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ファンタジーが現実である世界に住まうこと

人と動物が交流できる世界

こういうの、いいなあ〜と思いました。

小鹿と友達になった(?)4歳くんが、小鹿を引き連れて、親ときていたリゾート施設に戻ってきたという心温まる話。

少年にとっては人間の友達と同じ感覚なんでしょうね。また鹿の方も小鹿だったので、少年と同じように警戒心がなかったのか、少年が無垢だと感じたのか、ひょこひょことついてきたのでしょうか? 純粋な子供の世界では、動物も人も差がないでしょうから、一緒に遊ぶのはあたりまえのことかもしれません。

奈良の鹿のように人馴れしていれば、そう驚くことではないかもしれません。この話で微笑ましいのは、少年も鹿も警戒心も違和感もなく、あたかも童話に登場する子供と動物達のように、「友だちになったよー」的な感じの佇まいでいることでしょう。
小鹿の警戒心がまったくないように見えます。大人が発想をおおげさにしているだけで、実はリゾート地の人馴れした小鹿で、何か食べ物がもらえると思ってついてきた、なんてことも考えられます。とはいえ、奈良の鹿でも、人にくっついて玄関口まで行くことはないように思います。

昨日、近くの神社の森で、カサカサと音がするので、何かな?と見ていました。そうしたら、ハトより少し小さめの鳥が枯れ草で行水しているかのように羽を動かしてました。動画に撮れるかな?と少しずつ近づいていきました。鳥は恐れることなく、そこらへんをガサゴソしています。私が近づくとともにちょっとずつ離れていきましたが、逃げることなく、近くでガサゴゾしてました。あんまり警戒心なかったです。

うちの近くの裏山を歩くと、時々鹿に遭遇します。鹿はダダッと走って逃げて、遠目にこちらを眺めてますが、そのうち姿を消します。この少年のようにはいきませんね。

なぜ動物と人間との交流の話が多いのか?

童話や昔話などには、動物と交流する話がたくさんあります。動物が人間の姿になることもあれば、人間が動物の世界に紛れ込む話もあります。なぜこんなに動物と人間との交流の話が多いのか、とても気になるところです。

ネイティブアメリカンは、パワーアニマルとして、動物の姿をしたスピリットが人々を見守ってくれているとします。トーテムは部族の象徴となる動物です。

上橋菜穂子さんと中村桂子さんの対談の中でこんな話がありました。アボリジニの話です。

あるお婆さんからおもしろい話を聞いたことがあります。若い頃旦那と二人で狩りに行った。狩りといっても自動車に乗って散弾銃抱えての狩りです。そして、弾が肩に当たって死んだカンガルーを皆で美味しく食べたそうです。しばらくあとでふっと妊娠していることに気がつきそれを告げたら、旦那が考え込んだ末に「あの時のカンガルーじゃないか」と言った。赤ちゃんが生まれてみたら肩にバースマークの赤いアザがあり「ああやっぱりあの時のカンガルーだ」となったというのです。これをアボリジニの精霊児の考え方の典型のように捉えられると困るのですが、少なくとも私が採取した話では、そういう意識で命を考える話をいくつか聞くことができました。いわゆる天国や地獄のような他界観ではなく、故郷の土地の森羅万象のすべてに精霊と表現されるものが存在していて、人は故郷の土地から来て、そこへ帰る。お婆さんもお爺さんも、すでにいなくなった人たちも、あるいはやがてやってくるであろう人々も皆そこに関わって繋がっています。
(『生きものの物語を紡ぐ』)

人間と他の生物を分けたところにそもそもの違和感があることに気づいたことは以前の記事に書きました。昔は自然や共同体の中に包まれて自己を感じていたのだという話。
自分という存在は、肉体を持った個人として、個別に他から切り離されて存在するのではありません。これは「つながり」という言い方もできますが、私はそれより「胞衣(えな)」に近い感覚じゃないかなと思います。

「つながり」というと、個と個があって、それらがつながっているという印象です。となると、前提が ”切り離された個”となってしまいます。現代は「天国と地獄「この世とあの世」「肉体とそれ以外」「自己と他者」というように分離した考えに基づきます。自我が強調された結果とも言えます。

”胞衣ずきん”をまとう者は外界から守られ、神話の世界を生きる

胞衣は胎盤や胎児を包んでいた膜のことです。個体を包み込むもの。もっと言えば、子宮にいた頃の感覚となるでしょう。昔書いた胞衣の記事が参考になりました。この記事を読んで、話がつながっていったことに少々驚きました。その記事で中沢新一著書『精霊の王』からの引用を載せていたサイトからの引用を載せています。

胞衣をつけた子供は、ものごとを隔てる境界が溶解して、別の存在への変身が可能になる、流動的な空間を本来の住まいとしているのだ。彼らはいつも、自分の精神にずきんを着けて生きている。それによって、外界からの影響が、自分の内面に入り込んでこないようにしている。胞衣をつけて生まれた子供は、まるで妖精のような存在だから、水にも溺れなければ、ものごとを固定に向かわせようとする現実原則からも、自由でいることができると考えられた。じっさい多くの民話に登場する精霊やこびとたちは、しばしば頭にずきんをかぶっている。このようにヨーロッパの「古層の神々」は、胞衣をめぐる象徴的思考から、たくさんの養分を吸い上げていたのである。
ずきんをつけた精霊の持つそのような能力は、「胞衣をかぶって生まれた子供」のイメージに深くつながれている。胞衣によって外界の現実の影響から守られているそのような子供は、神話の時間、夢の時間(ドリームタイム)を生きることができる。神話の時間の中では、人間と動物は兄弟のように語り合い、おたがいの変身も自由だ。ずきんをつけた精霊genus cucullatusは、象徴化された胞衣をかぶることによって、変身自在な能力を得ているのである。
宿神(シャグジ)が住まいし、宿神が守護する空間のなかでは、植物や動物が人間に姿を変えたり、目に見えない霊的な存在が人間の世界にあらわれたりする、「変身」の過程がごく自然におこる。そこでは、たがいに異なる存在どうしを隔てている隔壁が溶解して、そのあいだを流動的ななにものかが行き来するようになるのだ。

また、「これからの「本当の自分」はこの「胞衣をつけて生まれた子供」のような存在である自分となっていくのだと思います。」と書いていた自分がいました。

言い換えれば、この”「胞衣をつけて生まれた子供」のような存在” は、”自然や共同体の中に包まれた自己” だと言えます。ただしもっと見えない世界も含めての話となりますが。

この引用でいう「胞衣」は、出産時に物理的に出てくる胎盤や膜のことではなく、象徴的な意味合いの胞衣です。子宮があちらの世界とつながっているとすると、胞衣をまとうことは、こちらの世界にいながらにあちらの世界の住人にもなれることになります。あちらとこちらの区別、分離は曖昧になります。小さな子供がファンタジーの世界と現実がごっちゃになっているようなものです。動物と話ができたり、変身したりするのも、その領域が曖昧だからです。霊的な世界、いわば、物質でない情報としての世界ですから、姿形を変えることはたやすくなります。

自我の成長が外の世界と自分を分離させる

自我が確立されていくことで、自我が外界からの影響を取捨選択するようになり、胞衣的なものを必要としなくなります。そして神話的世界から切り離され、ロジックの世界の住人となります。
まだ自我の枠があいまいな子供たちにとっては、動物や目に見えない存在とのやりとりは普通に起こることなのでしょう。

しかしそれでおさめるにはあまりも異種間交流の話は多いので、そのような交流が普通にできた世界もあったんだろうなと思います。
私たちは今の世界しか体験していないので、動物や精霊達と対話できないのが普通だと思っていますが、もしかすると、そのような存在たちと対話や交流をしていた時代の方が長かったりするかもしれません。つまり今の隔絶された意識状態のほうが異質なのかも。

人の歴史など地球の歴史に比べたらごくわずかです。それと同じく、自我を確立した個体の記憶より、そうでない時の情報が圧倒的に多いです。無意識が意識の約97%を占めることを考えると、この実体があると感じている世界は3%未満になります。その97%の世界が3%の世界にチョビ漏れしていると思うと、なんか納得です。

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