アイドル化




昨今

昨今の社会では「推す」という言葉が散見される。この言葉は元々から多く使われている男性や女性のアイドルの分野だけでなく、スポーツ等多分野で使われるようになった。スポーツ選手を推す等というものである。

危機感

 私はこれに対して危機感を持つとともに危機感を持ってる。某メンズコーチ並みにである。推すということ、応援するということ自体はいいが問題は推し方である。特に現在理由もなくその行動1つ1つを「かわいい」や「尊い」と言うことが多くなっていると感じる。元々それを想定しているアイドルに対してそれを言うのは良いことであり想定された推され方の供給であると考える。
 しかしスポーツ選手は勝つことや実力やプレーを魅せることを、音楽アーティストはその歌や演奏または作詞作曲で多くの人の共感や拠り所となることを想定しているのではないだろうか。もちろんそれらの人の中にも前述のような推され方を想定している人やそれを歓迎する人、そしてそれを狙いとする人もいるかもしれない。しかしそれを本来的に目指すということはほとんど無いのではないか。そうなった時に推す側と推される側にミスマッチが生まれていることが原因なのではないかと考えた。

なんで?

 私の見解を述べさせていただくのならこれは現代の環境というものが大きい要素であると考えた。現代はインターネットの発達やテレビ等のメディアが継続していることにより、現代人の脳が持つことのできる容量に対して入ってくる情報が過多なのではないだろうか。そしてその情報に対し、それをシャットアウトする意味で、1つの物に集中する意味で推すという行為がなされているのではないだろうか。だからこそその一挙手一投足までに着目して「かわいい」と言われるのではないだろうか。
 また、推すことによって人生が彩るという考え方もある。これはごもっともである。部活等と同じ部分もあるのではないのだろうか?平凡な日常に華を作ることができる。また、部活・勉学・仕事等での疲れに対してそれを療法のように使うのではないだろうか。それを批判無く全てを肯定し祀り上げるように使えば自分の人生の華を間違いだと思うことも無く、療法としても心を荒ぶらせることも無い。
 これらが大きな要因だと思う。

かわいいをやめません?

 部分部分だったりそれを想定している主体に対してならともかくそれを目的としていない主体に対して盲目的に「かわいい」という言葉を乱立することはあまりにもその主体に対しての敬意に欠く。
 先日Creepy Nutsが「かわいい」と言われることに対して呆れているというツイートを見た。それに対してアーティストとして表に出ている以上仕方ないと思う気持ちも少しあったものの、推され方の問題を大きく認識した1件であった。
 その主体が何を求めているのか。ずっと囃し立てられる王様やアイドルになりたいならそのような振る舞いを得ることができる職業やそのような反応職業を受ける職業に着くだろう。またそれになれなくともそのような反応を得られるだろう。しかしそうではない人にまで「かわいい」と言われる。これは理不尽なのではないだろうか。もっと見て欲しい部分もあるし自分がそれを得ることができていないのに盲信されることに対してはまた違うという思いがあるのではないだろうか。だからこそ推される主体によっては「かわいい」や「尊い」などではなく「応援している」や「共感する」や「凄い」を頻発すべきではないか。そして盲信をすることをやめるべきではないか。そう感じた。



敵を作り過ぎている文書過ぎるかな〜これ

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