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ちょっと書くだけで手が痛い

私はないものをねだる。
今までに一度も獲得したことがないそれも、昔持っていたけど今は持っていないそれも。
欲しいものを手に入れることはそう難しくないように思う。
けれども欲しかったもので「満足」することはそう容易ではないように思う。
あれほどまでに欲していたそれで満たされたか?
そう感じられるのは刹那である。
となると身につけるべき能力は、「欲しいものを手に入れる力」ではなく「持っているものに満足する力」であろう。
今あるもので満ち足りることが出来るのであれば、何かを求めて徒に消耗することもなかろう。

それでは何故私は現状に満足できないのだろうか?
なぜ私は「足りない」と感じるのだろうか?
知識が足りないのか、経験が足りないのか。
彼らは私の知らない世界を知っている。
しかしながら私もまた、彼らの知らない世界を知っている。
金か、容姿か、恋愛か。
貢献か、憎悪か。
もっと知りたいと思うこの欲求は、自身の中に何かが足りないから溢れてくるのか。

初めて補助輪なしの二輪自転車に乗れたとき、初めて口笛が吹けたとき、初めてルービックキューブの1面を青色で揃えられたとき。
あのときの喜びというか達成感というか感激というか、湧き出る感情を思い出す。
いまハンドルから両手を離して自転車に乗っても、ビブラートを交えた口笛を吹いても、ルービックキューブで2面を揃えたとしてもあの時の感覚は味わえない。
自転車に乗れたことを0 → 1とすると、自転車両手離し運転は1 → 10のような。

初めてハンバーガーを食べたとき。
私が世界最高峰のバーガーの1つであると信じてやまない Slater's 50/50 のバーガーを初めて食べたとき。
初めてバーガーを食べたときの衝撃が勝る、そのように思う。

0 → 1の経験を獲得し続けることこそが私の人生の主目的であろうか?
うむ、これはなかなか腑に落ちる。
振り返ってみても、このような意志のもと私は今まで生きてきたように思う。

「エベレスト山頂に到達する」。
これを私が達成したとして、それは私にとって0 → 1の経験に成り得るだろうか?
確かに感慨深いものはあるだろうが、何か物足りないと感じる私が想像出来る。
誰かにとっての夢は私にとっての夢ではなかったりする。
私はただただ様々な知見を得たいと思うと同時に、「独自の経験」を得たいのだろう。
誰も見たことも聞いたこともないその何かを私が最初に知りたい。
これは、例えば私が新種の昆虫を発見したいということではない。
私がそれを「創りたい」のである。

ギターというものが存在するなら、新たな楽器を生み出そう。
音楽に使用される「楽器」というカテゴリーが存在するのなら、この「楽器」に代わるなにかを。
もしくは「音楽」に代わる何かを。
私はゲームチェンジャーになりたいのだろうか。

私はなぜゲームチェンジャーになりたいのだろう。
ならなくてもよいとも思う。
でも願わくばそうなりたい。
この欲求はどこから生まれたのか。

私は革命を起こさなければ、自身に価値がないと考えているのかもしれない。
それではおよそ革命を起こしたとは思われない彼女を身下しているかと言えばそうでもないように思う。
彼女は彼女でやりたいことがあるのだろうし、彼女に革命を強要するつもりはない。
そして私は、「何者かにならねば」と感じている自分よりも彼女の方が幸福なのだろうと、寧ろ嫉妬心のようなものを抱いている。
ああ、私も彼女のように、今の自身に満足出来る人間でありたかったと。
彼女が自分自身に満足しているかなど分かりはしないのに。
自分もまた他者から見れば満足しているように見えるだろうか。
まったく、皆演じる技術を高めすぎだ。

「何者かにならなければならない」と感じているということは、現在の自身は「何者でもない」と感じているということだ。
ここではこの「何者」を上記のような「ゲームチェンジャー」と定義すると、私は現状ゲームチェンジャーではない。
しかしながら冒頭でも述べたように、私がこの「何者」かになれたとして私が満足出来る保証はない。
となるとこの「何者か」になろうともがき苦しむ道理はないように思う。
それでもいま、私がより「善く」生きなければならないとソクラテスから説得されたように感じているのはソクラテスなる人物が存在していたからであるのか、あるいはソクラテスなる人物が存在していたとして自分の望む世界を押し付けようとした誰かの術中に嵌まっているからなのか。

Instagramで跋扈するインフルエンサーを見て劣等感を感じるからか。
YouTubeで自信ありげに語る彼らを見て自分と比べるからか。
SNSが、社会が私に他者との比較を強制するからか。
私の世界を形作っているそれらから距離を置くことは案外容易い。
デジタルデトックスの効果は実感出来る。

noteで私の思いを発信したいのは何故か?
私の発信が、私を何者かにしてくれることを望むからか?
自分には価値がないと思わせるような、自己肯定感を育むことを阻害するような幼少期の経験が現在の私を作り上げたのか?

とまあなんやかんやと書いている間は執筆に没頭出来た。
酒に酔いたくはないが、願わくばゾーン状態が続けば良い。

さてNetflixで見つけた「恋は光」という邦画を観るとしよう。
何やら面白そうな恋愛映画?だろうか。
神尾楓珠さんも西野七瀬さんも馬場ふみかさんもみんな魅力的だ。
こんな俗物である私がゲームチェンジャーになれる日が来るのか?
まあ来ないこともないだろう。
今日も私は進んでいる、そう思い込んで床に就くとしよう。

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