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ケルアックとブローディガンの『ビッグ・サー』

ジャック・ケルアックとリチャード・ブローディガンという二人のアメリカ人作家。ふたりの共通点は1960年頃にサンフランシスコに住んでいたことです。そして題名に『ビッグ・サー』とつく小説を執筆していることも一緒です。ビッグ・サーはカリフォルニアの地名で訳者藤本和子さんによると「あるときは点を示し、またあるときはカリフォルニアの太平洋沿岸に沿って細長く帯状にのびる土地、モントレーからサン・ルイス・オビスポまでの広がりをいう。」とあります。

リチャード・ブローディガン『ビッグ・サーの南軍将軍』。この小説は有名な『アメリカの鱒釣り』よりも早く書かれた小説らしいです。一応なんとなく小説らしい物語がある文章になっていますが、それも『アメリカの鱒釣り』のような散文をならべたものよりは小説らしいという感じです。そして意味はよくわかりません、あいかわらずのブローディガン節です。ブローディガンがアメリカの歴史それも南北戦争について彼なりの表現で書いてみた小説なのでしょう。ブローディガンといういつも小さな自分の世界にこもり、まぶしい外の世界をながめている人間が書くとこうなったという感じでしょうか。そうなんです、彼は自分のからをやぶろうと出来もしないことに挑戦しつづけているのです。我々はそのあがきみたいなものを感じるためにブローディガンの小説を読むのでしょう。

一方、ジャック・ケルアック『ビッグ・サーの夏』。こちらはパリピ小説とでもいうのでしょうか、『路上』の大ヒットで時代の寵児となったジャック・ケルアックが世間の好奇の目に苦しめられ酒に溺れていくさまを描いています。こう書くと一発屋?という勘違いが起きるかもしれません。私は『路上』『地下街の人々』『トリステッサ』くらいしか読んだことありません。ですから『路上』のみの作家であるという感じは無いのですが、これは当時のアメリカの(日本でもかもしれませんが)作家にたいする注目度の高さがすごすぎたということなのでしょうか。

ビッグ・サーの甘美な孤独につつまれた、あの小屋の中で思い出した、彼のどんな説得力のあることばよりすごい言葉「瞑想においてはさまざまな経験がなされるが、驕ったり他人に話したがったりしてはいけない。でなければ女神たち、母たちにお前はわざわいをもたらすだろう。」そう、ぼくはまさにそれをやろうとしている、馬鹿丸出しのアメリカ人作家なのだ。生活のためにそうするんじゃない。そうでなくて自分が本当に見た、頭蓋骨の内側のこの不幸な脳みその中で起こっていることを書かなければ、ぼくが地上に送られてきたのも無駄になってしまうと思うからだ。

新宿書房『ビッグ・サーの夏』P172

ブローディガンもジャック・ケルアックも自分の理想とする文章と実際執筆する作品のギャップに苦悩しているのがわかります。そんなときに酒におぼれるジャック・ケルアックとひざをかかえてだまって座り込むブローディガンの差がこの二つの小説にでているなと感じました。



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