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ひとりでしのぶもん

私の祖父が死んで、もう4年が経とうとしている。死因はなんだったか、正直憶えていない。享年はたぶん、74歳。長らく患った認知症との闘いのすえ、呼吸器が弱って誤嚥性肺炎になり、医師から延命措置をするか問われた祖母が「もうこれ以上は」と告げて、その長いながい一生を終えたと、聞いている。

父が単身赴任に出ていて男手の望めないなかで、祖母も母も懸命に介護をしながら、ひとつ、またひとつと出来ることを手放していく祖父を毎日、様々な気持ちとともに見つめていたんじゃないかと思う。そんな家族を置いて上京した私は、祖父の死に目に立ち会うことが、出来なかった。

祖父が死んだとき私は、東京にいた。「もの書きとして食っていく」という夢を追って無理やり飛び込んだ編集プロダクションは、ライターが複数の締切を常時抱えている、悪意渦巻く劣悪な環境だった。徐々に私は追い詰められていき、やがては締切を物理的に抹消させるために、自分を消してしまえないかと考え至るまでになっていた。

そこに、母からの訃報が飛び込んできたのだ。
「おじいちゃんね、亡くなったの」
母は、呼吸を喉で噛みつぶすようにして、ひとつ、またひとつと、音を区切って、慎重に私へ告げる。そうしないと、感情が抑えきれないのかもしれない。受け取った私は意外と冷静で、すでに買っておいた新品の喪服の在りかをとっさに脳裏で確認していた。「ついにきたか」と「死んじゃった」を静かに往復する、どこか冷気を孕んだ気持ちとは裏腹に、秋の残暑が肌に痛いほど突き刺さる、平凡な昼休みのことだった。

「すみません、祖父が死にました。すみません」

急いで会社に戻って、また怒られるのではないかと不安に駆られながら、編集長と代表に頭を下げた。もうなにを謝ればいいのかすら、なにを怒られているのかすら、わからなくなっていた。

いつも不機嫌で舌打ちばかりしている編集長と、営業だけしてあとは会社でろくな仕事もせず漫画を読みふけっている代表が、目の色を変えて立ち上がる。そして私に、「この度は、ご愁傷様です」と頭を下げてみせた。これまで傲慢な姿しか見せてこなかった人間たち。彼らがまっとうな大人に変身して他人の死を悼んでいる姿に衝撃を受けた。そんなことってあるのか。私を「使えない」と散々好き勝手言っていた人たちが、赤の他人を悼んで首を垂れる、これが、これが「人の死」なのか。

物心ついてから身近な人の死を体験したことがなかった私は、それがどれだけの意味を持つのか、わからなかった。人がひとりこの世を去ることの重みを、そこで初めて知った。

私は引継ぎもそこそこに、会社を飛び出した。祖父の訃報のおかげで、私はその担当から外れ、間接的に一命を取り留めた。会社は辞めた。喪うことで救われるなんてことが、この世にはある。

実家に戻ると、病院から帰ってきた祖父はドライアイスを抱きかかえ、寝室で横になっていた。現代社会の縮図を示すように、繁盛する田舎の火葬場はしばらく予約で埋まっていて、遺体は3日ほど家で過ごすことになっていた。定期的に葬儀場の方が来て、こまめにドライアイスを交換していってくれたから、死臭のようなものはなかった。

触れるとやはり、皮の内側までも、すべてが完璧につめたかった。口元に耳をやっても、息がかからない。機能が停止している。しかしどうしても眠っているようにしか見えず、やせ細った胸が上下に動いているような気がしたし、ほんのり生えた髭も、長い立派な眉毛も、伸び続けているんじゃないかと思った。

「じいちゃん、死んだんだよね?」と遺体の前で何回も唱えた。返事がないのは当たり前なのに、頭の奥がずっと痺れて混乱したままだった。祖母も、介護しているときと同じように何回も頻繁に祖父の顔を見にきていた。そして、「おじいちゃん、みんな来てるよ、にぎやかだね」と声をかけていた。長年連れ添ったパートナーが死ぬなんてこと、いまの私には恐ろしすぎて想像できない。

しかし、祖父の顔をぬれたおしぼりで拭く祖母の手つきは、介護を終えた安堵とともに、毎日ひとりで静かに積み上げてきた覚悟がにじみ出ているような気がした。祖母は強い。いつでもしなやかで、うろたえた姿を見たことがない。祖父のおむつを替えながら、過去子種3人分を供給しふにゃふにゃになった引退ちんこをいじくり「ちんころりん、ぱんころりん」と笑って歌っていた鋼鉄の彼女である。

私は、どうだろうか。

じいちゃんは、死んだ。
まだ私は、数年経ったいまでも、じいちゃんの死を、どう受け止めたらいいかわからないまま、この頭と体を時間の流れのなかに晒し続けている。記憶は徐々に変わっていき、私のなかにいる祖父の姿も変わっていく。だから備忘録として、この場を借りて彼との記憶を記すことにした。

じいちゃんはいつも私を呼びつけ、耳かきしてくれと頼んできた。そのときの習慣で、いまだに人の耳かきをするのが好きで、夫の耳かきは私の仕事になっている。
腹の調子が悪いと私が背中に乗って、ほいほいと尻に向かってリズム良く足で押していく。するとたまっているガスが出て、どでかいおならが放出されるから、二人で笑いあった。胃がんの手術後、腸閉塞を患った祖父の腹には、へそのあたりから縦に一閃、手術の痕が残っていて、雨が降る日はそこから水が出るから天気がわかると言っていた。

歯が悪い癖にロクに噛まずに飲み込むから、よく喉をつまらせていた。好きなてんぷらの時なんかはサッとつまみ食いをして、たびたび喉に詰まらせ、祖母の吐かせスキルが上達していった。戦争で疎開していたときから、早食いの癖が抜けきれないのだと言っていた記憶がある。一生分食わされたからと、さつまいもとカボチャが嫌いだった。終戦記念日に実父が死んだ。実母を早くに病気で亡くし、後嫁にあたる義理の母と3人の義理の弟とともに、家業の商店を手伝っていた。疎開しているとき、音楽の時間に試験で「林檎哀歌」を歌って怒られたこと、疎開先の地元の子どもたちに、「エンドウマメの、くさったの、食べたら、死んじゃった」と名前をもじってからかわれ、喧嘩になっていたこと、履物がなかったから大人用の下駄をカラコロと鳴らして学校に行っていたこと、たまたま前日に勉強していた問題が入試に出て、明治大学に入ってレスリングに明け暮れたこと。祖母と出会って、店を継がずに、縁切り同然にもらった土地のある茨城へと引っ越してきたこと。

生まれたばかりの父を抱え、「なんにもないところに来ちゃったね」と言う祖母に、「何言ってるんだ母さん。ここには自由があるじゃないか」と笑っていたこと。祖母は当時、私の叔母にあたる父の妹をお腹に宿していた。祖父とともに家業を忙しく手伝うなかで、流産寸前になった祖母は、仕事を減らしてくれないかと義母へ頼むも、それは認められず、祖父はそれに腹を立てた。それまで義母に歯向かうことなく、いびられても粛々と家業を手伝ってきた祖父が、もしかしたら自分の本当の家族を見つけた瞬間だったのかもしれない。

ひどい仕打ちに耐え切れず、祖父母は夜逃げ同然に、祖母の親戚の多い、現在私の実家のある地域に来たらしい。東京は今も昔も変わらず、華やかな街だが、こっちはまだまだ田んぼと畑がほとんどで、建物も少ない場所だったに違いない。家業を捨て、縁を切り、職もなく心細い当時の彼らの目には、きっとここは最果ての土地に思えたのかもしれない。

川や海や山や林に行って、そこで遊んだ。夏休み、祖父と弟と3人でご飯を食べなくてはいけないときなんかは、彼が冷蔵庫のなかのありものを使って適当な料理をでっちあげる。大体うどんや煮物だが、これが結構うまくて、まずかった記憶がない。食材をなんでもかんでも使って入れてしまうので、祖母や母に怒られていた。

若い頃の祖父は賭けごとが好きだったらしい。父が幼い頃、賭け麻雀で捕まって、祖母が子どもたちを連れて留置所に迎えに行った。競馬やパチンコをよくやっていたらしいが、私達孫姉弟が大きくなってからは、一切を辞めた。

知的障害のある弟についても、分け隔てなく接し、愛していた。弟を産んだ母や父を責めるようなことは一切なく、当たり前として受け入れていた。改めてその価値観を持っていてくれた人に育てられた幸運さを、大人になって非常に噛みしめている。

習い事や部活の送り迎えをして、学校の同級生や先生にも声をかけあえるほど、打ち解けていた。大雑把だが、他人への気遣いを大切にする人だった。山道で1台しか通れない細い道を往くときは、必ず「これから道に入りますよ」とクラクションを鳴らした。譲る場面では必ず、他人に譲った。例えそれで自分が損をしてしまったとしても、笑っていられるような人だった。だからフランチャイズに加盟して運営していたコンビニも、小狡いところがないから、うまく行かなかったんじゃないかと思う。私が生まれた頃、コンビニのバックヤードに私が入ったゆりかごが置かれ、そこに祖父が紐をつけて、レジの店番をしながら紐を引っ張ることで私をあやしたと聞いている。

印象的だった出来事がある。祖父と弟と私とで、車で日光に行ったことがあった。つづら折りの名所であるいろは坂を上って、中禅寺湖まで着いた頃には、山の天気が急変し、あっと言う間に雪が降り始めた。少しすれば止むだろうと、閉店寸前の土産屋で弟が飛行機のおもちゃを買ってもらい店を出た頃には、天気はますます悪化していた。このとき車のタイヤは、どノーマル。恐怖の山降り体験が待っていた。祖父は「ほら見ろ、勝手に滑ってるぞ!」とハイテンションで、弟もつられて爆笑していた。狂気に包まれた車内で私だけが顔面蒼白になり「しっかり運転して!」と怒鳴っていた記憶がある。よく無事で山を下りられたものだと思うし、思い直してみれば、あのとき祖父は、もう笑うしかなかったんじゃないかと思う。

書けば書くほどまとまらないので、実験的にこの場所を借りて、祖父に関する記憶を順次整理していきたいと思う。じいちゃんを忘れたくない。乗り越えたいのではない。私はこの気持ちを少しずつ書きだしていくことで、身近な人の死と、ひとりで向き合える空間がほしい。

じいちゃん、あなたは私を忘れて、もしかしたら自分で息をしていることすら忘れて死んでしまったかもしれないけど、私はあなたのことを、私なりに、憶えていようと思うよ。

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