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あなたは世界のためにある

自分のためだけに生きると苦しくなる

私たちは自分のために生きていると思いがちですが、本当は「自分以外」のために生かされていると考えてみましょう。

自分のために生きていると思っていると、人生をもっと自分の望み通りにしたいと思ってがんばります。

いい仕事に就きたい、収入を上げたい、好きなことをしたい、家族を幸せにしたい、のんびりしたい、旅行に行きたい、etc.

今の満たされてない状況を感じてのことですから、自分のことを考える時は「こうなりたくない」から「これが欲しい、あれを得たい」となりやすいです。
エゴの不安と怖れが原動力となり、大きく作用します。

この場合は「現状を変えたい」という思いと、「現状が変わるのが怖い」という思いが拮抗状態にあって綱引きをします。なので、十分な力を出すことができません。現状から抜け出す覚悟ができてないので、アクセルとブレーキを同時に踏んでいる状態です。そして、なかなかうまくいかずにあきらめたり、苦しんだりします。

全体の関係性で見ると、バランスがとれている

自然界を個々の存在の集合と考えると、弱肉強食の残酷な生存競争の世界に見えます。が、全体の関係性で見ると、もっと俯瞰して見ることができます。

滅びるものもあれば、生き残るものもあります。すべてのものに優しくはありません。その循環のなかで、全体の「自然」(地球)は持ちつ持たれつで保たれています。

森の中では生と死が共存しています。宇宙のエネルギーの総量は変わらないそうですが、その中に苦しみという体験も楽しみという体験もあります。

生ばかりを重要視すれば、死は恐ろしいものになります

森を歩けばわかりますが、森では、死は終わりではありません。「いのち」は続いています。倒木は枯れても、苔むしたり、他の生き物の住処になり、枯葉はゆっくりと微生物が分解してくれます。死んでもまだ他者により生かされていると言えます。

野生動物は我が強くないから未練が残らず、死体がすぐに消えてしまうと聞いたことがあります。現実的に言えば、他の野生動物に食べられてしまうか、死期を察した動物は目立たないところに行って亡くなっているのでしょう。
街であれば、車に轢かれたりして死んでることもありますが、山で動物の腐乱死体を見かけることはあまりありません。

森羅万象としての自分

「自分のために生きる」から「他のために生きている、生かされている」にシフトしていくと、気持ちが楽になると思います。

奉仕精神や自己犠牲、偽善ではなく、「自分」という存在が一つの肉体を持つ個体としてではなく、「森羅万象を含めた自分」と考えると、「他のために」は自分のためにと同義になります。「森羅万象を含めた自分」は、「森羅万象津々浦々と関係性を持つ自分」と思ってください。つまり「自分」という定義が大きく広がります。

あなたの目は、物理的には「あなたの目」としてありますが、あなたの目玉だけが存在しても機能しません。あなたの肉体に備わっているから、目としての機能が果たせます。そしてあなたの肉体は、外からの酸素、食物、水などを得て生きています。
森羅万象という肉体があり、あなたはその一部を担っていると考えるとわかりやすいでしょうか。

我が思う天命と、その向こうにある天命

自然(または宇宙)という有機システムの中で、自分は一体どういう役割を担っているだろうか? そして、どのようにそれに関わっているだろうか?と考えてみてください。
これは自分が考えて答えを出すというより、すでにある答えを ”与えてもらう” に近いです。

人間社会の中で「私の役割は?」「私の天命は?」と考えると、仕事として、親として、経営者として、主婦として、というように外見的な役割にとらわれがちになります。

人間枠を超えてもっと大きな視野で見ると、必ずしも今の社会で良いとされていることが奨励されるわけではありません。むしろそれを超えて、本当に必要なものは何か? あなたができることは何か? と考えると、実に無益に思えることだったり、荒唐無稽になることもあるでしょう。が、より本質に近づくのではないでしょうか?

この時に「私は〇〇が欲しい、〇〇がしたい」という我は入らず、それよりも、その我を捨てるに近いです。近いけれど、実はそれは強力な我でもあるというパラドックスがあります。

個が強烈になるほど、個が消える

例えば、マイケル・ジャクソンやレディ・ガガ。
自分の才能や興味どころをとことん突き詰めていって、唯一無二の存在になっていくほどに強烈な個性を発します。そして世界のスーパースターになっていきます。個が強烈になればなるほど、個人が消えて「世界の〇〇」になります。

マイケル・ジャクソンは、自分を世界に捧げた人と言えます。
キリストもそうですね。神の子になっちゃいましたからね。

「いのち」が担った役割とは?

たいていの人の今やっている役割は、エゴの自分が望んでいる役割であり、あなたの「いのち」が担った役割とは違います。近いものである可能性は高いですが。

「他のために生きている、生かされている」のなら、どんな自分でも、それは「あなたにとってではなく、「あなた以外」にとって意味あることです。あなたの好き嫌いは関係ありません。自分では自分の価値を判断しようがありません。それはあなたが決めることではないですから。

「自分を受け入れたい」、つまり「自分を受け入れられない」と思っている人は多いです。自分を過小評価することは、あなたを存在させた宇宙の意思を否定することになります。
それさえも宇宙の意志であるとも言えますが、そうなってくると、それを超えていくのか、そこに甘んじるのか、は自由意志に任されていると言えます。

あなたが今、そのように存在しているのは、その必要があってのことでしょうし、そこからどこに向かうのか? もまたあなたの自由意志、あなたに任されています。

あなたが変化すれば、世界も変化します。
全体のダイナミックな流れの中で、その必要性は常に変化しています。

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