「正欲」を読んで


本稿の目的

本稿は、朝井リョウ著の「正欲」を読んだ感想を述べるものです。対外向け(誰かに意見や同意、理解を求めること)に記載しているのではなく、自己の思想・信条を記録することを目的としています。

目次

  1. "導入"に対する初期的な印象

  2. 各登場人物に対する印象

  3. まとめ

1."導入"に対する初期的な印象

第一印象は、「自身がマイノリティであることの不幸さ、孤独、理解してもらえないやるせなさ、そこから転じたひねくれた思考、諦念」などの、社会生活でよく話題に挙がるものを本書でも取り上げているのだ、という既視感を感じた。同時にうんざりした気分も感じ、自己がマジョリティにいることを実感もした。

2.各登場人物に対する印象

1人目:検事とその一家
検事はまさしく日本における社会通念を体現していると思った。前半部分を読む限り、私の思考や思想はこの人物に近いと思った。いくら社会正義を掲げていても、検事自身の成功体験などに影響をされ、思想に偏りが生まれる。しかし、個人はその偏りに気づく事ができないし、向き合うことも難しいことが、検事の部下とのやり取りでよく表現されている。ここでの論点は、「自分もバイアスを持たないように多面的な思考を持とうと思う」という安易な、理想論的な結論に至る事ではなく、議論の出発点が「バイアスに対する対症療法」ではなく「バイアスを踏まえた在り方」であろうということである。本書では、検事に近しい息子が、検事自身が思う"正道"から外れるという「イベント」によって、妻の心情変化、普段関わらない人との関係性などが生じ、最終的に自身の"正道"と自身が大事に思っている、妻、息子をまとめた家庭に乖離が生じ、価値観の袋小路に陥ってしまう。自身の"正道"を是とするのか、家庭を恒常に保つ(=夫、妻、息子の関係性を良好に保つことを最優先する)のかという選択は、迫られることは少なくないと考える。
2人目:学祭委員の女子大学生とダンスサークルの男子大学生
自身も男性恐怖を持つ女子大学生と、水フェチの男子大学生。女子大生は、男子大学生にのみ性的関心を持ち、それに気づく男子大学生。マイノリティに対して理解を示したい者とマイノリティの構図。各々の立場での”不幸"をぶつけ合うシーンがある。それぞれの世界でそれぞれの苦しみがあり、一方は共感による救いの機会が直近であり(学祭関係者間)、その学びを男子大学生に押し付けようとしている。男子大学生の方はそうした、他者からのおせっかいには飽き飽きしているという内容。他者を理解出来などしないが、つながりにこそ喜びがある、最後の最後で、同じ水フェチ(同グループ)による「つながり」と、女子大学生(水フェチではない、非グループ)による「つながり」に同種の希望を見出しており、筆者のメッセージ性がうかがえる。
3人目:食品関係の男と販売員の女
マイノリティ同士の組み合わせ。マイノリティ側の社会の見え方、怒り、そこから仲間を見つけ、人生(明日を生きる事)への希望を見出す。やはり「つながり」の中にこそ幸福は存在する。販売員の描写(結婚式、職場で隣の売り場の人に怒鳴られること)が細かいなと思った。私個人ではミクロな些事だな、視野の小さい人が織りなす小事だと思ったが、人が成していることは全てこれくらい、どうでもよいというか、滑稽で取るに足らないことなんだろうなと思った。当の本人はそうは思わないだろうが。結局のところ、自己と他人自体に大きな重みの違いを持っているという当たり前に帰結する。

3.まとめ

 結局は、「人間見える範囲しか、理解も関心も嫌悪も拒絶もできない」という認識論による、簡単なことを、現在のこの「多様性」が叫ばれる世の中に今一度認識してほしい。という筆者の想いが読み取れる。そして、理解や想像が及ばないマイノリティに対し、「理解を示すことが救いではない、生まれ落ちた社会の不条理に対するよりそい」みたいな一定の理解を示し、「とはいえ、あなた方も頑張って他者との繋がりを探って幸せになってね」という主張だと読み取れた。量子力学の世界では、世界を構成する素粒子等の量子はすべて"確率のゆらぎ"の中で状態が説明される。簡単に言うと状態は確定的ではなく、また確定的でないことそれ自体に意味はない。この話に通ずることがあると思う。つまり、人間個人には"ゆらぎ"が存在し、他者が個人を確定することはできない(物理の世界だと実験によって状態を確定できるが、社会ではそのような実験ができない という前提に基づく)のならば、個人に着目することは世界(=社会)上意味をなさない。最大の矛盾は、個人は各々自分自身に大きなバイアスを抱えており、個人に着目しているという事である。検事は、社会正義と自身の正義を家庭(妻や息子)に適用しようとした。検事自身の正当化に、社会正義(マクロ)を用いることはできない、あくまで個人と個人、対等なのである。
 もう一つ、「人間を理解することはできない」「人間それぞれにそれぞれの苦しみがある」「人間皆不安」に対する解決策として、筆者は「忘却」や「宗教」を挙げている。妥当な線だと思う。私からは「老い」を提起したい。老化は世間一般には「悪い事」だとされていると考えている。心身の衰え、見た目の変化などである。一方で、老化によってあらゆるものに対し「鈍く」なるという研究結果がある。怒っている人を見ても、その人の想いとは裏腹に、それほど真に受けられない(=人の感情の機微を感じにくくなる)らしい。つまり、人の断絶や自身の不安に対しても、その境界が曖昧になることに他ならない。老いは忘却も連れてくる。読者諸君も、学生時代などの多感な時期には苦労した経験があるのではないだろうか。過去に比べて現在の方が社会的なプレッシャーにさらされているであろう一方で、そこに比べれば図太くなっているのだと私は思う。また、「EQの低さ」も解決策に挙げたい。本書の溺死した、マジョリティ陽キャを取り上げるが、彼は世間一般の趣向と合わせて、他者への想像力がひと際欠如しているEQの低さがあると思う。これは、先天的によるところが大きいので解決策にならないが、自らの属しているコミュニティが自己とマッチし、かつ根拠のない自身を兼ね備えている場合、それはまぎれもなく幸福である。溺死したとしても、それまでの人生は幸福である。
 この本の総評だが、筆者のマイノリティへの配慮、世界へのマイルドさを感じた。この本は非常に優しい、世界に希望をもたせるような内容である。それだけに、フィクション感が強い。この世界は、所詮持って生まれた環境・ステータスから、生涯をかけて如何に欲望を他者に押し付け合うかという話である。救い云々ではなく、世界の構図、ルールがそうなっている。これは、社会、規律などに先立つ、潜在的な"原理"である。社会がいくら成熟し、最大多数の最大幸福が叫ばれ、福祉制度が整っても、この世界は残酷であるという現実は変わらない。そこは人間の及ぶ領域ではない。人同士は一生完全に理解し合うこともできないし、WinWinで居続ける事などできない。不合理もなくならない。如何に不幸な現実を「幸福だ」と認識できるか、その仮初めの現実をどうすれば得られるか(私は老いとEQの低さを提起)が本質であると考えている。

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