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フラナリー・オコナー『賢い血』

主人公のヘイゼル・モーツはたしかに奇人だが、それ以外のひとびとはあんがいどこにでもいる普通の人々ではないかと感じました。フラナリー・オコナー独特のフィルターでみるとどんな人間でも悪意や欠点が際立って見えてくる、そんなフラナリー・オコナー節満載の小説でした。

フラナリー・オコナーにとって主人公のヘイゼル・モーツはイエス・キリストの再来をイメージしているのでないかと感じました。幼少のころ、祖父の説法を聞いたヘイズは「イエスを避けるためには罪を避けなければならない」と考えます。そしてあらゆる欲望や誘惑から逃げていきます。性欲からは逃れられないが必死に抵抗しているところが面白いところです。あらゆる人間との関わりや彼の仕事「説教師」としての自分の考えを人々に伝えることからも逃げていきます。さいごには自分で目をつぶしてしまい、すべてから逃げることに成功します。そんなとんでもなく面倒な人間になぜか一部の人がよっていきます。トーキンハム市に着いた夜にベットを共にしただれとでも寝るレオラ・ワッツ夫人、市立動物園で守衛をするものすごい嘘つきのイーノック・エマリー、盲目と偽り物乞いで生活するエイサ・ホークスとその娘サバス・ホークス、ヘイズの説法にのっかり小遣い稼ぎをするフーバー・ショーツ(オニー・ジェイ・ホーリー)、盲目となったヘイズを助けるフラッド婦人などです。彼らはヘイズを助けるつもりが、いつのまにか救済されているのでしょう。

ヘイズの言論はかなり強烈です。
「たとえイエスが存在するとしても、ぼくは信じない。たとえこの列車に乗っているとしても」
「ぼくが今もし罪の中にいるとしたら、僕が罪を犯す前から、罪の中にいたのです。ぼくの心のなかにはなんの変わりも起きませんでした」
「十字架にかけられたやさしいイエス・キリストなんぞ、どうにでもなれ」
「女郎買いは罪ではない。神を汚すことも罪ではない。罪はそれより先にあったものだ。イエスは黒人をひっかけるペテンだ」
「私が説くのは〈キリストのいない教会〉だ。わたしは、盲人は目が見えないし、足萎えの男は歩かないし、死んだものは死んだままでいる、そうゆう教会の教会員であり、説法師だ。この教会は、人間を救済する
イエスの血にけがされていない教会だ」
「〈キリストのいない教会〉では、私生児という言葉にはなんの意味もないのだ」
追っかけてくる人々から逃げるために暴言を吐くように感じます、逃げるヘイズを皆が追っかけます。ヘイズを見て皆が安心して救済されたような感覚を味わっていくのでしょう。

どの宗教も信じていない私がヘイズと彼の教会〈キリストのいない教会〉に出会ったらどのような感触をえるのか興味深いです。たぶん、あやしいやつと思って近づきもしないかもしれません。彼の本心に近づくことができるかどうか自身がありません。

フラナリー・オコナーの小説を読むと感じる、作者に心の中を読み透かれているのではないかという感覚があります。今作でもその感覚を感じながら読み続けました。彼女の短い人生で書かれた何作の小説には魂が宿っているように感じます。


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