた。
最初は何を言っているのか分からなかった。しかしもう一度、 「あれ」 と言われ、教師の言わんとしていることを理解した。あれ── 口に舌を入れるやつだ。 私は拒絶したかった。けれど、大人に対して自分を優先させることがどうしても出来なかった。表情に精いっぱいの拒絶の意思を現すものの、教師は再び、 「する?」 と聞いてくる。私は成すすべもなく迎合し、微かに笑みを浮かべた。 教師が迫って来る。口に舌が入る気持ち悪い感触。そして服の中に教師の手が入ってきた。 何をしているのか分からなかったが、胸を弄られ反射的に教師の手を掴んだ。 教師の手が私のキュロットに滑り込んでくる。私は、この野蛮な振る舞いを止めさせるべく 渾身の力で教師の手を押し返そうとするのだが、大人の力には全く敵わなかった。押し問答の末、私のキュロットが脱がされた。私は恥と嫌悪感と怒りでパニックになりながら、必死で抵抗するも、大人の男の力に敵う筈もなかった。そして教師が下半身を露出させた。その 異物を見た瞬間、私の全身から痛い程に汗が噴き出た。

「ものすごく痛いことをされる!!」

そして恐怖は現実となった。下半身にそれを押し付けられ、私はあらん限りの大声で叫んだ。 叫びながら気が遠くなってく。窓から差し込む西日が、この世のものではないように輝いていたのを覚えている。瞼が重くなり、私は何も恐れることなどない、安らかな午睡に抱かれるように目を閉じた。頭のどこかで「起きなくては」と叫んでいる。私は重い瞼と眠気に抗いながら目を開けた。なおも教師は私の下半身に侵入しようと試みているが、彼の下半身は先程とは違いぐにゃりとしていた。

「おい、起きろ」

セクハラ教師が命令してくるが、私の意識はもう限界だった。途切れる意識の狭間で、 「また来るからな」 という声が聞こえた。 背中に畳の感触を感じながら、小学生の私は目を覚ました。 あれ…… 眠ってしまったのだろうか。寝つきが悪くて、昼寝なんて物心ついた時から数える程しか上手くいかなったのに。どれくらい寝ていたんだろう。 体を起こそうとしてぎょっとした。下着が下りている!!なぜ私は半裸の状態で寝てしまったのだろう。もう小学校高学年になるというのに…… 誰にも見つからなくて本当に良かった。私は恥ずかしさで顔を赤くしながら、急いで服を引き上げた。ふと、シャツの上から 湿った冷たさを感じて手で拭うと、白いドロドロとした液体が付着していた。嫌だ。アイス まで食べこぼして…… 私は一体何をやっているのだろう。何も覚えていない。しかしどんなアイスを食べたんだろう…… 。そこまで考えて、はたと気付いた。今は秋ではないか。冷蔵庫にアイスなんか入っていない。どうしてそんなことまで分からなくなっているのだろう。 服を汚したことを知られたら、お母さんに叱られてしまう。私は何故か、身も世もなく惨めな気持ちになり、泣きながら服を着替えた。

しばらく留守番をしていると、母が帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり」

「ナオミ、何かあった?」

「何もないよ。ねえ、お母さん。居間のジュース、誰も飲んでないの?」

「ジュース?」

居間のテーブルには、お客様用のグラスに入ったレモネードが二つ出されていた。

「ナオミ、友達が来ていたの?」

「誰も来てないよ。最初からあったよ。お母さんのお客さんが来ていたんじゃないの?」

「誰も来てないわよ。ナオミの友達がいたんでしょう」

「来てないってば。ずっと一人だったもん。ねえ、このジュース減ってないよ。飲んでもいい?」

「いやだ、気持ち悪い。よしなさい」

「…… はあい」

母はじっとグラスを見つめて暫く考え込んでいたが、グラスを流しへと持っていくと中身 を空けた…… 。

テレビではリング・バースディが再生され続けていた。私は時空の間に置きざりにされたように、瞳孔を開いたまま意識を漂わせた。この走馬灯のように体験された現象は、過去に実際にあったことなのだろうか。裸で目が覚めた記憶は覚えている。あのレモネードは、来訪した教師に私が出したものだった。遠い過去に、バラバラになった記憶のピースが重なり合う。 私はあの教師にレイプ未遂を受けたのかもしれない。頭を絞れば、まだ何か思い出すだろう か。私は先程まで漂っていた場面に、また意識をリンクさせるよう意識を集中させた。

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