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実は、誰かに会いたかったんだね。



ひさしぶりに、外へ出た。


引きこもりの年末年始を終え、ようやく次男とともに子育てセンターに赴いた。
たくさんのママや次男の同級生と出会い、あっちこっちで挨拶し、しゃべり、相槌を打つ。


ものすごく親しい仲ではない。
年齢も、住んでいる場所も、仕事も、おうちの状況も何もかもちがう。
でも、同学年の子どもを持つという共通点だけを持った「ママ」の集まり。

そこで、年末年始はどうだったとか、子どもが最近寝てくれないとか、よく食べる離乳食とか、そんな他愛のないことを話したり聞いたりした。



しばらくおしゃべりの輪の中にいると、ふと自分の気持ちが浮上するのを感じた。

心の下の方で眠っていた意識が、むくむくと起き上がる。
待ち侘びていたらしい感覚が目を覚まし、気づけば体が前のめりになる。


ああ、これは。
この感覚は。

わたしは誰かと話したかったらしい。


おしゃべりの輪の中で笑いながら、わたしは心の声を自覚した。




わたしは、ひとりが好きだ。
誰かとずっと一緒にいると苦しい。

友達でも、家族でも、始終誰かと共にいるということがわたしにはできない。


この「ひとりになる時間を持つこと」は、古賀史健さんの『さみしい夜にはペンを持て』にも出てくる。

‥会社とか、家族とか、タコジローくんで言えば学校だとか、そういう場所でずうっと『みんな』のなかにいると、なんでもない『自分』ではいられなくなるんだ。

同書p.98


そう、そうなのよ。
お母さんでも妻でも、なんでもない「自分」。
この「なんでもない自分」を取り戻すために、わたしは度々ひとりの時間を持ちたがる。




でも、ずっとひとりで過ごしていると、だんだん心がしおれだす。

さっきまで、あんなにのびのびしてたはずなのに、ふとぽつんとした心細さに襲われるのだ。


例えば、ひとりでカフェにいるとき。
さっきまであんなにゆったりとした時間を満喫していたのに、目の前の美味しいランチを食べると、それを夫と分け合いたくなる。

例えば、どこかですばらしい景色を独り占めしていたとしても、その景色を子ども達にも見せてあげたいと思ってしまう。


例えばずっとひとりでいると、だれかに話をしたくなる。
誰かに話を聞いてほしい。
いっしょに笑って、声を出したい。
あるいは誰かの話を聞いて、分かる分かると頷きたい。




ひとりでいると、心地よい。
でも、ずっとひとりでいるのはさびしい。



この「誰かと会う」のと「ひとりでいる」の、ほどよいバランスを日々探る。

年末年始、ひとりにはなれなかった。
でも外に出なかったので、誰にも会わなかった。
そんな過ごし方をしていたわたしは、どうも人に会いたかったようだ。

子育てセンターのママ達とのおしゃべりを堪能したわたしは、心を満たして帰路についた。



帰宅後、立て続けに友達から、ひさしぶりに会おうと連絡が来た。

お、どうやら「人に会いたがっている」のは、私だけじゃないようだ。
年末年始が明けて落ち着いた頃、親しくしている人たちと、ゆっくりおしゃべりの時間を取る。


私はこの「会おうよ」と連絡するのが苦手だ。
仲の良い友達でも、なかなか誘う勇気が出ない。
億劫なのだ。
予定と予定のあいだに、「人に会う」予定を入れ込むのが。

ひとりになりたがる私は、ついそうやって閉じこもる。


だから、連絡をくれる友達がありがたい。
誘われればすぐに、OKをする。
会う寸前にまた「ひとりになりたい」と囁く悪魔もいるんだけど、やっぱり会うと楽しい。
元気が出る。


ひさしぶりに、人に会った。
パワーをもらった。
充電完了。
明日からはまた、しばらくひとりの日。

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