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「楽器を通して人と知り合い、いろいろなものを得てもらいたい」――谷屋勇樹先生

前回に引きつづき、北浦和にある音楽教室「ロイヤルミュージックガーデン(RMG)」の代表で、日本セントラルオーケストラ理事長の谷屋勇樹先生をご紹介します。今回は、先生ご自身の音楽との出会いから現在に至るまでのお話を伺いました。

谷屋勇樹先生

最初の音楽教室の印象は「暗い」

――谷屋先生が音楽を始めたきっかけを教えてください

小さいころの音楽教室の印象は、ことばはよくありませんが、「暗い」というのが第一印象でした。

――音楽教室が「暗い」ですか。今の先生の教室とはだいぶ印象が違いますね。

そうですね。わたしの音楽教室との出会いは、姉が通っていたピアノ教室でした。その音楽教室の雰囲気がとても暗かったのですね。雑居ビルの一室で、ついて行くのが怖くて、待っているのも辛かった。

それもあって、小さいころは自分で楽器をやりたいとは思っていませんでした。でも、クラシック音楽は好きで、よく聴いていました。

チェロとの出会い

――実際にチェロを始めたのはいつごろでしょうか。

チェロは15歳の高校生のころに始めました。音楽家としては遅いほうだと思います。中学校まではずっと剣道をやっていました。自分でも楽器を始めるのは思いがけないことでした。

高校に入学すると、最初にクラブ活動の勧誘がありますよね。わたしの入った高校は吹奏楽部が全国レベルで、なぜかそこの先輩が熱心にわたしを誘ってくれました。教室にまで来て「谷屋君、一緒に吹奏楽やらない?」と。それがとても美人の先輩で、この先輩に誘われては行くしかないと、見学に行くとすぐに「楽器どれにする?」と選ばせてくれました。楽器ごとにスタジオが分かれていたのですが、あるスタジオの扉を開けた瞬間、チェロを弾いている先輩の姿が目に飛び込んできました。それがとにかくカッコよかった!もう衝撃でした。

その楽器がチェロという名前だということも知らず、ちょっと弾いてみなよということで弾いてみると、先輩たちがべた褒めです。すごいね、すごいねと。その翌日から、今度はチェロの先輩が教室まで誘いに来るようになりました。今入部届書いてくれない?と言われて、そこまで誘われてはと名前を書いたとたんに、「よし」と先輩の態度が一変。次の日からスタジオの譜面台を運んでいました(笑)

――衝撃的なチェロとの出会いだったのですね。吹奏楽部でチェロというのもめずらしい気がしますが、練習はどのような感じだったのでしょうか。

とにかく練習熱心な部活で、毎日予定が入っていました。普門館という、野球でいえば甲子園のような場にも出場していて、一つ上の先輩が、そのコンクールで金賞を取るという快挙を成し遂げました。そのなかで、チェロの先輩が、出だしからソロ演奏をしたのです。それが吹奏楽連盟の目に留まり、「吹奏楽なのに弦楽器が目立つのはいかがなものか」ということになり、その年は金賞はとれたものの、翌年からチェロは出場できなくなってしまった。それで、ぼくはコンクールに出られなくなってしまったのです。

もう部活をやめようかと思ったのですが、顧問の先生がやめるなと引き留めてくれました。合宿でも、みんな夜中まで練習していましたが、自分はやることがなかったので、一人でもくもくとチェロを弾くしかなかった。

ダメ元での音大挑戦

――コンクールにも出られず、それでもチェロを続けて、その後はどうされたのですか。

そうこうしているうちに、進路をどうするかという時期になりました。勉強は今からだと間に合わない。音大受験ができるかどうか、ダメ元でいいのでレッスンに行ってみようと思いました。

ところが、最初に行ったレッスンは散々なものでした。先生からは、「難しいだろう。華やかな世界に見えるかもしれないが、そんなに甘い話ではない」と言われて。それでもがんばりたいのならこの課題だけはやってこいといって、それが無理なら次はないという感じでした。

――それでも通い続けたのですね。

ぼくは個人の練習時間はあったので、出された課題を必死に練習して、何度かレッスンに通いました。毎回熱心な激励を受けながら続けました(笑)。それで、なんとかチェロらしい音が出せるように、その先生がしてくれました。並行してピアノ教室にも通いましたが、そのピアノの先生からも「きみほどできない生徒は見たことない。これで音大に行けたら奇跡だ」と言われました。それでも熱心に教えてくれました。

先生たちおかげで、発表会でソロを1曲通して弾けるようになりました。そうすると、現役でも音大に行けるのでは?という感じになってきました。ある楽器屋さんから、もう亡くなってしまったのですが、岡田伸夫さんという有名なヴィオラの先生をご紹介いただきました。「ぼくが行っている大学にいい先生がいる。どうしようもない子でも少しは音が出せるようになると評判だ。行ってみるかい?」というので、夏期講習を受けることにしました。そうして、当時洗足学園音楽大学の講師をしていた藤井先生と出会いました。

――そこでもまた人生を変えるような出会いが会ったのですね。藤井先生はどんな先生だったのでしょうか。

とにかく音楽の楽しさを教えてくれる先生でした。その先生に教わるたびに、音が出てきたな、相対音感が身についてきたな、と自分でもわかりました。受験前には、その先生の家に毎週のように通うようになっていました。その後、無事に洗足学園音楽大学に入学することができました。

――出だしのことを考えると、相当な努力をされたのではないかと思います。

本当は自分のことはあまり話したくないのですが、いつもギリギリといった感じです(笑)

偶然が重なっての教室誕生

――その後イギリスへの音楽留学を経て、帰国されました。そのとき教室を開こうと思ったのでしょうか。

教室を始めたきっかけも、いろいろな偶然が重なってのことでした。

イギリスで2年半学んだあと、ある大学の大学院に合格しました。フォークストンという町から奨学金も出るということで、あと2年音楽を学ぶつもりだったのです。ところが、当時はポンドが高騰して、生活費がとても高かったのですね。自分のアルバイトでも賄いきれない。そこで親に相談したところ「何年学生をやっているんだ。すぐ日本に帰ってこい!」となり、半ば強制送還のように日本に帰ってきました。

――もう少し勉強されたかったと思いますが、それは残念でした。

日本に帰ってきたのはいいものの、演奏家としての仕事はまったくありませんでした。仕方なく平日はある楽器店の本社で、事務員として働き始めました。土曜日は、以前住んでいた横浜にあった音楽教室が、埼玉にも教室を出すことになり、そこでチェロ講師をやることになりました。それが、今のロイヤルミュージックガーデンの前身の教室でした。

その後1年くらいたったとき、事情があって埼玉教室が存続できないという事態になりました。でも、そのときぼくは生徒さんが15人くらいいたのです。これで解散といわれても、今始めたばかりの生徒さんもいます。今の生徒さんだけでも教え続けたい。ぼくに教室を引き継がせてもらえないかと申し出ました。

――それはまた大変な決断でしたね。でも、講師だけやるのと教室を経営するのとでは、やることもずいぶん違うと思います。

事務員をしていた楽器店では、たまたま音楽教室の部門を担当していたので、なんとなく慣れていたのかもしれません。その点は助かりました。自分が教室を開くことになったのでやめさせてくださいといって、事務員はやめました。

自分で導き出していった教室経営

いざ教室を始めるとなると、ピアノを購入したり備品を購入したり、とにかくお金がかかりました。実際のところ借金もしました。それでも少しずつ生徒さんが入ってくれるようになり、何とか軌道に乗り始めたところで、今度は建物が古くなったので退去してほしいということになりました。そこで、今の教室の場所を探して引っ越しをしました。

――目の前のことに必死に対処していたら、今の姿になっていたという感じでしょうか。

自分がやりたくて教室を経営しているようにみえるかもしれませんが、すべて偶然のタイミングが重なって、今の形になったというのが実際のところです。

ぼくは不器用なので、いろいろなことを一度にやることができない。目の前のことに一つ一つ、誠意をもって、素直に一生懸命。そういう古臭いやり方しかぼくにはできません。

――目の前のことに一生懸命という姿勢が、生徒さんを教えるレッスンにも表れているのではないかと思います。

教室の経営もレッスンの仕方も、自分で導き出していったという感じがします。

チェロにしても、大人といっていい年齢から始めているので、どうやったら音程がとれるか、どう練習したら弾けるようになるか、自分の頭の中でロジックを組み立てて検証するということを繰り返していました。幼少期から楽器を弾いていて、いつのまにかできていた、ということがありません。

レッスンにおいても、自分の経験がもとになっているので、生徒さんにきちんと伝えられていると思います。「あ、そうした動きをしているので、こうしたらいいですよ」と言葉で説明ができる。これは一つの強みになっていると思います。

「思い」が伝われば自分で成長していける

――今後の教室の展望をお聞かせください。

現時点では、教室の数を増やして広げたいといったことは考えていません。今は生徒さん一人ひとりが、自分の目の届く範囲で通われています。何か困ったことがあれば自分も一緒に考えたい。つまずくことがあれば先生と一緒に答えを見つけたい。そういう思いがあります。

子どもの生徒さんが、楽器をやっていることで自信を持てるようになったり、心のよりどころになり救われたりする。音楽に限らず、習い事は自分に自信を持ったり、周りに感謝したり、心の面でも育っていけるというところがあると思います。生徒さんには、楽器を通して人と知り合い、いろいろなものを得てもらいたいと思っています。

――生徒さんと接しているとき、一番大切にしていることを教えてください。

先生方に研修をやるとき必ず伝えることは、「自分が楽器を好きでなければ生徒さんには絶対に伝わらない」ということです。ぼくはチェロを始めて、音楽を続けてきて、いろいろな人とつながることができました。本当に良かったと思っています。そうした思いを伝えることが大事だと思います。

思いが生徒さんに伝われば、その人はそれ以上教えなくても、自分自身で成長していけます。これは実体験からくるもので、自分の中でずっと肯定し続けていることです。

もちろん、プロの音楽家としてやっていくには、大変なこともたくさんあります。でも、自分が熱中して楽しんでいれば、絶対にその意味での楽しさが現れていきます。それはプロもアマチュアも同じです。

熱中して取り組んで成果が出たときの嬉しさ。ほかの人といっしょに何か作り上げたときの楽しさ。そうした体験を、生徒さんにもたくさんしてほしいです。そのマインドを、先生自身が捨ててはいけないと思います。

(聞き手、文、撮影 響八朔)

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