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夜明け前は暗いけど、日はまた昇る

話は遡りますが、9月の秋分の日の翌日にふと流れが変わったのを感じました。
その頃、脱洗脳の講義を受けたので、私が脱洗脳されたのかもしれないということもふまえ、、、。

こういうことを書くと、陰謀論ですか?スピですか?と煙たがる人もいるかもしれません。
まあ、ご自由に受け取ってください。私がそう感じたというだけの話ですので。

何を感じたのかというと、後ろにあったものが前に出てくる裏返し現象。
それは何かというと、、、。

どういう人たちが世界を支配しているのか?

今まで主流であった世界の影の支配層。彼らは表には出てきませんが、ありとあらゆることを司っています。この世界がどういう人たちによって計画的に作られ、コントロールされてきたのか? それは想像以上のものです。

シュメールの石板には、アヌンナキという神々(宇宙人)が遺伝子操作して金採掘のための奴隷として人類を作った、と書かれているそうです。この話自体が本当なのか眉唾物なのかはわかりませんが、「奴隷として人類を作った」とあります。
この考えは今も残っており、この子孫だと思っている人たちにとっては彼ら以外の人間は最初っから奴隷です。

旧約聖書では「神が自分に似せて人間を作った」と書かれています。そして旧約聖書から現代に至るまでの血筋は今も根強く残っています。彼らにとって異教徒はその系列に属しません。つまりその他の人々は人間の姿をした”獣”の類いなのです。

「まさかこの時代に?」と宗教にこだわらない日本人なら思いますが、この思想は根深く残っています。

そういう人たちによって世界はコントロールされてきたし、これからもより一層そのコントロールを強めようとしています。このままいけば、その人たちが主導権を握り、その他の人たちは今まで以上に奴隷や家畜っぽく生きる世界の実現となりそうです。
それに疑問を持たない思考停止した人たちにとっては、それは「いい世界」になるのでしょうが。

神と人の境界が曖昧な日本

日本人は日本列島で育まれた文化の中で過ごしてきました。欧米化されてしまったとはいえ、根底にある日本人らしい感性はまだ息づいています。豊かな自然や島国だったことが幸いしたと言えます。

日本神話では、人がいつどのように生じたかが曖昧です。神が「人を作った」とは書かれていません。それどころか初代天皇である神武天皇は天津神です。神の系列から天皇家が始まります。神が人と交わり、その子孫が続いたとすれば、天皇家は神の子孫となります。

天皇家がそうだとして、じゃあ、平民はどうか?

イザナギとイザナミの話で、黄泉平坂で二人が言い争ったときに、イザナミが「一日に千人殺す」と言ったのに対して、イザナギが「一日に1500人、生もう」と言ったとありますが、神様が人を作ったとも生んだとも書かれていません。

神が人間の女性を見初めて、蛇の姿で夜這いに行く話などもあります。
実在した人が神として祀られたり、人と神が交わったりする国ですから、神と人が近い存在なのでしょうね。

そこには神と人との絶対的な上下関係はなく、とても曖昧です。西洋的な契約関係もありません。神の教えも教義もありません。
荒ぶる神になる時もあれば、恵みをもたらす神にもなります。自然観が色濃く反映しています。

日本と西洋の神の概念の違い

この違いは大きいです。

奴隷としての人間。
神に似せて作られた人間とそれ以外の人間。

このどちらも人間の上に神の存在があります。
神が人を作り、ルールを与え、契約を結べば救済されます。

そういう世界観のもとに西洋文化はできあがっています。だから世界を統一して、統治するのにふさわしい人たちにすべてをまかせる方がいいという考えが生まれます。

けれども日本はそうじゃなかった。日本だけではないですが、ここでは省きます。自然観が全然違っています。
神が人のために自然を作ったわけでも、自然は克服すべきものでもありません。

神も人も自然の賜物です。生命の連続性の中で自然とともに生きます。
神的な存在は見えない情報的な存在であり、人は物理世界にいる存在です。
神々と人と自然とがゆるやかにつながっています。
だからすべてのものに神が宿ります。

この世界は誰のもの?

秋分の翌日にきたインスピレーションは、世界統一に向かう流れがどこかで崩れ、まったく別の世界が現れるというものでした。あるいは、二分化して相入れなくなるのかもしれません。パラレルワールド的に。

「10月のメッセージ」に「縄文人のDNA」という話が出てきて「なんで縄文?」と思ったのですが、今回の気づきで、その後に現れる世界が縄文的な世界になるということかと改めて腑に落ちました。
そうだろうなとは思っていましたが、グレートリセットに向けての動きが現実化していくほどに、完全管理社会になっていくんだろうか?という懸念がありました。でもそれは長続きはしないか、その手前でどんでん返しが起こって実現しないか、そちら方向に舵を切りそうな気がします。

私が思うに、縄文系の人たちは地球由来のエネルギーの延長線上にいる人たちです。縄文人だけでなく、先住民や少数民族なども含みます。

地球と相性がいいのは世界統一を目論む人たちではなく、縄文的なありようでしょう。地球意識、あるいは人類の自然に根ざした部分の集合的無意識が作用して、そして長年に渡った西洋的な価値観の世界が崩れ、縄文的な価値観の世界が到来するのではないでしょうか?

そう思うと、135度線の話 ー 明石〜淡路島あたりの135度線の地域がこれからの文化の中心になるという話 ー それにもつながっていくなーと思います。

「縄文」という言葉でまとめてしまっていて、その「縄文」の定義はなんだろう?と私も書きながら思うわけですが、「地球と調和して生きる」ということかなと思います。そういう精神を持った人たちやそういう生き方をする人たちを大雑把なくくりですが、「縄文」という言葉でまとめました。

もう少し突っ込んで言えば、世界統一を目論む人たちのさらに上にある”存在”が、私たちがそこに向かうためにそれらの人々を動かしているのか、彼らの中にはすでにその計画を見越して今グレートリセットに向けて動いている者がいるのか?

ともかくは今までとは違うエネルギーが浮上してきているなと秋分の日の翌日に感じてその印象は強くなっています。

どこでそのどんでん返しが起きるかは私たちの意識次第かな?と思います。
縄文精神とサバイバル精神を身につけていれば、それを乗り越えていけるでしょう。

宇宙船地球号に乗る私たち

ますますみんながいい未来ストーリーを思い描いていくことが大事になってきました。今のところその逆をいっている気はしますが。
だからこそ気づいた人からそのイメージを強めて、そのために行動することが大事ですね。

もう自分だけの成功や幸せを願う時代はすぎちゃった感あります。
世界全体、あるいは人類や地球全体をどう幸福にするか?というところで考え、行動する人が時流に乗っていくのでしょう。

何年か前のメルマガかブログに書きましたが、「もう十分に自己成長する時間とチャンスは私たちに与えられてきたので、今まだ変わらない人たちにはもうなにもできない」と感じる時期がありました。

ガラガラとシャッターが閉められ、線が引かれた感じでした。
どういうことなんだろ?と思いましたが、その後のコ○ナが始まりました。

それまでに自己成長した人はその後の変化についていけるけど、そうでない人は大変になるということだったのかと思いました。

そして今度はもっと大きな波です。
西洋文化から縄文精神への移行です。

そうなるには相当大きな変化がないと難しいでしょう。
これから少しずつ現れてきます。
新旧交代の時期だと思って慌てず、焦らず、恐れず、落ち着いて過ごしましょう。

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