Capturing Myself

お久しぶりです。久々に自分について考える機会がありましたので自分なりにまとめてみました。皆さんの見解や、皆さんにとっての「自分」をお教えいただけると幸いです。

さて、17年という長そうで短い人生を歩んできて、自分とは何か、なぜ生まれてきたのかを考える機会が多くなりました。自分が自分自身を認識するための物差しもないし、こう生きなさいとガイドしてくれる人もいない。でも、自分自身を見つめる機会が増えたことにより、すごいぼやけているけど自分の全体像を見つけられるようになってきた気がします。

自分が今一番考えることは、「僕はなんで生まれてきたのだろう?」という問いです。僕と同年代の人の中には彼ら自身のあり方を捉えている人もいるかもしれません。ですが僕はそのステップの数歩前にいると感じます。そのステップを確実に踏むためにこの問いに答えることが大切であり、今の自分が考えていることです。

では、なぜ僕はこの問いの答えを探すのか。すごく客観的に、また俯瞰的に宇宙を見つめた時に、自分の存在って本当に必要?と感じてしまいます。なぜなら物凄く小さい存在だし、そもそも、この宇宙に地球って必要?さらには宇宙って必要?という考えになってしまいます。物事が何も存在しない0の状態には何も必要なくて、宇宙も、地球も僕という存在も必要性がないものになってしまうからです。今は偶然にも歴史があって、それなりに物事がいい塩梅で釣り合っているから必要に感じることも、全てなくなってしまえばその必要も必然的になくなります。

そんな釣り合った世界の中で、僕が生きる意味を見つけることが僕自身の自分像を捉える糸口になり、それが自分をどう捉えるかにつながると僕は考えます。

存在理由はどうやったら見つけられるだろうか?ここも僕が主に考えていることの一つです。この問いを詰めていくと、一つの結論に辿り着きました。それは、「なんで生きるのか」僕は、この問いの答えを見つけるために生きているのだと感じています。これは、答えを見つけたいから生まれてきたのではなく、生まれてきてしまったから答えを見つけたい。見つけなければならないという意味です。すなわち、生きる意味を見つけることが人間としてのある種の義務であると感じるわけです。

ただ生きているだけでは、なぜ生きるのかの理由は見当たらないし、自分が属する環境とか友達とか、言葉とかが大きく影響すると思います。なぜなら、それらは人間の特性だから。特性を最大限に活かすことも自分自身の理解を深める上で必要になるのではないでしょうか。人間の可能性と自分の好奇心が重なり合うことで、自分は自身を見つけるために挑戦することを第一に考えています。挑戦といっても何かを考えて挑戦するのではなく、とりあえずやってみるぐらいの軽さです。実際に高校に入り、今までとは全く異なるコミュニティーの一部になることで「自分」をぼんやりとしたところから見つけられてきている気がします。

自然まみれの幼稚園に通っていた僕にとって、そこでの経験を振り返ると、この気持ちが後押しされる気がします。自然の世界にいることは挑戦だらけ、違う生き物や気候に毎日左右されました。何をするにしても挑戦の繰り返しで、そこでの経験がいまにつながっているのかなと思います。現在の僕を捉えると、その人間としての基盤へ、僕の好奇心や探究心が加えられ、現在の僕を作り上げてくれたのは幼稚園だったのかなと感じます。

長々と繋がりのないお話をしてしまいました。結論として自分が今考えていることは「なんで生まれてきたのか」「生きる意味は何?」という果てしない問いの答えを考えています。自分の存在を捉えたいと思うからこそ、こう考えているのだと思います。この答えを探すために挑戦をする。これが今の僕が考え、捉えた僕自身の姿です。
皆さんの考える「自分」の姿を共有いただけると幸いです。

それではまたどこかで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?