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生きる意味を見失う怖さ

周りのみんなができて、自分だけができない時などに孤独感とか恥ずかしさとか劣等感とか。そういう感情が生まれてくると思う。少なくとも私はそう感じる。

この時に生まれてきた感情を受け入れて、周りと自分は違うんだ、できないことがあってもいいんじゃないか、と素直に出来ない事実を受け止めることができる人はどれくらいいるのだろうか。

ほとんどの人はその事実を受け止めることができなくて、自分が周りに合わせるために無理をしてでも努力する人がいるんじゃないだろうか。

果たしてそれは自分の生き方なのか。

子供の頃の私

例えば、鉄棒の逆上がりなんかがいい例です。子供の頃の私にとって、逆上がりができないことは悪いことだと思っていた。できて当然だと。周りのみんなは出来ているし、周りからは頑張って出来るようになろう!としか言われなかった。この応援自体は嬉しかった。

今思えば、逆上がりが出来ようが出来まいが、そんなことで生命の危機なんて感じられないから、何をそこまで努力してやってたんだろうなって思うけど(笑)

でもそれは今の自分だから言えることであって、当時はそんなことを知る術がなかった。だから当時の私には逆上がりができるようになるしか、この状況を突破する、自分の中に生まれた劣等感とか孤独感とかを処理する選択肢は他にはなかった。

誰一人としてできなくても問題はない、みたいな感じの言葉はなかったと思う。もしかしたら言われてたかもしれないが、その言葉を聞いて「出来なくても大丈夫だよね」なんて思えるほどの余裕はなかった。

もっと頑張らなきゃ、それこそが正義だ、と。

これの怖いところは無意識のうちに出来ることが正しいと思ってしまうこと。

そして、それよりもっと怖いところは、出来ない自分に存在価値がないと思ってしまうことだ。あの頃の私は酷く恐れた。

出来ないことがそんなに悪い?

できないままの状態を否定する人がいるけど、そんなことはない。できなくても何ら問題は無い。

問題があるとすれば、できない事は努力してでもできるようになることが正しいとする、社会全体の思い込みの方が問題であると私は思う。

この考えが正しいとして多くの人が、極端な言い方をすれば無駄な努力をしなければならない環境が、とても非効率でその人の存在価値を低下させている。

そして当人たちはそんなこと思ってない。自分たちのしている、すべての人が出来るようになることを正しいと信じて疑わない。

そしてできない人たちを、このままではいけないのだと無意識のうちに洗脳してできるようにさせる。

人間の本能として

出来ない人も人間的な、生き残るための本能として、他人に見捨てられたり嫌われたりすることをひどく嫌う性質がある。

そのため周りの人に見放されないために本当の自分を犠牲にしてでも周りに合わせようとしてしまう。

昔、人々が狩りをしていた時代、ひとりでいる状態が危険だったために集団で生活しなければならなかった。そのために1人だけ違う状態というのは、周りからの信頼も得られないために仕方なく周囲に合わせる必要があった。

精神的に自分を殺してでも肉体を守ろうとして。

その本能が今でも残ってしまっているがために、1人でいるって言う状態をひどく怖がる人がいる。これはしょうがないと言えばしょうがない。

ただ、勘違いしてはいけない。今の世の中は道端にいきなり猛獣が現れたりはしない。常に集団で生活していなければ身の危険が生じるなんて事は全くない。

何が言いたいかと言えば、本能として孤独を酷く嫌うという事実は変わらないが、今の時代にわざわざ大昔のライフスタイルに合わせる必要はないと言いたい。

つまり、集団に仲間として受け入れてもらえるように、相手の信頼を勝ち取るためだけに無駄な努力をするのは必要ないと言いたい。

もちろん、人といることがこの上なく楽しい。自分はその環境の中でこれからも生きていくことに全く不満がないと言うのであれば、私としてはそれでいいと思う。

その人が望むことを他人がとやかく言うべきではない。自分のことは自分でしか決められない。

でも確認したい。本能として孤独でいることが嫌なために集団でいたいのか、自分がしたいからしているのか。

他人の欠点しか見えない人たち

ほとんどの人ができない人の欠点に注意を向けて、なんでできないんだとか、それができないと社会では通用しないとか、何の根拠もないこと言ってくる。

もちろん言ってる本人は、その人のために言ってるのかもしれないが。言われたこっちはたまったものではない。

劣等感やできないことに悩んでいる人なら尚更、既に努力しきった結果、できなかったのだから。これ以上どうしろというのだ、と。

誰一人としてそのままで良いとは言ってこない。もっと努力しろだの言ってくる。その人が努力していることも知らずに。できる人の戯言だ。

多くの人が自分の正当性を押し付けてくる。正確に言えば、社会の正当性。みんながこうしているのだから、あなたもこうすべきだと言う強要。

そしてこういうことを言う人に限って、社会で通用するために必要なことだと言う。

まぁそれも正しいんだけど。社会で生きるにはそうすることが一番手っ取り早い。

社会は言われたことを指示通りにこなす人が求められる。指示通りの仕事をこなすためには欠点があってはいけない。だからできないことがあっては困るのだ。

皆さん、たい焼きはご存知でしょうか。鯛を形取った金属製の焼き型に生地を流し込んで作られる菓子です。なんでいきなりたい焼きの話かといえば、型にはめるところがそっくりだから。

社会では、たい焼きのように決められた型に自分を変形させる必要がある。無理にでも自分を型にはめるためにその人の特徴を削り、欠点を補わせる。

もしあなたが買ったたい焼きにしっぽがなかったらどうしますか?取り替えてもらいますよね。こんなの商品としての価値がないと。

社会もこのようにして多くの人がこれは価値があると思う形になるように矯正させられる。

しっぽなしのたい焼きでもいいという人が増えなければ、いつまでも型にはめられる人が量産される。

最近では少しずつ良い方に変化してきているが、まだまだ型にはめようとする環境が多い。

型にはまったもののほうが扱いやすいから。

自分と同じ人はいない

人はロボットじゃない。誰一人として同じように作られてはいない。どこかしらに個性として違いが出る。そして誰しもが違う生きる目的を持っている。

みんな勘違いしているが、多くの人ができることが正しいことだとは限らない。みんなが信じて疑わないだけで間違っていることだって世の中にはある。

そこを思考停止して、数の多さだけで物事を判断する人がいる。多くの人がいる場所がより正しいと信じ、少数人の場所は間違っていると。

それこそプログラムされたロボットみたいに。

私は思うわけだ。出来ない人に出来るようにする努力をさせるよりも、出来る人が出来ない人の分を補って、出来ない人には別のことを任せればいいんじゃないかと。

1つのことが出来ない人が他のこともできないなんて事はない。これは世界全体を見た時の話。

よく聞く話しに、うちの会社に何をやらせても使えないやつが入社してきたみたいな愚痴を聞くが、それはその人の一面しか見ないで判断しているとしか言えない。

新入社員の場合は特に、誰でもできるような雑務をやらされることがほとんどだ。余談だが、社会で生きていくためにはこの雑務がきちんと出来るようにならないと次のステージの仕事はもらえない。信頼が得れないからだ。

話が逸れたが、新人は誰でもできるような雑務、つまり、自分の頭で考えないほうがいい作業と言うのはある人にとっては苦痛である。

知的生産の方が得意な人からしてみれば、言われたことをやるだけの作業と言うのはとてもつまらない作業だったりする。

だったら知的生産が作業できる環境に行けよって思う人がいるかもしれないけど、このような人たちを社会に放り込んだ諸悪の根源は、敷かれたレールの上を何も疑わずに歩いている先人たちだ。

己を抑えるリスク

勘違いしている人もいるが、人はできないことの方が多い。正確にはやらなくてもいいこと。

できないことをできるようにするっていうのはある意味、リスクだと思う。

このリスクとは、その人の可能性の問題。自分に合っていないことのために時間を使って、他の人よりも効率悪く出来るようになったとしよう。だがその頑張って出来るようになったことは、他の人が既にできていることでほとんど価値がない。

そんなことに多くの時間を使ったところで社会は良くはならない。むしろ被害者を増やしているとさえ思う。

私は出来ないことが出来るようになるっていうのが、時として嫌なこともある。それは出来たことによって嫌な作業をさせられることになるからだ。本当はこんなことしたくないと。

この考えを甘えだと捉える人もいると思う。社会不適合者だと。

そう考える人がいるだろう。

でも私から言えば、その考えは将来的に自分の可能性をつぶしていることと等しい。

本当にやりたいことが見つかった時に、嫌なことをしてまで社会に貢献することこそが正義とする考えは、足かせ以外の何者でもない。

今、社会には本当にこの会社でいいんだろうかとか、現状に不満があるけど変えられない人が多くいるらしい。

私は現状を変えるのには物凄い勇気が必要なことも知っている。現状を捨てる覚悟と言うべきか。

それは今までの自分を否定することにも繋がるからだ。誰しも自分が間違っていたなんて思いたくない。自分の選択が正しかったと証明したいと。

そしてそのために自分を殺す人がいる。

世の中

嫌な仕事、誰かがしなければならないと思っている仕事はこの世からなくなればいいと思う。

誰かが犠牲にならなければ成り立たない社会なんて必要ない。

これからAIによって嫌々やっているような時間のかかる単純作業がどんどん減っていくと思います。

そうなっていくことを望む。

もう一つ、嫌なことをしてまでお金が欲しいと思うのは、やっぱりおかしいと思う。

と言いたいところだが、人をそこまでしてお金に執着させるようにした社会も悪い(発展のために必要ではあったかもしれないが)。 

まあ、その社会を作ったのも人だが。

そして、私もお金に支配されている。同じものであれば安く買いたいと思うし、割引された商品が有れば目に止まってしまう。お金があればあるほど良いのだろうとお金を集めてしまう。

悪い考えだと分かっていても、他人を年収などで判断してしまうし、運良く大金を手に入れた人を羨ましく思うこともある。

もしあなたがこれを自然なことだと思うのであれば、危険だと思います。

お金には物凄く強大な人を操る力がある。それこそ人の理性を崩壊させるほどの力がある。

生きる意味を見失う怖さ

集団でいないと不安になってしまう本能と、お金のように無意識のうちに求めてしまうものに支配されている人が多くいる。

この傾向が強ければ強いほど、自分を見失い、本当に自分がしたいことがわからなくなる。

そして本当の自分がしたいことがわかったとしても、これから何をすればいいのかわからない人がとても多い。

ここからは私の想い。

これはとても悲しい。周りの人が望むことを叶えていた、正しいと思っていたことをただ一生懸命にやっていただけなのに……

それは自分のしたいこととは程遠いと知ってしまう。悟ってしまった。でもこれからどうすれば良いのか分からず、したくないことをし続けなければならないのかと。

我慢してこれからを生きなくてはいけないと、どうしようもなく悟ってしまった瞬間、酷く苦しく自分がとてもちっぽけに感じる。

今までの自分が他人の生き方を真似していただけだと知ったその瞬間、自分の存在自体に疑問を抱く。

気付かなければよかった、知らないほうがいいことだったのかもしれないと思った。


でも、今では知らなかったほうが良かったなんて思ってはいない。寧ろ、早期に気付くことが出来て良かったとさえ思っている。

ここから自分の生き方を少しずつ取り入れていけば良いだけじゃないか。そう思った。

人は変われるのだから。

大切なのは過去ではなく、今の自分が何をしたいか、何を大事にしていきたいか。

その気持ちをいかに主軸として行動できるのか。


最後までお読み頂きありがとうございました。

社会の仕組みみたいなものを知った時、最初こそ酷い世の中だと思ったけど、今ではそんなことどうでも良く思える。まだ一部しか知らないからこんなことが言えるのかもしれないが。

でも私がすべき事は、これからどうしたいのか。それだけだから。不満をいくら言ったところで何も変わらない。

私のことが気になった方はこれからも応援よろしくお願いします。

お読みいただきありがとうございました。