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【連載】ベトナム戦争とジャーナリストたち⓪

 ベトナム南部の大都市ホーチミンにあるタンソンニャット空港に降り立つと、常夏の気候で熟した南国の温かい風が肌をくすぐる。そんな魅惑的な空港も、かつてベトナム戦争中にアメリカ軍の主要な軍事拠点として利用された暗い歴史は影を薄めつつある。約60年前、米ソという大国の狭間で民族独立のために戦ったあの戦争は果たして何だったのか。見せかけの輝かしい勝利?何世代にもわたって人々を苦しめるようになった悲劇の始まり?今年3月にベトナムを訪れ、あの戦争の実態を知りたいと強く思った。せっかくなら当時、戦地を取材したジャーナリストたちのレンズを通して見てみよう。そんなきっかけから始まった本連載。彼らのルポを語る前に、まずはベトナム戦争の概要について紹介するところから始めたい。

夕暮れのタンソンニャット空港 2024年3月24日

ベトナム戦争前夜――第1次インドシナ戦争

 ベトナム戦争の話をするには、まず第1次インドシナ戦争(1946~54)まで遡る必要がある。ここから反共産主義を掲げるアメリカが後々まで介入していく素地がつくられた。
 1945年に日本が連合国側に降伏して太平洋戦争が終結するまでの5年間、ベトナムはフランス植民地政府に代わって日本軍の支配下にあった。当時、アジアの解放を謳って欧米の植民地支配を退けた日本軍の進駐にベトナムは期待した。しかし、蓋を開けてみれば日本軍は東南アジアを資源の供給地としか考えていない。フランス植民地時代と変わらぬ搾取と強権統治が始まった。これに反発して民族独立のために立ち上がったのがホーチミン(1890-1969)だ。彼はフランス留学時代に社会主義思想に傾倒し、帰国後はインドシナ共産党を率いるようになる。1941年にはベトミン(ベトナム独立同盟)を結成し、独立運動が始まった。

ホーチミン像(中部クアンチ省にて)


 太平洋戦争が終わり日本軍が撤退してから間もなく、ホーチミンはベトナム民主共和国の独立宣言を発表した。しかし、彼らの前に新たに立ちはだかったのは旧宗主国のフランスだった。戦後、ナチスドイツによる破壊からの復興に苦心していたフランスは、ゴムや石油資源などが豊富なベトナムを手放すわけにはいかなかった。1946年、ベトナム民主共和国とフランスの間に第1次インドシナ戦争が勃発。当初、フランスの軍事力の前になす術もないと思われたベトナム民主共和国だったが、予想に反して善戦を続けることになる。背後には同じ社会主義国として彼らを支えるソ連や中国がいた。
 戦況が膠着しやきもきするフランスは、戦後ソ連と対峙する西側のリーダーとなったアメリカに支援を求めた。しかし、かつて植民地から独立を果たしたアメリカの大原則は反帝国主義。再び植民地支配を目論むフランスを易々と支援をするはずがなかった。ここでフランスは巧妙な手口を使う。
「東南アジアの共産主義化に対する防衛」のための戦争という大義を打ち立てたのだ。冷戦の対立が深まるアメリカにとって、共産主義との戦いに手を貸さないわけにはいかなかった。
 結局、フランスは1954年のディエンビーエンフーの戦いにおける大敗北を機に、ベトナム民主共和国側との和平交渉に応じる。

フランス軍事基地を占領し旗を揚げるベトミン軍(中部ディエンビエンフーにて、1954年)

 1954年、ジュネーブ協定の締結を経て第1次インドシナ戦争は終結した。交渉の結果、北緯17度線に軍事境界線が設けられ、ベトナムは南北に分断される状態となった。北は社会主義政権のベトナム民主共和国、南はアメリカを後ろ盾とするベトナム共和国。両国は2年後に統一選挙を行うことで合意し、フランスは自国内での反戦気運を受け早々に撤退した。しかし、アメリカの事情は違った。当時、アイゼンハワー大統領が「ドミノ理論」(ある一国の共産主義化によって、ドミノ倒しのように周辺国が共産主義に塗り替えられていくこと)を唱えたように、アメリカはベトナムの社会主義化が東南アジア全体に波及することを恐れていた。

ベトナム関連地図(『ベトナム戦争』中公新書より)

南ベトナム政府の腐敗と民族解放戦線の結成

 ジュネーブ協定が成立した1954年、南北に分断されたベトナムから外国勢力が消えたわけではなかった。南ベトナム政府の実態はアメリカによる傀儡政権だったのである。ベトナム共和国の初代大統領に擁立されたのは、ゴ・ジン・ジェム(1901-1963)。彼もベトナム民族の独立を目指していた一人だったが、長兄がベトミンに殺されたことからホーチミンと対立し、反共を掲げる姿勢はアメリカにも好意的に受け入れられた。
 しかし、彼が率いる政権は腐敗する。ジェム大統領はまず側近を一族で固め、反共勢力を片っ端から政治犯として弾圧。また、カトリックを信仰していた彼は、仏教徒をあからさまに敵対視した。仏教国であるベトナムにとって、人々の反発が強まるのは必至だった。アメリカはこれを黙認。そればかりか、ジュネーブ協定で約束された統一選挙を無視してジェム政権の支援を続ける。南北の分裂は後戻りできないものとなった。
 南ベトナム人はこの強権政治に黙ってはいなかった。1960年12月2日、「ベトコン」(ベトナムコンサンダン/共産党)として後に知られる南ベトナム民族解放戦線(NLF)が結成される。
 ここまで見てきたところからも分かるように、ベトナム戦争は単純な二項対立で語ることができるようなものではなかった。これは北ベトナムを支援する中ソと反共のために南ベトナムの後ろ盾となるアメリカの代理戦争であり、南北ベトナムが主導権を争う内戦であり、南ベトナム政府の独裁に抗う民族解放戦線の独立戦争でもあった。
 そんな複雑怪奇なベトナム戦争の中でも、特に注目すべきは南ベトナム民族解放戦線である。アメリカの圧倒的な火力に支えられた南ベトナム政府と対決するために彼らがとった戦法はゲリラ戦だった。ジャングルの生い茂るベトナム南部の地に、民族解放戦線の兵士たちは総長200km以上にもわたるトンネルを手作業で掘り進め、敵軍の隙をついては地上に這い出てきて奇襲を仕掛けた。

アメリカ・南ベトナム両政府軍と激戦を繰り広げる解放軍兵士(中部クアンチ省にて)


 アメリカ軍と南ベトナム政府が頭を悩ませたのは、彼らが一般の農民と区別がつかなかったことである。解放戦線の兵士たちは、昼間は農民らに紛れて普段と変わらぬ生活を送り、夜になるとAK-47ライフルを持ってトンネルを駆け回る兵士へと姿を変えた。アメリカ軍の兵士にしてみれば、これは「目に見えない戦争」であった。彼らは躍起になって農民を捉えては、ベトコンだと決めつけて拷問し、銃殺した。だからますます民衆が解放戦線へと流れていく。悪循環だった。

南ベトナム政府軍に捕まったベトコン


 アメリカにとって解放戦線は北ベトナムの支援を受けた共産主義勢力としか考えることができなかった。「ベトコン」というのはアメリカ側の蔑称である。
 ますます反発を強める解放戦線と、政権が上手く機能せずに有効な手立てを打ち出せない南ベトナム政府にアメリカは焦る一方だった。1964年、アメリカ軍が本格的にベトナム戦争に介入する契機が訪れる。ベトナム北部のトンキン湾に停泊していた米軍艦艇が北ベトナム軍による2発の魚雷攻撃を受けたのだ。実はこのうちの1発はアメリカ軍による誤認であったとされている。それがベトナム戦争に介入するための偽装工作だったのか、単に焦ったアメリカが冷静な判断力を失っていただけなのか、今も真偽は闇の中である。
 当初、アメリカは軍事顧問団を送り、ベトナム兵に支給した武器の使い方や戦術を教えるにとどめていた。しかし、トンキン湾事件を機に、アメリカはついに大規模な軍隊を派遣し、自らも戦争の泥沼にはまっていくことになる。1968年には、約50万人のアメリカ兵をベトナムへ送り込んだ。

テト攻勢――徐々に強まる北ベトナムの影

 南ベトナム民族解放戦線が共産主義勢力だというのは、ある意味では正しく、また間違ってもいた。そもそも解放戦線は南ベトナム政府の腐敗に抗って学生、知識人、民族主義者らが結成したものである。ただし、彼らが20年近くもアメリカや南ベトナム政府と戦い続けることができたのは、北ベトナムの支援があったからでもある。南ベトナムを吸収して悲願の統一を果たしたい北ベトナムは、ひそかに解放戦線へ武器弾薬や石油などを支援した。その支援ルートは「ホーチミンルート」と呼ばれ、これを断ち切るためにアメリカは連日空爆をおこなった。

国道14号線のホーチミンルート(クアンチ省ダクロン区にて)

 しかし、1968年のテト攻勢を機に、解放戦線内は北ベトナムの存在が増していく。テトとは旧正月(1月30日)のことであり、ベトナムではこの日になると露店に花やお祝いの食べ物が所狭しと並ぶ。ベトナム戦争を取材したフリージャーナリストの石川文洋は、ベトナムはクリスマスや元旦よりもテト(旧正月)が一番盛り上がると自著で回想している。
 ベトナム戦争中でも、テト(旧正月)の日だけは休戦し、兵士らは家に帰って家族や恋人と束の間の平和を楽しんだ。しかし、68年の旧正月は違った。解放戦線は敵軍の隙をついて、この日未明に全国で一斉に大攻勢をしかけたのだ。
 テト攻勢といわれる解放戦線の作戦は、サイゴンの米大使館を一時的に占拠するなど、アメリカ側に大きな衝撃を与えた。その意味では成功したともいえるが、壊滅的な打撃を受けたのは解放戦線の方だった。この戦闘で命を落とした解放戦線の兵士は3万人以上とされており、動員された兵士6万人のうちの半分が一夜にして消えた。それだけでなく、この戦闘を主に担ったのは南部の活動家たちであった。その結果、テト攻勢後の解放戦線軍は、北ベトナム軍が3分の2以上を占めるようになる。実際のところ、これは北ベトナム側の意図的な策動だったという専門家の指摘がある。当初、南部の活動家たちは2月1日に作戦を開始すると伝えられていた。しかし、北ベトナム軍はひそかに1月30日未明に攻撃を開始。慌てふためいた南部の兵士は、必要以上の犠牲を出した。この作戦は、北ベトナム軍にとって一石二鳥だったのである。

解放戦線の容疑者を路上で射殺する南ベトナム国家警察長官

アメリカ軍の非道――枯葉剤とソンミ村の虐殺

 ベトナム戦争には数多くの報道写真が残されているが、その中でも特に目を塞ぎたくなるのが枯葉剤によって生まれた奇形児たちの写真である。
 1962年1月12日、アメリカ軍はランチ・ハンド作戦と呼ばれる枯葉剤の大々的散布を始めた。なぜ枯葉剤を撒くのか。それはベトナムの密林に潜むベトコンたちを探しやすくするためだった。当時、アメリカ軍は地の利を活用してゲリラ戦を仕掛けるベトコンに苦戦を強いられていた。そこでジャングル自体を枯らしてしまえということである。

枯葉剤が撒かれた後のジャングル


 しかしこの枯葉剤には人体に悪影響を及ぼすダイオキシンが含まれていた。アメリカ軍はこれを10年間の間に9万トンも撒き散らした。彼らは「非人道的だ」という批判をかわすために「安全だ」「土壌にも人畜にも全く影響がない」と言い張ったが、米国内では家事や飲料に不適とされる薬剤が人体に影響しないはずがなかった。結果的に枯葉剤の散布によって大量の奇形児が生まれた。目が飛び出たように大きな子、四肢の一部が以上に細かったり曲がりくねった子など、写真を見ればいかにアメリカ軍が罪深いことをしたかが分かる。

ホーチミン市の戦争証跡博物館に展示された枯葉剤被害の写真

 アメリカ軍による非道は自然の破壊にとどまらない。時には農民の虐殺もおこなった。1968年3月16日、ベトナム中南部沿海のクアンガイ省にあるソンミ村に入ったアメリカ陸軍の一部隊が、無抵抗の老人、婦女子160人を虐殺した。この虐殺を引き起こしたウィリアム・カリー中尉は軍法会議にかけられ終身刑を宣告されるが、ニクソン大統領の特赦によって減刑され、1975年に仮釈放された。

ソンミ村での虐殺事件

ベトナム戦争終結とその後

 戦争の泥沼にはまり込み、勝ち目のないアメリカは徐々に軍隊を引き揚げ、1972年にはアメリカ軍最後の戦闘部隊がベトナムから撤退した。1975年、北ベトナム軍がサイゴンの大統領官邸を占拠して南ベトナム政府は総崩れに。ついにベトナム戦争は終わりを迎えた。アメリカの戦死者は5万8千人、戦傷者は30万人にのぼった。ベトナム側はそれどころではない。戦死者の総計は300万人、民間人の犠牲は400万人を超える。日本が満州事変から太平洋戦争までに出した死者が、戦闘員233万人、銃後の国民65万人であったことを踏まえればとんでもない犠牲である。
 それだけではない。ベトナム戦争が終結しても人々はなお苦しまなければならなかった。相次ぐ通貨の暴落による生活の困窮、北ベトナムの共産党による圧政が始まった。これによって「ボートピープル」と呼ばれる1000万人近い難民が発生した。彼らは小さなボートによって海を渡ろうとし、その多くが転覆や悪天候などによって命を落とした。
 今もベトナムの街を歩けば、片手片足が地雷で吹き飛んだと思われる人、まぶたの皮膚が溶けたようにただれ落ち目を失くした人を時々見かける。ベトナム戦争は遠い過去の話ではない。ついこの前まで終わらなかった、アジアの隣国の悲劇なのである。

北緯17度線を通るベンハイ川にて、対岸に立つベトナム兵を見送る親子。後ろのヤシの葉は南ベトナムの象徴

(工藤優人)


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