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異界から人間社会へ、そして再び異界へ

今日の話は長いです。二つに分けようかとも思いましたが、まとめて載せることにしました。あちこち話は飛びますが、最後はちゃんと着地できたかな?と思います。

恵みも災害ももたらす自然にどう接する?

現代では多くの人たちが、人工的な思考と人工的な動きで、人工的な場所で人工的に生きています。自然とかけ離れた生き方です。

西洋文化が人間第一主義で、自然を克服するという流れでした。近代以降の日本はかなりそれに影響されました。

自然災害が多い日本では、そもそも「自然を克服する、自然に打ち勝つ」という考えよりも、「自然の中で共に生きる」という考えでした。

洪水や地震や噴火などが起きると、人間が作ったものは一瞬で崩壊します。
昔から日本人はその脅威を知っていました。

なすすべがない。
そうなってしまったら、あとはまた地道に復興していくしかない。

その繰り返しでした。

しかし同時に、四季折々の豊かな自然の恩恵も受けています。水も緑も豊かで、暮らしていくには良い土地です。

砂漠などの過酷な環境では、照りつける太陽と砂漠という選択肢が少ない自然環境での暮らしです。天と地に分けられます。

日本だとその中間に森があります。
そこは多種多様な生き物の住む空間です。

日本はあちこちに霊的な存在が潜んでいるような自然環境です。
多神的になって当然でしょう。
私はこれは湿気によるものだと思います。湿気があるがゆえに、いたるところに
カミや異界の気配を感じさせます。

また同じ神が恵みも災厄ももたらします。
両面を持った神さまです。優しくもあり、恐ろしくもあります。

その多種多様な関係性の中で、変わらないものがあります。

日が昇り、沈む。
月が出て夜が来て、また朝になる。
春夏秋冬がやってくる。

なにがこれらを規則的に動かしているのか?

日本の風土は、厳しさとともに優しさや慈愛が含まれているように思います。
時々荒れ狂うので、そんな時、人々は何か気を損ねることをしただろうか? 何かバチが当たったのだろか? と自分を省みる傾向にあったでしょう。

その土地の自然環境はそこに住む人々の考え方や習慣を左右します。
自然と関わっていると、季節の流れが循環しながらも少しずつ変化している様子が明瞭にわかります。


デイダラボッチがいかにして生まれたか?

毎年、時期が来ると芽を出す植物。それが枯れると違う植物が芽を出します。毎年、植生が少しずつ変わっていきます。

一つ一つの植物や虫たちが生きていますが、その土地自体が一つの生き物のように息づいて、同じようでありながら、少しずつ変化しているのがわかります。

土地というより、そこの自然が土地と一体となって、一つの生き物のようです。

デイダラボッチ、ダイダラボッチ、山の神、
これらの存在はもしかすると、その土地に住む人が、そういう生き物的な感覚を豊かに表現したものではないでしょうか?

人間の身体も多重構造ですが、土地も多重構造になっています。
「大地」という大きなくくりではなく、そこにある植生や動植物の営みを含めた「場」という感覚。

場所が変わると、それぞれの生態系も変わります。その場所における総体的な”生き物”感も変化します。

土地神、地主神として祀られるより以前にあった、その土地のカミ信仰はこれに近いのかな?

もっとアニミズム的ですね。
神よりカミ、精霊や妖怪に近いかも?

土地神、地主神となると、私の感覚では人間が作り出した感あります。
この土地を守ってくれる神的な存在として。
人の願いや政治的意図が作り出した神。

そうやってまとめられる以前は、もっと曖昧模糊としたその土地ならではの「生き物感」だったのではないでしょうか?

自分の肉体も自分が住むところも似たようなものです。
そこにあるものとどう関わっていくか?を「”場”を形成する」ことと考えると、自分という存在は「自分」ではなく、「自分という場」または「自分たち」と言うほうが適切になってきます。

身近な自然との交流で生まれてくるもの

うちの庭が7年目にして、今年から雰囲気が変わりました。昨年までは私にとって、庭やそこに住まう生き物はまだ他者感、物質感があったのでしょう。

ところが今年はそれらが一つの生命圏を形成していて、そこに私も受け入れてもらえているような感覚があります。ただ単に私の知覚が変化しただけかもしれませんが。

傍目は草ぼうぼうの手入れしてない庭ですが、自分的にはできるだけ自然な状態になるよう心がけてきました。それなりのなんちゃって生態系ができつつあるのかな?なんて思ってます。生き物はわりといろんな種類がいると思います。

それにより ”うちの庭” という生き物が生まれてきているような感覚を得ます。

生態系がうまく循環する場ができれば、そこにはひとつの生命体が生まれると言ってもいいでしょう。生命体といっても、一つの個体があるわけではなく、「生命圏」と言う方がいいかもしれません。

多種多様な生き物が相互に関係しながら、営みを循環させて、あたかもひとつの生命のようにも見えます。

”森”はひとつの生き物のようだ

豊かな森がそうですね。森に住む多種多様な生物による営みがそこで循環して、森全体がひとつの生き物と化している感じです。

”森”という生き物です。

昔の、自然が身近な中で暮らしていた日本人は、この感覚を得ていたのではないかと思います。これが、デイダラボッチのような巨人や山の神を彷彿させたのでは?と思いを馳せます。

人体もいろんな生き物や仕組みが集まって一つの肉体となっています。

今のように、アスファルトやセメントで固められた町では、そのような場を感じるのは不可能です。それはそれでまた違うカタチの”妖怪”が出没しそうですけどね。

なるほどこれが内山節氏が書かれた「自然に包まれた自己」という感覚かなと思います。(参考記事『本当にキツネは人をだますのか?』)

これを感じている人は孤独になることはないでしょうね。穏やかな気分でいられると思います。

話が飛びますが、「自然や共同体に包まれた自己」という話を読んだ時、「胞衣(えな)」に近いなと思いました。

「胞衣(えな)」とは臍の緒や胎盤ですが、胎児が羊水の中にいるときに溺れることないよう胞衣が赤ちゃんを包み込んでくれているそうです。

胞衣信仰がからんでくると、もっと面白い方向に話が向かっていきますが、そこはまだこれから考察していきます。

昔、書いた記事ですが、参考までに。
胞衣をつけた子供
後戸の神
うしろの世界の王』 

現代人が自然とかけ離れて過ごすようになった結果が現代の状況です。

今、農業や田舎暮らしへの関心が高まっています。人の意識が変わらないまま、食糧難や災害に備えて生き残るために農に携わるのは、なんか違うなーと思います。が、今までそういうことに縁のなかった人たちが関わることで、気づくこともたくさんあるでしょうね。人の意識もまた変わっていくでしょう。

自然とともにあることを思い出しつつ、人としての本来のあり方を模索しながら、自然と関わっていきたいですね。

画一的な世界に生きていると...

私は家庭菜園程度なので、素人感覚の私の話だと思って読んでください。
野菜や植物を育ててみて、実は、野菜作りには少々違和感を感じています。

自然の植物はその場に種を落とし、また芽を出します。いろんな芽がでる中で自然淘汰されていきます。

ところが、野菜は連作障害がでるものが少なくありません。同じ場にタネを落としても育つことができないことには不自然さを感じます。

人間が効率的に育てて収穫するために品種改良された野菜は、「種を落としてまた生えてくる」という循環を目的としていない野菜が多いです。土の微生物が元気であれば、連作も可能なのかもしれないですが。

近所の畑に植わっている大豆を見ると、とてもお行儀がいいです。同じ背丈大きさできれいに並んで生えています。なるほどこれがF1種なのかな?と思って見ています。それとも手入れの違いか? 他の畑で普通に伸びてる大豆もあるので、品種の違いかもしれません。

以前、スーパーで同じ大きさ形の野菜がずらりと並んでいるのを見て、気味悪く
なったことがあります。

画一的な野菜を食べて、画一的な家に住んで、、、
これは怖いなと思いました。衣食住や都市計画からそうなのだから、知らぬ間に染まってしまうんでしょうね。

自然との関わりを考える

自分んちの庭畑は種を落として勝手に生えて育つようにしたいとズボラな私は
思っています。

植物によっては勝手に生え盛り、野生化しています。自然淘汰されるものもあります。野生化したものは生きるパワーに満ちています。今度は増えすぎないように気をつけなくてはなりません。

それでもモーレツに生える時期もあれば、虫にやられる時期もあります。また昨年は虫にやられたけど、今年は大丈夫なんてこともあります。私はそこらへん全然勉強不足なので、実際はもっと効率よくできるんだろうけど。

そんなものを食するわけですから、野草を食べてる感ありますが(笑)、たくましくなりそうです。住処のまわりに生えているものを体内に取り入れてるので、エネルギー的にも内外通じるものがありそうです。

自分とその周囲の自然との関わりの中で、見えない流れができてくるんでしょうか。そんなところからも自然との一体感が生まれるのかもしれないですね。

自分を超えた「何か」に属する安心感

縄文時代が平和に1万年以上続いたのは、こういう自然とのやりとりがあったから
ではないかな?と思います。そこに争いは生じにくいです。

全体感覚があり、自分はその自分を超えた「何か」に属している感じで、それらが
循環で成り立っています。個体としての自分は、その流れの一部として存在しています。個体間で分離されません。

人は誰かと関わる時、通常は分離感、つまり「あなたと私は別々の存在ですよ」という認識の上に成り立っています。時々何かの機会に一体感を感じた時には気持ち良いと感じ、うれしくなります。

「自然に包まれた自己」の感覚の時は、一体感(というより帰属感?)が先です。接している時は分離感ではなく、同じ世界(場)を共有しているなかで、お互いを個別な存在だと認識しています。

人同士のつながり以前に、共有する「場」があります。
「場」といっても「場所」じゃないですよ。

その次に個体としての認識がきます。
同じ夢を共有している感覚っぽいかもしれません。

食べることはつながること

「身土不二」という言葉があります。
身体と暮らしているところの土は切っても切り離せない関係にあるから、自分がいる土地のものを食べるが良いということです。

まわりの身近な自然を食して、自分の体内に取り入れます。自分の体が、外の土や自然と、エネルギー的に同じものを共有しています。

共有感、つながっている感ですね。

食べることは、本当は「殺す」ことでも、「死体」を食することでもなく、「つながる」ことなのでしょう。
カニバリズムをおこなう部族には、そういう意味合いをもって行う人たちもいるそうです。

こういう環境のなかでは、全体が良くなるための行動はあれど、他を蹴落として自分が打ち勝つという意図は成立しにくいです。
そういう種も確率的には必要なので、実際には存在します。うちの庭にもいるでしょう。

弱肉強食がベースにあれば、他を蹴落としても自分が勝とうとするでしょうし、和平、友好、協力、循環がベースにあれば、それが主体となります。

農耕文化の場合は、自然に生えているものを収穫するのではなく、自分が育てたものを収穫するので、その手間を考えると、所有感覚が増すのかな?と思います。
農耕が始まって、水と土地、人力を確保するために争いが始まったと聞いたことあります。

そこの価値観倫理観によって印象はだいぶん変わりますね。

人ひとりはひとつの「集合体」である

あなたをひとつの「集合体」、ひとつの「場」を形成している存在と考えてみましょう。

あなたという「土地(身体)」に住まう無数の存在。
あなたの意識各種(顕在意識、潜在意識、ペルソナなど)。
微生物。無意識が動かす肉体、など。

「あなた」が自分の肉体を所有し、動かしていると思っているなら、それは大きな間違いです。

あなたはそこに住まわせてもらっている居住者です。そこにその他大勢と一緒に仮住まいさせてもらっています。

借りている家(身体)は大切に扱いましょう。そして、その「場(身体)」にいる無数の存在と協力して、最高の場にしていくこと。

それがあなたがその身体を預かった理由です。

と考えてみましょう。

「あなた」という場を作り出す、預かりものの身体と心。

これをひとつのアート作品とみるのもいいですね。
一生かけて作っていく作品です。

あなたという場と、その場が織りなす世界。
あなたが主役なのではなく、「場」が主役です。

どんな場ができあがるか?

「あなた」という意識は、それを構成する一要素。
その他のものと、構成する場そのものがあなた自身。

人間社会という枠から解放されよう

最近、子供の頃から感じていた人間社会への違和感の意味がわかりました。それがわかってからは、子供心に感じていた世界を思い出しつつあります。
「なるほど、こんな風だったんだなー、だから違和感を感じてたんだー」と自分の中でクリアになってきました。

変な言い方ですが、人間であろうとして、もともとあった全体感覚を遮断してしまってたんですね。実はちょっとした認識の違いなんですけど。

今はもう理由がはっきりしているし、子供心に感じていた世界に戻るつもりだし、すでにその違いは感じ始めています。
ますます人間社会から遠ざかっていくのかなーと感じています(苦笑)人間の意識もこれからそちら方向に向かってはいくでしょうが。

今はちょうど時代の変化期です。いろいろと信じ込まされていたことが(本当は「自分が信じてしまった」ですが)、ただ単にその時代の主たる価値観だったり、
常識や習慣だったということに気づいたわけです。
長い間「そうあるべきだ」とかなり振り回されましたね。そういう時代でしたから。

異界からこの世界に興味を持ってやってきて、人間世界に馴染もうといろいろ試したけど、やっぱ違和感あるし、もといた世界が自分にあってるし、戻るわーと思ったって感じですね。だんだんと人間社会で暮らしていくことがどうでもよくなってきているこの頃です(笑)

これは現実逃避か?挑戦か?

それを現実逃避と見る人もいるでしょう。以前ならそう思ったでしょう。
どうにかして一般社会になじまないと、人と仲良くしないと、好かれないと、社会的に認められないと、まわりに合わせないと、と。

最近は、そういうことが好きで得意な人たちが中心になって成り立っていた社会だったから、そういうことが奨励されていただなという認識に至っています。

今までの時代は人間主体(それも一部の)の世界観の中で生きるように操作されていたので、もうそれには乗らんぞーと感じています(笑)

生きづらさを感じてる人たちの多くは、今の主たる社会常識にマッチしない人たちなんでしょうね。そういう人たちは社会生活に馴染もうとするより、早く自分の道を見つけたがいいと思います。

最近はますます、いろんなことが茶番だなと思うようになりました。いろんな学びと経験を通して、結局、自分次第だなと思うので(もちろんトータルな自己としての)、もう外の世界の価値観に振り回されるのはごめんです。

私は自分の世界に戻ろうと思います。子供の頃に信じていた世界に。

とはいえ、もう大人になって長いこと経ってるので、少しずつ皮をはいでいかなくてはなりませんし、まだすべてがはっきりと見えているわけではないので、模索しながら進んでいくことになります。

似た世界観の人はいるでしょうが、他の人は知らない、自分がもといた世界なので、自分で見つけていくしかないです。楽しい作業ですけどね。

内的世界が豊かになれば、外的世界も豊かになっていく

そうやって内的世界を豊かにしていくことは外の世界にもつながっていきます。なので、内外の世界のすり合わせも必要になってきます。

内向タイプの人は外を気にしすぎると、無理して外に合わせるか、反対に、自分の世界にこもりがちになります。

外向タイプの人はエネルギーは外に向かうので、外の世界を重要視しますが、自分の内面がほったらかしになりがちです。

今、世の中の価値観が、「こうあるべき」という常識的なことよりも、ひとりひとりが「どう生きるか?」という創造性を問われる流れになっています。

私の場合はこのような流れになっていて、より自分に正直な方向に、自分のもといた世界の探究に向かっています。

あなたはこの先、どのように生きますか?

私と似た流れの人は、またこれからもおつきあいくださいね(笑)
このプロセスで気づいたことはまたこちらでもシェアしますね。

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