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自分が優しくしてもらったから、他人にもお返ししたくなる。優しさが広まるきっかけって、どこにでもあるんだ


#やさしさに救われて

優しさって、どんなところにも存在する。

学校だと、具合が悪くなったとき保健室まで付き添ってくれたり、勉強を教えてくれたり、遊びの仲間に誘ってくれたり、スキー授業でひとりだけついていけない私を皆が待ってくれたり、悩み相談を打ち明けたり、逆に内緒の話を教えてくれたり。
学校にはたくさんの優しさが溢れている。

働いてからは、先輩からみっちりと仕事の指導をしてもらい育ててもらった。修正のコメントは、先輩から後輩に送るラブレターだと言って、先輩は笑った。私も若手に混ざり、食事をごちそうしてもらったこともあった。私も先輩と同じ立場になったら、先輩から受けた優しさを後輩に伝えたい。

人から優しくされると、誰かに親切にしたくなる。こうやって優しさの輪はどんどん広がっていくんだろうなと思う。

一方で、「いくら人に優しくしても、他人から受ける以上の優しさを返すことはできない」という言葉を、以前新聞か何かで読んだことがある。

その日から、私はせっせと人に優しくした。お節介おばさんのように、頼まれなくてもどんどん手助けした。そして、優しくした数と、優しくしてもらった数を比べてみた。
私の予想に反して、優しくしてもらった数の方が倍ぐらい多かった。自分で実践してみて、いくら優しくしても他人から受ける以上の優しさは返せないという言葉は、真実なのだと実感した。
人は、人からの優しさに包まれて生きているのだ。

そんな、そんな優しさをもらってばかりの私が、もっとも記憶に残るエピソードを紹介したい。


第1話 つわりで入院をすすめられたときに、手を貸してくれたママ友

それは、私が妊婦の時だった。
2人目の子どもだったので、妊娠も出産も楽勝と甘く見ていた。だが実際は、想像を絶するほどつわりがひどかった。病院の先生から入院を勧められるほどだった。

つわりのときは、お米が炊ける匂いがだめになるというが、私の場合はそんなものではない。水の匂いすらダメになり、水も飲めなくなった。唯一匂いが大丈夫だったのが牛乳。フラフラになりながらも、牛乳でプリンを手作りしたり、ホワイトソースを作ったりして飢えをしのいだ。とにかく添加物の入った市販の食材は一切使わず、牛乳を主食として過ごしてきた。
それが、出産直前の妊娠8か月目まで続いた。

あまりに体重が増えないのでおなかの中の発育が気になったが、母はともかかく、胎児は順調に成長していると先生から言われた。
主人が単身赴任の上にまだ長女も幼稚園児だったので、入院はできなかったが、いますぐ入院したいぐらい辛かった。ご飯を作れない。買い物に行けない。掃除ができない。何もできない日が増えていった。

ある日スーパーに行ったときのことだった。食料がなくてかなり覚悟して飛び込んだのだが、匂いに耐えられずスーパーで貧血で倒れてしまった。
それからというもの、近所のママ友が、車で買い物の付き添いをしてくれるようになった。吐き気がひどいときは、「自分の家の買い物のついでだから」と、私の家の分も買い出ししてきてくれた。

貧血でよく倒れるようになり、車の運転も危なくなってしまった。産院は車でなければ行けない場所にあった。2週間に1度の妊婦検診のときは、ママ友の好意に甘えて車で送り迎えしてもらった。
具合が悪くて寝たきりになっている日は、上の子どもを預かってくれて、お泊り会も開いてくれた。
その日は晩御飯のことを考える必要もなくなり、ずっと横になることができた。感謝の気持ちで涙が溢れる。マタニティーブルーの効果も相まって、いつしか号泣していた。

このママ友がいなかったら、出産まで持ちこたえられなかったと思う。遠くの親戚より近くの他人とは良く言ったものだ。最初から最後まで、気持ちよく優しくしてくれて、頼りにさせてもらった。
本当にありがとう。何度言っても言葉じゃ伝えきれないけど、ありがとう。
時間がたつと記憶の底に眠ってしまうこともあるが、なにかの折に触れてまた思い出すこともある。今回みたく、POLAさんの投稿をきっかけに、彼女の優しさを思い出すこともある。

あのときは本当にありがとう。全部は返せないかもしれないけど、いつかあなたにピンチが訪れたら、最優先でなんでもするから絶対頼ってほしい。

第2話 雪国の車いすの謎

下の子が小学校にあがったばかりの頃、足が悪くて車いす生活を送っていた。はじめは松葉づえを使っていたのだが、腕力がなく体重が松葉づえにかかりすぎたのか、脇に松葉づえの青あざができてしまった。そのうち「脇や腕が痛い」というようになり、さらにもう片足にも痛みが出てしまい、結局松葉づえから車いすに変えてもらうことにした。

それにしても、北国の冬は、車いすには厳しい季節だ。車いすの車輪は雪に埋もれて、自力で走行することは不可能だった。

共働きだったので放課後は学童に行かせていたのだが、学校のすぐ隣にある児童館までの、たった50メートルの移動ができなかった。保護者、学校、学童の3者で話し合いをしたが、学童の先生からは学校までお迎えはできないと、きっぱりと断られた。私も主人も仕事があるので、毎日のお迎えは難しかった。学校も学童まで送迎してはいけないという決まりになっていたらしい。
北国仕様の車いすはないものかと探したが、あるはずもなかった。にっちもさっちもいかない状態になってしまった。

ところが、後日電話が来て、担任の先生が「大丈夫ですよ」と言ってくれた。なんで大丈夫なのか分からないが、大丈夫と言ってくれるのだから、このさいお任せしてしまおう。
その後、3か月ぐらいで歩けるようになり、娘が車椅子生活から卒業したころに、担任の先生が教えてくれた。
「ほんとうはだめだって言われたんですけど、こっそり僕がおんぶして、学童まで連れて行きました。教頭先生には内緒ですよ(笑)」

そうだったのか。担任の先生が機転をきかせてくれたおかげで、娘は学童に通うことができていたのか。おかげで、私は仕事を辞めることもなく、働き続けられた。

先生は最後の最後まで内緒にしておくつもりだったようだが、子どもから、先生が連れて行ってくれると聞き、気になって聞き出してしまった。気遣ってくれて、自分の立場を顧みずに優しくしてくれて、本当にありがとうございます。先生の優しさに、私たち家族は救われた。私にとって、子どもの小学校生活で一番の思い出だ。

第3話 玄関に置かれた食べ物

コロナが死の病気と恐れられていたときの話だ。当時は、大学は休講になり、小学校から高校まで、授業が休みになったり、色々な制限がかけられた。
家から出たら非国民、そんなつるし上げの空気が漂っていた。

我が家も1か月ほぼ外出しない生活を送った。いつもは絶対に買い物についてこない子どもたちが、ここぞとばかりに買い物についてきた。そして、庭にテントを立てて、お菓子を食べながらswitchをしたり、本を読んだりして、気分転換をした。

かなり気を付けて生活を送っていたのだが、感染爆発のタイミングで、とうとう我が家もコロナに感染してしまった。うちの場合は、みんな40度近い高熱を出して、寝込んでしまった。ワクチンを接種したばかりの娘が1人だけ元気で、せっせと水枕を作ったり、食べ物を運んだりしてくれた。

我が家のことを一手に引き受けていた母親が病気になると、家の家事はストップする。下の子から「ママの手料理が食べたい」と言われたが、感染者が調理をするのはだめだろう。
あまりの高熱と息苦しさで、パソコンを開いてネットスーパーに頼む気力もなかった。

そんなときに、チャイムが鳴った。見るとご近所さんだった。娘の友達のお母さんだ。
「迷惑かなと思ったんだけど、勝手に買ってきちゃった。お弁当とパンとスポーツドリンク。ここに置いておくから、あとから受けとってね」
レトルト食品に辟易していた子どもたちは小躍りして喜んだ。危なく自炊するところだった。本当にありがとう。
その後も、自粛があけるまで、いろんなものが玄関先におかれた。
私は彼女の家族が感染したとき、こんなに気が回らなかった。アイスと漫画とジュースとおもちゃを差し入れたぐらいだった。
なんて的外れな品々……。本当は温かい食事がなによりありがたいのに。
自分がなってみないと分からないのだと思った。

その後、ほかの人からも食べ物をいただき、なんとか待期期間が明けた。

我が家のあとすぐに感染した一家がいたので、私もせっせと食べ物や果物や飲み物を運び続けた。
この優しさが連鎖して、みんなが楽に幸せになれたらいいなと考えながら。



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