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本当にキツネは人をだますのか?

異形のものと交流があった時代

昔話やおとぎ話には、動物と人間の交流がよく描かれています。動物が人間の姿となって人間と婚姻関係を結ぶ異類婚姻譚もあります。
「鶴の恩返し」「舌切り雀」「花咲か爺」「ごんぎつね」「文福茶釜」など。
海外の童話では「三匹の子ブタ」「赤ずきん」「美女と野獣」「カエルの王様』などあります。
また、安倍晴明のお母さんは狐だったと言いますね。

動物が人間の姿になったり、人間と動物が交流する話が多いのは何でなのだろうか?と不思議に思っていました。

先日、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったか』(内山節著)を読みました。上記の疑問が解決したわけではないですが、私がなぜ人間社会に違和感を感じ続けてきたかの答えが見つかりました。

そう、私は子供の頃からどうも人間にはなじめずにいました。人間というより、大人社会といってもいいですが、人間社会に違和感を感じてました。
小学生の頃に「私の友達は自然だけだ。人間は嫌いだ。」とスレたことを思っていたのを覚えています。とはいえ、いじめにあったとか、友達がいなかったわけではありません。ただ人見知りであったし、女子がペアでトイレに行くとか、一つのグループにまとまるということは苦手でした。一般的なしきたりや常識になじめなかったと言ってもいいでしょう。

言葉以外で語り継がれる記憶とは?

上記の本を読んで、腑に落ちたことは、今の社会は「知性の歴史」のみで語られているということ。筆者は「知性による記憶」以外に、身体が覚えている「身体の記憶」と「生命の記憶」があるといいます。
これは知性で理解されるものではなく、例えば、職人の技は人の手(身体)によって受け継がれていくように、身体や生き方、村の営みなどに蓄積され、受け継いでくれる人がいることによって継続して循環していくものとしています。

私たちの知っている歴史はほんの一部です。知性で理解しうる部分のみ、それも支配者によって改ざんされたものが残っています。

昔はキツネにだまされた人はたくさんいたそうです。私も子供の頃に、親戚のおじさんからキツネにだまされた話を聞いてドキドキしたことがあります。母に「夜に田んぼ道を歩くとキツネに化かされるから気をつけなさい」と言われたこともあります。だまされたことはありませんが。

facebookにこの本を紹介したら、「自分もだまされたし、そんな人たくさんいた」とコメントくれた人がいました。今だと信じがたいことです。「そんな世界は勘違いだ、幻覚だ」と片付けてしまうこともできます。しかしそうしてしまうのは、近代以降の考え方に毒されてしまっているから、とはいえないでしょうか?

生命感が「場」から「個人」へ移った時代

筆者は、1965年以降からキツネにだまされる話が消えていったといいます。高度成長期によって人間が経済価値を優先するようになった、科学的見方が中心になった、テレビラジオの普及により情報伝達の方法が変わった、などの理由により、自然や村という場や共同体、自分を包み込んでくれる生命の場が失せて、個人の孤独な営みに変わっていきました。

自然や共同体の中に包まれて自己を感じていたのが、分離社会となり、個が強調され、つながり感が薄れました。自然は他者となり、人間とは別に、客観的に存在する物理的なものと見なされるようになりました。

そもそも私はこの分離感覚に違和感を感じていたように思います。気づいたのは大人になってからですが、私はエンパス体質で、まわりの人の感じていることを察知して自分ごとと受け取ってしまうことがわりと普通だったようです。
人は本音と建前があります。そのズレを感じていれば違和感になるでしょう。

またそれ以前に、私は自然との関わりにおいての分離感が希薄だったのだと思います。だから、人間と自然が別々になった社会で生きること(精神的な意味で)に違和感を覚えていたのでしょう。

全体との結びつきを失った個としての私たち

結局のところ自然観が全然違うのです。近代以降は個が強調される分離の時代です。

伝統的な精神世界の中で生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。もうひとつ、生命とは全体の結びつきの中で、その一つの役割を演じている、という生命感があった。個体としての生命と全体としての生命という二つの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないか。

とこの本に書かれていますが、「個体としての生命と全体としての生命という二つの生命観」を子供心に感じていたのだと思います。しかし人間社会では、個体としての生命のみで成り立っていて、それがとても違和感を感じさせるものだったのでは?と考えます。

そしてこの感覚は、私たちがこれから向かう自己のあり方と似ていると言わざるを得ません。同じかたちにはならないでしょうが、個と全体の関係は「全体の結びつきの中で、その一つの役割を演じている、という生命感」に向かっていくものと思われます。

つまり「経済活動による個の成功」ではなく、もっと生命感を感じさせるレベル、自分の生命の源により近いレベルで自分の本質を生きる人が増えていくだろうと思います。

それは個人の願望実現ではなく、共同体、あるいは「全体」の中での自分の役割的なところ、コンスタレーションを感じるからこそ見えてくる自分の役割となります。そうなろうと思ってがんばるのではなく、自然とそうなっている流れです。
ただし閉鎖的な村社会の役割ではありません。もっとオープンで抽象度の高いレベルでの話です。

そしてこの考え方に至るには、自然との関わりを見直さなくてはなりません。今の私たちはほとんどの人が自然と人間を分けて考えています。

可視的な、不可視的なさまざまな生命の存在する世界

昔の日本では、自然と人間のへだたりは曖昧でありながら、犯してはならない一線が引かれていました。

人間が太陽の光に包まれ、風に包まれて生きているように。かつての日本の人々は、自然に包まれ、共同体に包まれて存在している自己を感じていた。だから自分を見つめようとすると、そのこと自体のなかに自然や共同体が入ってくる。自然や共同体に包まれて成立した「場」のことを風土と呼ぶなら、自己とはたえず風土とコミュニケートするなかに成立するものだったのである。
神が降臨して宿ったのではなく、自然の生命それ自体が神であり、その「生命」が岩や水、山として現れているのである。ここには天から神が降臨し、その子孫が神々になっていった「日本」神話とは異なる神々の世界がある。
 山の神、水神、田の神、...村の世界はさまざまな神の世界であり、それとどこかで結びつくさまざまな生命の世界であった。自分の生きている世界には、「次元の裂け目」のようなものがところどころにあって、その「裂け目」の先には異次元の世界がひろがっていると考える人も多かった。その異次元の世界に「あの世」を見る人もいた。時にはオオカミはこの「裂け目」を通って、二つの世界を移動しながら生きていると考える人たちもいた。
 可視的な、不可視的なさまざまな生命の存在する世界、それがかつて村人が感じていた村の世界である。とすれば、天狗やカラス天狗といった生命が山の世界の中に感じ取られていたとしても、それはそのまま受け取っておけば良い。現在の私たちの世界では架空の生き物であったとしても、その頃の村人たちの生命世界の中では感じ取られていたものなのである。

この文章にはとても親しみを感じます。私が子供の頃からずっと感じていた世界観がこのようなものであるなら、表層で生きてきた通常の人間社会に違和感を感じてきたのは当然と言えます。合理的、結果主義、競争社会、物質主義、科学的であることが正しいとされてきた時代。それは世界の一部分でしかなかったわけですから。

異端、異世界とされる世界はファンタジーではなく、昔は連綿と育まれる生命の一部であり、生活の一部でもあったわけです。世の中にはこういう世界に親しみを感じる人たちもいれば、通常の人間社会を好む人たちもいます。

どちらがどうか?という話ではなく、本当はどちらもありです。しかし近代からは、理性的人間が営む社会が正しいとなされてきました。それにそぐわない人たちは「自分がおかしいのだろう」と世間に合わせようとするか、「変な人」に甘んじるか、自分が感じている世界をクリエイティブに表現をするか、でした。

みんながそうだと信じているところではそれが起こる

この本の中のエピソードで、ある村に外国人技師がしばらく滞在したけど、キツネやタヌキなどにだまされなかったという話があります。村人にとってはだまされるのはありふれた日常だったそうです。

村人を包んでいる自然の世界や生命の世界と、その外国人たちを包んでいる自然の世界や生命の世界が、客観的世界としては同じものでも、とらえらえた世界としては異なっている。それがこのようなことを生じさせたのだろうと思う。

日本人とモンゴル人は虫の音を左脳で言語として聞くそうです。が、他の国の人々は雑音処理して遮断してしまいます。実際、真夏にセミが鳴いているときに、聞こえてなかった外国人がいたそうです。
日本人であれば、あれほどミンミンジージー鳴いているセミの声が聞こえないのか?とびっくりしてしまいますね。しかし私たちは聞きたい音だけピックアップして聞いていますから、十分ありえることです。

以前、チベットによく行く知り合いがいました。チベットでは幽霊や不思議現象は日常茶飯事とのことで、彼も実際になんどか不思議現象に出会ったことあるそうです。彼曰く「ここではみんなそういうことを信じているから、そういうことが起こるんだ」。

これは信念とスコトーマ(心理的盲点)の話とも言えます。
みんながそうだと信じているところではそれが起こる。
ないと思っているものは見えない、出会わない。

信じているコンテクストによって体験する事象が違ってきます。

UFOを見る人はよく見ます。見ない人は見ません。よく見る人曰く「たくさん飛んでるのに、あると思わないから、目の前にあっても見えないんだよ」だそうです。

魑魅魍魎や百鬼夜行、妖怪、鬼、精霊などがよく出た時代には、多くの人がそれを信じている風土があったからこそ見えたのでしょう。

そういう自然観や生命圏をもたない人は、自然を物理的現象としてしか見ません。「キツネが人をだます??キツネは動物だろ?」と科学的根拠に基づいて「キツネは人間にはなることはない」ときっぱり説明してくれるでしょう。

人が森羅万象と対話、交流する時代に向かって

これは今風に言い換えれば、パラレルワールドとも言えます。
何を信じているかによって出会う事象が変わります。

人が森羅万象と対話したり交流できる時代がまた近づいているように感じています。それは天体の配置の影響と人々の集合意識の進化によると思っています。

自我意識が強くなりすぎた弊害を今、私たちの多くは感じています。分離された個人の世界の中で、富や成功を求めて、必死に蜘蛛の糸をつかんで登ろうとしてきました。

コロナウイルスをきっかけに今、急速に社会システムが変わり始めています。テレワークの普及や食糧難への危機感から田舎への引越しを考えている人も少なくないようです。まだしばらく時間はかかるでしょうが、人々が自然に包まれた生き方にシフトする時が少しずつ近づいてきているように思います。



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