そこに私はいるのか
私の生き方を面白い、好きと思ってくれる人に全力を注ぐ生き方もいいんじゃないのか。
最近ふと、そう思った。
むしろ、この考え方がこれから必要だと思う。
人はその人を見てるようで見ていないことの方が多い
例えば、会社で他人があなたを見ているのかあなたがやっている役職の人を見ているのか。
これはなかなか言葉で説明するのが難しい。
必要とされているのは人としてのあなた自身なのか、あなたの意思決定や知識、判断力が必要とされているのか。
もっとわかりやすく言えば、あなたの頭脳を持ったロボットで代用可能かどうかと言うことになる。
会社に例えたのには意味がある。そう、人を雇うには人件費の問題がつきものだ。上の人があなたにお金を払ってでも今のポジションを任せたいと思うか、それともあなたと同じ仕事をしてくれるロボットがいればそちらを優先させるのか。
別にロボットでなくてもいいが。イメージしやすいように書いている。
なんだこの話って思うかもしれないが、これからの世の中で必要な考えである。
これからAIの発展によって誰でもできるような単純作業は取って代わる。
ちなみにこの話に恐怖を抱いている人は、今の自分が使い物にならないと自覚しているからなのかな?
上の人の立場からすれば、あなたの生活を保障することが仕事ではない。会社を成長させること、もしくは維持、存続させることが目的である。他にもあると思うが本筋ではないので割愛する。
価値を生み出しているのか
私は時給1,000円のアルバイトを経験した。会社勤めの人からすれば少ないと思うだろう。
当時の私も誠に勝手ながら少ないと思っていた。
だが、果たしていくらなら満足か?と自問自答した時、私は言葉が詰まった。
自分の価値を自分で評価することが出来なかった。
もちろん欲たっぷりに時給10,000円、否、もし本当に貰えるのならば、貰えるものは貰っとけ精神に上限なんか決めたくはない。
でもそれで誰が困るって言ったら、私は自分自身だと思った。当然払う側も困るだろうが、自分にそこまでの価値がないと他の誰でもなく自分自身が分かっているのだ。もらうこちらはそれ以上にたまったものではないと、身勝手ながら思った。
そして思った。果たして時給1,000円でもそれに見合った価値を生み出すことが出来ているのだろうか。
もちろん、価値があるのかどうかの判断は雇う側にある。雇われる側には正確なところは分からない。
ただそれでも、自分は満足できるか?今の給料に見合った、もしくはそれ以上の価値を生み出していると胸を張って言えるのか?
雇われて働くならば、そこがなにより重要だと思った。特にこれからの時代は。
話が逸れてしまった気もするが、私が言いたいのは、一体どれだけの人が自分の仕事をしているのか、という事。
他の人がどうか分からないが、私はお金さえ支払われるのならば満足とは思えない。
指示通り動く
今までの社会では言われたことを何でもできる人が重宝されてきた。
もちろん上の人の意思決定に貢献できる人の方がいつの時代も価値が高いと思うが、今回は関係ない。
言われたことを何でもできる人は一定数必要だったと言う話だ。現在で言うところの外注のようなものだ。作って欲しいと言われたものを作る。
例えば、大企業の社長はExcelで経費の管理なんかはしないだろう。誰でもできる仕事は、お金を払って誰かにやってもらう方が自分の仕事に集中できるからだ。
私は社長になったことがないので詳しくはわかりませんが、社長は自分の会社の方向性を定めなければならない。
その意思決定一つで会社の、社員の将来がかかっているから。その意思決定の責任を取らないければならない。それは誰でもできる仕事ではない。
このように今までは言われたことをできる人材が必要不可欠だった。だがそれは、人が一番効率が良いから人が雇われていたわけだ。
でもこれからは違う。人よりも性能も良く、24時間休憩なしで働かせても誰からも文句は言われない労働者?が現れる。AIだ。
人からAIに置き換わるのは、会社が求めているものが労働力だからだ。指示されたことをやってくれるなら何でも良い。誰だって慈善事業で会社を経営しているわけではない。求めているものがあるからだ。
それは、できるだけ安く速く、高い価値を生み出すもの。今までは人だった。
よく考えてみたら会社の中で行われる教育だって、コンピュータにプログラムするようなものだ。この時はこれをやって、何かあれば報告してくれと。指示されたよう動くように日々修正され、改善していく。
指示を出す相手が人からコンピュータに変わっただけだ。そちらの方が費用がかからないし、処理速度も良い。ミスもない。
求められていたものを理解する
そう。ただ指示通り動くだけでは、人でなくても良くなってきている。
もっと言えば、あなたでなくても良い。ただその仕事をしているのが、たまたまあなただったというだけ。
必要とされていたのは、あなたでなく指示通り動く何かだったと言うこと。
特性を活かせない
私はこれをとても悲しく思う。人として生まれたのに、個性を持って生まれたのにその特性を活かせずに必要とされなくなるのは。
私が言っているのは、その人の長所を誰も知らずに使えないレッテルを貼られることだ。
例えば、食器洗浄機。便利だと言って人にプレゼントしてもその人が外食しかしない人ならば、ごみでしかない。
いくら性能が良いものだとしても環境を間違えてしまえば、使えないと見做される。
そもそも自分の長所、特技、好きなことを本当に理解している人はどれだけいるのだろうか。これが分からないからほとんどの人が就職という道を選ぶ。
もしくは自分のやりたいことが分かっていても敷かれたレールから降りられない人がどれだけいるのだろうか。
まあ、自分の長所や特技が分からないのは仕方ない。それを伸ばしていこうという教育がなされていないからだ。
それに学校の長所を見つけよう、なんて相対的なものでしかない。協調性がある、運動が得意、真面目などなど。ほとんどが社会の枠組みに入れる前提での長所探しだ。
もちろん相対的なものが悪いとは言っていない。抽象度が高いが方向性を探すのには使える。
そうではなく、もっと絶対的な、その人にしか持っていない特性があるはずなのにそれを探そうとしない。
子供は自分じゃ気付けない。ましてや、大人たちが「あなたは協調性が高いね」なんて言って子供の思考をストップさせるから、その先に辿り着けない。
他人との比較でしか己を見れなくなったら、自分とは向き合えなくなる。他人依存になる。誰かとの比較で自分の存在を感じるしかなくなる。
教育関係者への批判みたくなってしまったが、言いたいのはそこではない。
自分の道を歩む
人によっては自分の個性を伸ばすと言うのは辛いことかもしれない。と言うよりも自分で自分自身の将来を選択することが辛いと思う。
今までは指示に従ってさえいればお金がもらえていた。仕事のやり方ぐらいは自分で考えるかもしれないが、この仕事がどのように役に立って、どういう人のためになるのかそこまで考えている人がいただろうか。
これからはそれを自分で考えなければならない。誰のために何をするのか、今までよりも膨大な選択を迫られる。
自分一人でなんでも選択できるので、これは一見自由に見える。ただ、想像しているほど楽ではない。
私がやることを誰かが指示を与えてくれると言うのは、自分の意思がないのでめんどくさいし大変だが、楽である。言われたことをこなしていけば感謝される。つまり正解が分かっている状態だからだ。
ただ自分で全て行う場合、正解すらも自分で決めなければならない。
お金を稼ぐことがその人にとっての正解であれば、より稼げる方法を追求すればよい。極端な話、この人がお金さえ稼げれば他はどうでもいいと思うのならば、強盗もその人にとっては正解になる。
ただ、いくら自分が正解だと思って実行した結果、他人に嫌われるようになったとしても、自分が全ての責任を取らなければならない。
つまり自分の道を選ぶということは、今後起こる全ての結果に責任を取る必要があるということだ。その覚悟があるのかどうかだ。
わかりやすく言えば、自分の道を進む場合、誰もが社長のような意思決定が求められる。まあ、個人の場合はそこまで重圧はかからないと思うが。
だが、自分の道を進んだ先にしか本当の自分はいない。
自分に合わない環境で一生懸命に努力して生きるか、自分の特性を活かした環境を選択し、私という一人の人間を必要をされるようになるのか。
あなたの労働力が必要とされているだけで、仕事をしてくれるのならば誰でも良い存在で一生を過ごすのか、それとも例え人よりも出来ることが少ないし、失敗ばかりな人生だとしても、私を私として必要とする人がいる人生のほうが幸せだと私は思った。
自分の生き方を貫く生き方をしていきたいと思った。
お読みいただきありがとうございました。