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死刑という極刑での断末魔。生きることへの執念・執着を考える気付きとしたい。

死刑執行後の搬送中に、棺の中から「ギュルギュル」「ゴボッ」など謎の音が聞こえてきた!


断末魔|「関節、致命的な部分、傷つきやすい場所。急所。」=「末魔」を「断つ」。


所感。

人の目を気にし、恐れ、そして目障り、耳障りのない化けと美辞麗句に飾られた心はここには存在しない。いわゆる偽善の必要が全くない世界だともいえる。

どれだけ改心したと訴えても、命の悟りを得たと主張しても、もうそこには「生身の人」としての「生きる」ための価値も権利もないからだ。

「神の子」とは表現されても「神になりなさい」とは耳にしたことがない。そう、薄皮に包まれた赤い血肉の人が、その自らの力で人を超えることなどできないのだから。これが現実だ。自業自得とはいえ、もう巻き戻しができないからだ。

ただ、目指すべき先という言葉にはなるだろうが、精神的には「神の領域」は受容できるものがある。

自己のを全てを投げ打ち犠牲にしてまで、他人の幸せを祈り、時間を費やすことなどできないであろう。少しでも気持ちに揺らぎがあるのならば、それは「偽善」と表現する他にない。

これは、私自身で最も嫌い、自戒していることである。

だから中途半端な美辞麗句はない。一切ない。

本音で言葉したい。ただそれだけである。


「交通安全」を唱える中での行き詰まり。

寝ても覚めても「交通安全」「事故死ゼロ」「安全運転」「飲酒運転撲滅」「死んではいけない」「傷つけてはいけない」「命を奪ってはいけない」と「死」を恐れることばかりを考えているのは、私ぐらいなものだろう。

決してウケ狙いでも暇つぶしでもない。純粋に「当てられたくない」「傷つけられたくない」「突然に命を奪われたくない」「無駄な時間と労力を費やしくない」これが本音である。

詩的(文芸的)な取り組みは、只々「正義の剣(例えば法律)」だけで示すことができない世界があることを理解し、幅広く深くメッセージを届けたいとの願いからである。


皆さまへお願いがあります。

余力余裕がありましたら、もちろん許す限りの範囲で結構です。是非ともご一緒にお考え頂きたいと考えています。「命とは」「生きるとは」「安心安全とは」「平和な日々とは」が入り口になるのではないでしょうか?


最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

生きることへの執念・執着を考える気付きとなれば幸いです。


儚く尊い命を守りたい。

誰かの命を救いたい。


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