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読む理由、読むタイミング。


ふと、思いだした。

中学生のとき、図書館に入り浸っていて、ようやく本のおもしろさに気づきはじめたころ。

この列になった本棚の、端っこの「あ」の作者から順に、毎日毎日本を借りていって、読み続けたら、どうなるかな。

それって、ものすごく楽しそう!
わたしは、自分のひらめきに興奮した。



早速、かけ足で「あ」の作者の棚に行ってみる。
そこには「赤川次郎」とか、「アガサクリスティー」とかの単行本が並んでいて、ひとつ手に取って、冒頭を読む。
どちらも名前は知っているのに、読んだことはない作者だった。

しばらく眺めて、棚にしまう。
すぐに分かった。
無理そうだ。

この棚の「あ」から「わ」まで、すべての作者の本を読むには、途方もない時間と努力が必要だ。
その現実をすぐに理解して、とうていわたしにはできないとあきらめた。
棚の端から順読みプロジェクトは、スタートせずに幕を閉じた。

あのとき、思い切ってそのプロジェクトをスタートさせていたら。
今よりも、もっといろんな本が読めるようになっただろうか。
いや、そんなにうまくいくもんでもない。

◇◇◇

本を選ぶとき、「理由」がほしい。
いま、自分がこの本を読む理由だ。

それは「使えるから」とか「役に立つから」とかじゃなくていい。
なんとなく惹かれるから」、「ビビッと来たから」というのでいい。

図書館や本屋には、ずらりと本が並んでいる。
そこから、読みたいものを選ぶとき。
ただ「あ」の作者の棚にあったからという「理由」だけでは、わたしの意欲は湧き立たない。

なんでもいい。
自分のなかで納得できる「理由」があれば、たとえ売れてなくても、古くても、それを読もうとおもえるはずだ。
それは裏を返すと、「難しいから読みたくない」とか「高いから買いたくない」という、「読まない理由」も生み出してしまうけど。



その本と出会ったのは、そのときが最良のタイミングで、それを読んだときが、もっとも読むべきときだったのだ。

と、どこかの本に書いてあった。
何の本だか、思いだせない。

でも、そうだとおもう。


中学生だったあの日。
図書館の棚を端っこから順番に読んでいくのは、きっと新しい世界をひらくのに、とても役立ったんだろう。
でも、やらなかった。
赤川次郎も、アガサクリスティーも、理由が見つからなくて、読まなかった。
きっと、読むタイミングではなかったのだ。
言い訳がましいけど、そう思いたい。


あれから20年。
わたしは今、いろんなひとの本を読みたいとおもっている。
赤川次郎も、アガサクリスティーも、村上春樹も、今だなとおもう。

昨日、夫が貸してくれた本のなかに、アガサクリスティーの本があって、「とうとう来た」とおもった。
村上春樹の『風の歌を聴け』だって、読みはじめたら、あっという間だった。

まだ読んだことのない著名な人たちの作品も、「出会い」の日はとつぜんおとずれる。
きっと、読む。
そして読める。

来たる日までは、目の前の本をただ読んだらいい。
「これ読むべきかな」とか、「読んだほうがいいかな」とか、そんな心配は無用なのだ。


◇◇◇


いよいよ、梅雨がくるらしい。
家にこもる日が続く。
雨の日は、読書日和だ。

子どもたちの相手の隙間をぬって、ちまちまとページをめくる。

育児に追われ、家事に向き合うかたわらで、本の世界に片足を突っ込んでいると、現実と物語を行ったり来たりして、ふわふわする。
しかし、楽しい。

今日は、寝る前に『羊たちの沈黙』を読む。
夜が来るのが、待ち遠しい。


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