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バーチャル展覧会「えほん北緯36度線」について

「youtube Exhibition|北緯36度線」小林 豊|聞き手:Erdal Küçükyalçın(以下 - )

― 今回「和モダン」のバーチャル美術館の中で、小林さんの北緯36度線の展覧会を開きますけどもこれをきっかけに小林さんにお聞きしたいことですけども、まずは「えほん北緯36度線」の中で伝えたいメッセージ、何でしょうかという質問に関してはいかがでしょうか。

簡単に言うと、交流なんですよね。 人々の交流、空気の交流、文化の交流、それから歴史の交流、全てに人と人との交流ですね。それがまず最初の僕のモチベーションになります。その交流が段々先細ったり、肥大化したり、いつもバランスが取れない。取れるように段々なっていきたいなと、そうしていきたいなというふうな、その希望がまず最初にあって、そこから書き始めたのがこの絵本なんです。

― 北緯36度線。なぜ、北緯36度ですか?

36度線ってのは基本的に僕ら日本人なんです。日本の東京に住んでます。東京ってのはちょうど北緯36度線です。
僕らが東を向くと海しかないんですよ。ところが西を向きますと、ずーっとユーラシア大陸がずっと広がっています。そこは陸続きです。そこを通っていろんな文物が日本まで伝わってきた。それが長い歴史長い文化の歴史なんです。それを僕はもう一度見直してみたいと思った。僕らの隣、隣の国と色んな事件も起きたしいろんな歴史的な文化のいろんな…何て言うんすかね、ぶつかり合い、衝突、それが我々の今文化を、世界の文化を作ってきてる。それをもう一度「絵本」にして、子供にもう一度それを見せて、子供と一緒にそれを考えてみたい。これからの世界を考えてみたいと思って、そこが僕の最初のアイディアでありメッセージです。

― なるほど。ここでも交流っていう言葉がまた現れてくるんですけども他の文化、他の文化との交流、接しても接してなくても、人間というものはいろんな共通点があったり、同じような感動があったり悲しみがあったりするような、その気持ち上での繋がりとかも強調されますね。

そうですね。人間ってのはやっぱり1人だけでは生きられません。隣に人がいる、隣に人がいる…ずっと繋がっていくわけです。そうやって僕らはやっと生きてきた。これがホモサピエンスのいいところであり、または危ういところでもある。
ぶつかり合いによって戦争も起きるし、文化も育つし、そのプラスとマイナスがあって今があります。これはやっぱり正直に見て、それを北緯36度線の国々、その土地柄、その地面、その土壌に長い歴史の記憶が全部埋まってます。
その部分を一つ一つ探して剥がすようにして、それを器にしてみたい。

― うん。繋がりっていうことですね。あとですねもう一つテーマとして出てきてるコンセプトが「時間」ではないでしょうか。特に「まちの時間」から現れてくる大きな鳥っていう何か素敵な表現があるんですけど、その「まちの時間」っていうのはどんなものだと思えばいいですか。

時間っていうのは僕らと関係なくどんどんどんどん過ぎていくんですけれど、ただ、僕らはその同じ時間の中に生きざるを得ないわけです。僕らは同じ時間に、同じように他の隣の国で怒鳴りの異文化の中で生きてる人たちも同じ時間帯の中で生きます。その時間がずっと繋がっていくわけです。全部消して切れてない。隣の国とこの国は同じ時間の中で常に連帯してるということですね。その「まちの時間」なんです。

― 「まち」の時間っていうのは特別な「まち」そのものの時間ってあるんですか。

特別な「まち」の時間というのもあると思います。特別の時間ってのはそれはやっぱり我々が作ってきた時間です。それはいわゆる時計の時間じゃなくて、我々の心の中にある時間ですね。その両方の意味を込めていきたい。

― そこでその「まち」の時間から現れてくる大きな鳥ですけども、その鳥は子供たち二人を同行して、北緯36度線を一緒に旅するみたいなところもあるかと思いますけども、その大きな鳥のシンボリズムをどういうふうに我々が理解すればいいですか。

子供をやっぱりリードする、彼らを導くいわゆるなんですかね、具体的な形として鳥を僕は使ったんです。あの鳥は「コウノトリ」です。コウノトリというのは移動します。必ず国から国へ移動します。西洋の話でもそうですよね子供はコウノトリが運んでくるとか、そういうふうないろんなエピソードもあるぐらい、コウノトリってのはやっぱり繋がって繋いでくる。
また次のところへ物を含んでいく、そういうような、何て言うんすかね一つのメタファーっていうかね、メッセンジャーみたいな存在みたいなところありますね。そんな意味も込めてコウノトリっていうのを入れてみました。

― で、ある時点になると、コウノトリ自身が考えているのか、言葉を言ってるのかみたいな形でですね、読者に言ってくる気がするんですけどもこう言って言ってくる気がするんですが。人間が地面に何度も何度も線を引いて生きるものだと、だけどその線を越えて生きる喜びも知ってるんだというような言葉ですけども。そのメッセージをどういうふうに我々が解釈すればいいですか。

僕ら段々なんですかね時代が進むことによって地図ができます。地図ができて自分たちのいわゆる何て言うんすかね「nation-state(国民国家)」と言いますね。それを成立させてくる。その過程でもって必ずみんな線を引き出したわけです。
ところが、鳥の目から見れば線なんか見えないわけです。人間もだけど線は見えてないのに見えたつもりで見えてるという錯覚で、いろんなトラブルを起こしていく。ここら辺のことを僕はもうちょっと問いたい。結局全てのトラブルはそこに始まっていますからね。自然には線はないです。

― そうですよね。ここは私の土地、我々の土地、国の土地、領土だったりして線をどんどん引いたりして、だけどそれを超えていく。最近のその難民問題だったり戦争の問題だったり、その線のせいでどこまで意味があるのかというようなことも絡んできますね。

今の線は意味を持ってませんね。現在ある国境という、あの線は人類にとっては非常に害です。大体文化ってのは線と線の境目。いわゆる何て言うんすかね…、辺境ですね。辺境で文化っていうのは育ちます。人と人、物と物がぶつかったところで、必ず文化が花開きます。これは昔からそうですよね。ギリシャがやってきて、インドの文化とぶつかって仏像ができるとか。必ずぶつかったところです。それをいわゆるマージナルって言うけど、いわゆる余分なんだけど、余分なところがとても大事なんです。僕ら余分を切り捨てて、単純にわかりやすく線で引いちゃったけど。 それでは簡単には人間は収まらない。人間はその余分な部分、はみ出た部分そこから何かを吸収してきた。それは隣に異文化、他人、それを意識したときに、すごい財産がそこに転がってるわけですよ、その土地に、その空間に、それをもうちょっと見つめ見つめ直さないと、これから先、もっともっとそれが厳密に線を引かれていく時代になったとしたら、これは線を引き直すだけの世界の歴史になってしまう。ずっと同じですよね。

― そうするとですね、人間はでも線のところで握手したり、いろいろ物々交換したり、文化を交流したりっていうときもあれば、場合によっては現在みたいいぶつかったりお互いに怒ったり戦ったり、戦争を起こしたりするときも、物を壊したりするときもあるんですけども、そういうふうに考えてみるとですね、今現在に生きている子供たち。これからの世界を作っていく子供たちに向かって、小林さんの、伝えたい事ってありますかありましたら、それは何でしょうか?

やっぱり生きるってことですね。よりよく生きる。 やっぱり人と一緒に生きる。自分だけでは生きられない。人を見ないと自分がわからない。人を見つめることによって自分が見えてきます。自分だけでは何の解決もできません。人間ってのは鏡ですよ。人は自分の。その鏡を見てやっぱり自分を、自分の存在はここにいますよ。私は「ここにいますよ」ということを認識します。その認識する鏡は隣の人です。必ず。これはやっぱり子供たちに伝えたい一番大事なことだと思いますね。

― なるほど。ある意味では今も鏡に向かって2人で話してるように。

そうなんです。今こういう状況で話してんのを、こういう機械でもって会話してる。少し皮肉なんですけどね(笑

― いい意味でいい方向でこの技術を使っていきたいと思ってます。はい今回本当にありがとうございました。

こちらこそありがとうございます。またゆっくり話したいです。

― そうですね友達に会いたい。あいたい友だち、本当に友達と会いましょうというメッセージも私の方から伝えておきたいですね。また会いたいです本当に皆さん。

そうですね。ありがとうございました。

― ありがとうございました。

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