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「がんばろう」という気持ちだけ湧く。


ふと、携帯にある「読んだ本の言葉たち」というメモをひらく。

そこには、これまでに読んだ本の中で、印象的だった文章が、書き写してある。
何行もある文章もあれば、いくつかの言葉で終わるものもある。
共通しているのは、「一字一句そのまま」ということだ。


これらは、いつかnoteで引用したいとおもって、書き留めていたものだった。
でも、そうでないときでも、度々ひらくようになった。

そこには、わたしのお気に入りの文章たちが、作者の言葉どおりに並んでいる。
わたしの考えは、ひとつもない。

文章たちは、ただそこに居座って、わたしが来るのを待っている。
わたしがそれを、noteの記事に引用できなくても、人生に活かせなくても、何も言わない。
ただ、置物のように並んでいるだけ。
それなのに、メモを見返すたびに、わたしの心にパワーが溜まる。

仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる。

村上春樹『村上春樹雑文集』p.23


求めるものが見つからないときは、「半径三メートル」のなかで探すのがいいと、かつて宮崎駿監督がテレビでいっていた。ぼくは、その言葉が好きだった。
いいアイディアがなにも思いつかないときは、自分がこれまでかかわってきたもの、夢中になっていたものを、思い出すことのほうがいい。それ以外のものは、たいてい付け焼き刃にしかならない。

島田潤一郎『あしたから出版社』p.69



べつに、綺麗な言葉ばかりではない。
強くて鋭い文章や、読んでグサっと刺さるものもある。

でも、どの文章もわたしが選んだ。
わたしのために、わたしが選んだ。
そのおかげか、どの文も言葉もわたしの心にピタリとハマる。
だから、心が満たされる。

お気に入りの家具をそろえた部屋に住んでいる人は、こんな気持ちなのだろうか。
大好きな料理ばかり並んだテーブルは、こんな感じなのだろうか。

わたしにとって、お気に入りの家具、大好きな料理は、心に響いて書き残した「だれかの文章」と同じようだ。



中でも、いちばん目に止まるのは、やっぱり島田潤一郎さん。
今、いちばん好きな方だからだろうか。
書き留めているのも、島田さんの言葉がいちばん多い。

きみもほんとうは大変なのかもしれないが、ぼくもいま、大変なんだ。きみももしかしたら、一度くらい死にたいと思ったかもしれないけど、ぼくは最近、毎晩そんなふうに思う。死なないのは、両親を悲しませたくないからだ。
やる気がないわけではないし、絶望しているわけでもない。だれかが仕事をくれれば、ぼくは自分の人生のすべてを捧げて、それをやるだろう。でも、なんでもやります、ということは、社会ではなんにもできないことと同じだという。面接にさえ呼んでくれない。
ぼくはずっと頭がこんがらがっている。従兄が死んじゃって、もう半年も経ったけど、まだ混乱している。
なにをいいたいのかというと、うまくいえないけど、つらいこともたくさんあるけど、どうか、がんばって。
ぼくもがんばるから、きみもがんばって。

島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』、p.33


これは、島田さんが本屋で見た、くたびれたサラリーマンや名も知らない若い女性に、声をかけたいとおもった話からの引用である。

夜の本屋にいる彼らが、どんな悩みがあるのかわからない。
でもみんな、本棚の前に立って、なにか答えを探しているように見える。
そんな彼らに声をかけてみたかった、と島田潤一郎さんは書いている。

就活で、何十社も立て続けに落ちて、最愛の従兄も亡くなった島田さんの言葉。
これを読むと、わたしもふしぎと「がんばろうかな」という気持ちになれる。

なんの解決もしてくれない。
役に立つ情報はひとつもない。

それなのに、「ぼくもがんばるから、きみもがんばって」というひとことで、わたしは大きく息を吸い込める。


今日も、思うように書けないし、好きなように眠れない。
自分の時間はぜんぜんないし、咳も出るし、外は暑い。
しょうもないようで、切実な悩みを、わたしもみんなも、抱えている。

でもわたし、がんばります。
明日は、がんばれるか、わからないけど。
とりあえず今日も、がんばってみます。


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