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プラトンとアリストテレス 全く同格でないどころか 後世の都合で双璧の巨人に仕立てられた2人

※この記事は適当、憶測、無学、印象が多い落書きのようなものです(アリストテレスの著作や言葉は10年前に見ても今見ても、内容の吟味以前に見るに堪えないため)


プラトンは見えていたが、アリストテレスは最後まで見えなかった。

プラトンは美しくワクワクする完成イメージを持って積み木遊びをしていた。毎日それについて楽しそうに語り教え、いくらでもしたいことがあったが、アリストテレスは完成イメージというものが分からず積み木で何をしていいかが分からなかった。仕方がないのでうす暗い部屋で積み木遊びに「耐えた」。必然的に、積み木の形や組み合わせ方についてこねくり回して考え続けるほかすることが無かった。

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そこから「演繹法」といわれる法則を整理したのは彼の唯一ともいえる真の功績であり救いであった。その演繹法でさえ、現実生活ではほとんど活用場面はない。論理空間等のシンプルな想像の系でのみ、その法則が適用できる。皮肉なことに彼が強調しつづけた「現実性w」と一番遠いものであり、同時にまさに彼が一生追い求め届かず批判した「イデア」的なものだったのだ。彼がそれに一瞬手が届いた瞬間である。

プラトンの言葉の多くは愛され続けたがアリストテレスの言葉はその数に比して絶望的なほど愛されなかった。

プラトンは時の権力と関係なく支持されたが、アリストテレスは権力と関係なしに説得力を持たなかった。

プラトンはまともな学者に引用され続け権力は安易に近づけないが、アリストテレスは後世の権力がにしばしば都合よく利用された。

プラトンの言葉は人々の幸せのために引用され、アリストテレスの言葉は知識人等が人々を煙に巻くために使われた。

プラトンを「否定」することは難しく明確な間違いも少ないが、アリストテレスはそのほとんどが「否定」されている。それも彼が何より重視した論理によって、だ。

プラトンの分類にはそれが必要な背景があったが、アリストテレスの分類は雑で必要性が感じられず独善的で説得力がない。そこには彼の、なんとかこねくりたい欲求があふれてみえる。目の前にいたら無限に穴を指摘できるほど。そこから派生する論もまた説得力を持たない。

万学の祖というより、謎の分類おじさん といったところだ。今日に至る〇〇学といういらない派閥意識を生み出した根源も彼である。

プラトンが心の祖であるとすれば、アリストテレスは、今日もいる多数の「理系的あたまでっかち」の祖である。

しかしながら、多くの分野にそれなりの「とっかかり(引っ掛かり)」を作ったことで、人々にそれを議論したいとか、調べたいとか、という動機を持たせ、様々な害をもたらしながらも「結果的に」〇〇学などの個別の学問を深くしたというところは功績としてみても良かろう。後世行き場のない無数のアタマでっかち達を学問に引き付けたのは彼だ。そのうち何人かは本物になったかもしれない。

なんだかんだ言って世の不良達を多くボクシングにいざなった、ボクシングの亀田一家のような感じであるw

今日、「見えない者」のくせに学者として「喰っている」者のほとんどが、偉そうにできているのは、アリストテレス様が方法論と、居場所を作ってくれたためである。だから、実際の功績をはるかに超えた知の巨人としてまつられているのだ。彼らはアリちゃんに自分に近いものを感じているのである。

プラトンはピタゴラスの系譜をすぐさま本物だと直感し、素直にそれを取り入れているが、アリストテレスは論理的なことにこだわっていながらも当時最も論理的であったそれに対する態度が明確ではない。

その後のルネサンス期も玉石混合だが、ダヴィンチなどの本物はプラトンは認めていてもアリストテレスを同じように認めていたと感じられない。


アリストテレスちゃん、間違ってたこと言ってたら死んでから土下座しに行きますんで。許してちょ てかこんなにアリちゃんをこき下ろし?たのって俺くらいか?一般人wのくせにね

プラトンはレスリング選手としてのあだ名で、本名は「アリストクレス」だったんだって!一文字違いだよ、プラトンもきっと運命を感じたんだね。見えるのが当たり前すぎるから、見えないアリちゃんとかが付いていけなくてヘソ曲げて変なことしだしちゃったんだよわかる?後から見るとそれも因果というか運命だったんだねえ。くわばらくわばら

これwiki豆な

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