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男を追いつめた罪

1999年、ヨセフアンドレオンを設立し、会社のホームページを作った。が、どうも殺風景なので、「何かコンテンツを作ろう」ということになり、急遽、書いたものである。
その後、電子書籍にしたら、けっこう売れた。
中年男女の別れと再会を描いた恋愛サスペンスである。

男を追いつめた罪

  1

 携帯電話もEメールもまだなかった一九九〇年代のはじめ、おれは北千住のオンボロマンションに住んでいた。その部屋の持ち主である親戚の画家から「パリに行く。しばらく帰らない。その間、留守番を頼む」と言われ、そこに住むことになったのだが、これは、そのころの話だ。
 土曜か日曜だったと思う。その日、おれは特に用事もなかったので、朝から部屋にこもって絵を描いていた。
 昼を少し回ったころだった。ドアの向こうから激しく口論する男女の声が聞こえた。
ドア窓から様子をうかがうと、ジャージ姿のおっさんとスーツを着たキャリア風の女性が何かを言い争っていた。ジャージ姿のおっさんは、おれの部屋の向かいで法律事務所を構えている中山弁護士だった。
 おれは、「またか」と思った。というのは、この先生が人と言い争うところは、それまでにも何度となく見ていたからだ。
 子供のころからおれは、どういうわけだか事件やトラブルに巻き込まれやすい質だったので、このマンションに越してきたときは、向かいが弁護士の事務所というので、心強いと思ったものだ。しかし、その考えが甘かったことを、おれはすぐに思い知る。
 中山事務所はトラブルの宝庫のようなところだった。とにかく怪しげな人間の出入りが多い。部屋から怒号やモノの壊れる音が聞こえてくるのは日常茶飯事。暴力団風の柄の悪い連中が部屋の前で一日中たむろをしていることもあれば、依頼人とおぼしき人物が部屋の前で「出てこーい、金かえせー、ドロボー」と喚いて いることもあった。
 近所の噂では、中山さんのところは経営が上手くいっていないので、どんなにヘンな仕事でも断らない、それで、いかがわしい連中が集まってくる、ということだった。
 そんなわけで、おれは「ああ、またか」と思ったのだが、この日のトラブルは様子が違った。口論の相手の女性がいつもと違ったのだ。
 中山事務所を訪ねてくる女といえば、香水の匂いをプンプンさせたケバケバしいのと決まっていたが、この日、中山事務所の前にいた女性は明らかに人種が違った。化粧は派手でないし、スーツの着こなしも様になっていた。
 普段は、中山さんがだれかと言い争いをしていても見て見ぬ振りを決めるのだが、この日は、その女性への好奇心から声でもかけてみるかという気になった。
「どうしたんですか」
 中山さんは、なんともバツの悪いという顔をして頭を掻いた。
「いやあ、すまん、すまん。またご近所に迷惑をかけちまったな、ははは。そうだ、ちょうどいい、紹介するよ……」
 中山さんの話によると、その女性も弁護士で、中山さんとは司法研修生時代からの友人らしい。なるほど、女性弁護士と言われてみれば、たしかに知的な顔立ちをしている。
「それで、来週からこの事務所で一緒に仕事をすることになったんだよ。まあ、よろしく頼む」
「そうですか。こちらこそよろしくお願いします」
 おれはそう言って、軽く会釈をしたのだが、彼女は「この問題が解決するまで、その話は保留よ」と言って横を向いてしまった。中山さんは、やれやれといいな がら、チラリとおれをみた。ははーん、これは介入を求めているな、とおれは受けとった。それで、「それはそうと、弁護士同士がいったい何をもめてるんです か」と話を向けた。
 おれがそう言うと、二人は「これだ」と「中山司法事務所」の表札を指さした。
 その女性は、私が引っ越してくるんだから、この表札はかえろと言い、それに対して中山さんは、このままでいいじゃないかとつっぱねているようだった。
 個人事務所から共同事務所になるのだから、表札をかえろという女性の言い分のほうがもっとものように聞こえるが、話は少しややこしい。
 というのは、その女性の姓も中山だという。それを聞いて、おれはつい「なんだ、先生、奥さんいたんだ」と言ってしまったのだが、姓が同じなのは単なる偶然らしい。
「ほら、夫婦だと思われるでしょう。だから、新しいのにかえてよ。いやよ、あんたの奥さんと思われるなんて、まっぴらごめんよ」
「おれだって、おまえなんかと結婚したおぼえはないよ。しかし、かえろといっても、どうかえればいいんだよ。二人 の名前を並べたって夫婦のように見えるのは同じじゃないか。この表札は有名な職人に頼んで彫ってもらったやつなんだよ。金もかかっている。このままでも事 実に反しているわけじゃないんだから、いいだろう」
「いやよ、絶対に」
 ようするに、こんな押し問答を繰り返していたわけだ。
 たしかに「中山司法事務所」の表札は芸術性が高い。おれも金ができたらその職人を紹介してもらい、うちの表札もつくってもらおうとひそかに思っていたぐらいだ。
 しかし、というか、やっぱり、女に口で勝つことはできない。その女が弁護士ならなおさらだ。結局、中山(女)の主張が通 り、表札は作り直すことになった。
「じゃあ、急いで作らせて、来週中にもってくるから。費用は折半よ」
「ああ、勝手にしろ」
 中山(男)は「クソっ」と言ってドアを閉めた。 中山(女)は「フン」と言ってその場を去った。
 数日後、引っ越し屋のトラックとともに、中山(女)がやってきた。新しく掛けられた表札には「George and Sakura Law Office(ジョージ アンド サクラ法律事務所)」とあった。
 つまり、名字ではなく二人のファーストネームを並べたというわけだ。
 サクラが来てから、中山事務所(新しい名前が言いづらいので、近所では相変わらずそう呼ばれていた)は一変した。客層もガラリと変わり、怪しげな人間の出入りもなくなった。どなり声もまったく聞こえてこない。
 なんといっても変わったのはジョージだ。一言でいうと、紳士になった。それまではよく昼間から酒を飲んでジャージ姿でうろついていたのだが、すっかりそんなことはなくなった。
 部屋が向かいということもあって、サクラとジョージの二人とはよく顔を合わせた。それで、 だんだん親しくなり、そのうち三人で飲みに行くようにもなった。というか、夕方、 マンションの廊下や近くで会うと、必ず誘われた。しかし、おれを誘うといっても、二人ともおれと話がしたいわけではない。いつも、二人で仕事の話に熱中していた。おれの存在など、まるで忘れているかのようだった。
 もっとも、おれはそれでもかまわなかった。もともとおしゃべりは得意ではないし、それに、なんといってもいろいろな事件の話を聞くのは面白かったからだ。そんなわけで「一杯、行こうか」と言われれば、たいていおれはついていった。
 仕事の話がつきると、話題は決まって二人が出会った司法研修生時代の思い出話になるのだが、ここで場の雰囲気が一変する。なぜかその話になると、二人ともおれに話しかけるようになるのだ。
 しかし、いくら話しかけられても、二人の思い出話など、おれにとってはどうでもいいことだ。だから、この話は長くは続かない。だいたい三十分ぐらいで、どちらかが「もう、その話はやめよう」と言い出し、その日はお開きになる。しかし、また次に飲むときも、同じ事が繰り返される。
 どうして昔話になると、二人ともおれに話しかけてくるのか、はじめはわけがわからず戸惑ったが、今思えば、二人ともおれを媒介として、お互いの何かを探りあっていたのかもしれない。
 まあ、そんな不可解なこともあったが、ともかく、この二人と飲むのは楽しかった。向こうもそうだったのだろう。それで、だいたい週に一、二回のペースでおれたちは飲み会を続けた。

 2

 サクラが来てから一年が過ぎたころだった。ある日、北千住の駅でジョージとばったり出会した。
「よう、今、帰りか。どうだ、一杯」
「いいですね、お供しますよ」
 飲みに行くときは、だいたいいつもこんな調子だ。おれたちは行きつけの居酒屋に直行した。
「そういえば、ジョージさんと二人で飲むの久しぶりですね」
「そうだな。最近はいつもあいつがいたからな。たまには男同士もいいだろう。よし、今夜は徹底的に飲もう」
 たしかに男同士もいいものだ。何といっても気楽だ。この日は、普段、サクラの前ではしない(できない)、プロレスやアダルトビデオの話で盛り上がった。
 ジョージとサクラでは、酒は圧倒的にサクラのほうが強い。彼女は一晩でウイスキーを一本空ける。おれもよく飲むほうだが、とても彼女のペースにはついていけない。
 ジョージは普段、あまり飲まない。おそらくサクラのペースが気になって、それどころじゃないのだろう。
 しかし、この日のジョージはよく飲んだ。つまみにはほとんど手をつけず、何かに駆り立てられているかのように、ひたすら杯を重ねた。
 焼酎のボトルが空になったときだった。
「よし、もう一軒、行こう」
 と、ジョージが言った。おれに断る理由はない。
「それじゃあ、次は静かな店に行こう。実は、ちょっと君に相談があるんだ」
 おれたちは小さなバーに入った。
「相談ってなんですか」
「うん、実はな」
 ジョージの話によると、サクラの加入のおかげで、事務所の経営は安定した。それどころか二人では捌ききれないほど仕事が増えたので、何人か人を雇うことにもなった。しかし、人を雇うには今の事務所では狭すぎる。
「それで、こないだから引っ越し先を探していたんだよ。それが今日、やっと決まってな」
「どこですか」
「上野だ。北千住とはさよならだ。サクラの客は企業が多いから、上野あたりまで出ていかないと、いろいろ大変でね」
「すごいじゃないですか。北千住から上野なんて大栄転ですよ」
「まあな。おれもよくここまで盛り返したと思うよ。とはいっても、みんなあいつのおかげなんだけどな。ははは」
「何を言ってんですか。ジョージさんだって共同経営者なんだから。とにかく、乾杯しましょう。まったくもう、話があるなんていうから深刻なことかと思ったのに、いい話だったんですね」
「いや、実は、話というのは、これじゃあないんだ。もちろん引っ越しのことも話すつもりだったんだけど。ちょっと聞いてくれるか」
「はあ」
「実は、サクラとは、前にも一度、同じ事務所で働いていたことがあるんだよ」
「それは、初耳ですね」
「うん、ほんの一時期だけど、彼女とおれは同じ事務所にいた。まあ、順を追って話そう」
 ジョージは静かに語りはじめた。
 ジョージとサクラの二人からは、酒の席でいろいろな話を聞いてきたが、ずっと気になっていたことがある。それは、二人の歴史の空白だ。
 二人が司法研修生時代からの友人だということは何度も聞いた。しかし、その後の話がスッポリ抜けている。
 二人は、いま、こうして一緒に仕事をしているのだから、研修が終わってからも何らかの形で関わり合っていたと思うのだが、そこいらへんの話は聞いたことがない。おれはそれを不思議に思っていた。
 また、二人の間には時々妙な緊張が走る。おれはそれも不思議に思っていたのだが、おそらくそれも、この語られない歴史が関係しているのだろう。おれはそう思っていた。何についても言えることだが、語られることよりも語られないことのほうがより大きな意味をもつ。
「そのころは何をしていたんですか」と、水を向ける機会は何度もあった。しかし、おれはそうしなかった。心のどこかで、単なる飲み友達でしかないおれが立ち入るべきことではないと感じていたからだ。
 しかし、この日は違った。とことん聞いてやろうと思った。好奇心からではない。普段とは違うジョージの態度がおれにそれを求めていたからだ。
「もう、二十年近くになるんだな、あいつと知り合ってから」
 ジョージとサクラが知り合ったのは司法研修生時代。ジョージのほうがサクラよりも十歳近く年上だが二人は同期だった。
「これは、はじめて話すことだと思うが、おれは弁護士になる前、冷蔵庫を売っていたんだよ」
「えっ?」
「学生時代も弁護士を目指して勉強していたけど、挫折したんだ。それで、家電メーカーに就職した。が、朝から晩まで冷蔵庫を売る仕事にも疲れてね。それで、また勉強をはじめた。司法試験に合格したときは三十を越えてたよ」
 ジョージはやたらと家電製品に詳しいのだが、その理由がはじめてわかった。
「サクラは在学中に一発で合格。おれとはできが違うんだよな。才女で、美人で。同期のグループでよく旅行に行ったりしたけど、男はみんな、あいつが目当てだった。とにかくサクラはもてたよ。あの頃は、本当に可愛かったんだぞ」
「今もサクラさん、きれいじゃないですか」
「まあな」
 研修終了後、二人はそれぞれ別の法律事務所に就職する。
「サクラの事務所は大東京のど真ん中の麹町。おれは埼玉の春日部。そんなわけで、なかなか会う機会はなかったんだけど、彼女からは月に一回は電話があったよ。まあ、話はたわいのないものだったけどな」
 就職してからの数年間、二人が顔を合わせるのは、年に何回かの同期の集まりのときだけだった。しかし、ジョージ三七歳、サクラ二八歳のとき、二人は銀座のレストランで会う。
「どうしても会って話がしたいといわれてね。何かと思ったら、結婚するっていうんだ。彼女の実家のある金沢で。それで、自分が辞めることで麹町の事務所に空きができるから、後任として推薦したいと言ってきた。これは、おれにとって悪い話じゃなかった。おれ自身、春日部あたりでうだうだしていてもしょうがないと思っていたころだったから、ふたつ返事でOKしたよ」
 ジョージはすぐに麹町の事務所に移った。そして、それからサクラが結婚するまでの数ヶ月間、二人は机を並べて仕事をする。
「東京と田舎では仕事のペースが違うからな、はじめは面食らったよ。それでもサクラが面倒を見てくれてね。いろいろ教えてくれたよ。
 仕事以外にも、あいつはよくしてくれた。何といっても、部屋探しから何から、すべてサクラがやってくれたんだから。食器やカーテンなんかも、みんなあいつが揃えてくれた。でも、そのぶん、彼女が事務所を辞めて去っていったときはつらかった。心に穴が開いたようだった」
 サクラは結婚してからも、同期の集まりにはよく顔を出した。しかし、なぜか、家庭の話は一切しなかった。それで、「うまくいってないんじゃないか」と仲間うちでは話していたという。
 ジョージのところにも年に何度か手紙は来たが、やはり、夫婦生活には一切触れられていなかった。
 ジョージはやがて麹町の事務所から独立し、北千住に自分の事務所を持つようになる。
「本当は、真っ先にサクラに報告しなければならなかったんだけど、先の見通しが立っていたわけでもないし、独立したとか言っといて、すぐにつぶれっちまったらみっともないから、それでなかなか手紙も出せなかった。
 実は去年なんだ。彼女に手紙を出したのは。おれの事務所、まあ、よく知っているとは思うけど、全然、上手くいかなくてね。それで、実はいま、北千住で開業しているんだけど、クズ拾いのような仕事ばかりやっていて、近所からも顰蹙を買っている。下手すると、マンションからたたき出されるかもしれない。東京に来ることがあったら、一度、相談に乗ってくれないかってね。
 そしたら彼女、すぐに来てくれた。そして、こう言うんだ。おれの事務所で一緒に仕事するって。おれはたまげたね。ダンナさんはOKなのかというと、とっくに離婚しているという。それで、また驚いた。もう頭の中が混乱して、何が何だかわからなかったよ」
 ジョージの話は意外だった。おれはこれまで、ジョージはサクラに首っ丈だが、サクラはそれほど熱を上げていないと思っていた。しかし、どうもその認識は間違っていたようだ。この話を聞いた限りでは、むしろサクラのほうがジョージに深い愛情を寄せていると受け取れる。
 おれは率直にそう言った。するとジョージは待ってましたとばかりに、
「実は、話ってそれなんだよ」
 と身を乗り出してきた。
「えっ、どういうことですか」
「おれもそうかもしれないと思うんだ。サクラはおれに惚れてるんじゃないかと」
 ジョージは言う。もし、サクラが自分に惚れているのなら、それなりの用意はある。男としての責任は果たす。しかし、そんなことを直接聞くわけにはいかない。それで、いま、窮地に立っているんだと。
「だってそうだろう。あいつは、ああいう女だから、おれがそんなことを言ったら、一生、口を利いてくれなくなる。しかし、もうこれ以上は放っておけないんだ。いまが、決着をつける時なんだよ」
 おれはこう言った。
「ジョージさんは、どうなんですか。サクラさんのこと好きじゃないんですか」
 ジョージはこう答えた。
「もちろん、嫌いじゃない。パートナーとして信頼しているし、法律家として尊敬もしている」
「いや、そうじゃなくって、男として好きなんでしょう」
「それは言えない」
「どうして。別に悪いことでもなんでもないじゃないですか。二人とも独身なんだし」
「そんなに簡単なものじゃないんだよ。たしかにあいつのことは、はじめからいいなと思っていたよ。だけど、もうそれから二十年だ」
「別に二十年だって、三十年だっていいじゃないですか」
「そうはいかないんだよ。これまで一度も、そんな話はしてないんだから、今さらできないよ」
 ジョージの気持ちは何となくわかった。友人関係から男女の関係への飛躍は、十代、二十代のころなら何でもないことだが、大人になるとなかなか難しい。恋愛感情が、それまでの友情を壊してしまうこともある。
 おまけにジョージとサクラは仕事上のパートナーでもある。関係が壊れたときの代償はあまりにも大きい。
「だけど、ジョージさん、ぼやぼやしているうちにサクラさんが他の男と再婚しちゃったらどうすんですか」
「そんなことはあってはならない」
「そう思うなら、何とかしなさいよ」
「わかっているよ。だから、きみの力が必要なんだ」
「えっ」
「力になってくれ。頼む」
 これは、予想もしなかった展開だ。
「きみしかいないんだ。頼む、このとおり」
 ジョージはすがるような目でおれをみつめた。
 おれしかいないというのは本当だろう。しかし、だからといって、おれに何ができるというのか。引き受けるからには何とかやりとげたいが、そんな自信はまったくない。そもそもおれはこういう話が苦手だ。これまでにもこういう話に巻き込まれたことはあったが、いつも逃げてきた。客観的にみても、そうするのが正 しいと思えたからだ。
 今回もそうだ。キューピット役は他に探したほうがいい。おれは、ふられたときの慰め役のほうが向いている。おれはそう言った。
 が、ジョージは納得しない。「頼む。このとおり」と何度も何度も頭を下げる。
 結局、おれは根負けして、
「わかりました。一肌脱ぎましょう」
 と言った。
「ありがとう。力になってくれるか。恩に着るよ」
「いえ、いいんですよ。おれはこれまで、こういう話からはいつも逃げてきたから、自分の殻を破るいいチャンスかもしれません。それで、何をすればいいんですか」
「うん。証拠をつかんでほしいんだ」
「えっ? 証拠って、何の?」
「だから、サクラがおれに惚れているっていう証拠だよ」
「そんなの今の話で十分じゃないですか。絶対にジョージさんに惚れてますよ」
ジョージは人差し指を立てて、ノンノンと左右に二回振った。
「きみは弁護士にはなれないね。いまのはおれの側から見た一方的な話だ。裏付ける証拠は何もない。あいつがおれに惚れているのはまず間違いないと思うんだけど、いまひとつ確信が持てないんだ。状況証拠しかないから」
「じゃあ、物証を見つけろっていうんですか。サクラさんの部屋にガサ入れして、ジョージさんへの想いを綴った日記を押収するとか」
「だめだよ、令状もないのにそんなことをしたら」
「じゃあ、どうすればいいの」
「自白だ。尋問して、自白を引き出してほしい」
「そんなこと、おれにできんのかな」
「まあ、あの女は、ちょっとやそっとじゃあ口を割らんだろうな」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「よし、作戦を立てよう」

 翌日、おれは、George and Sakura Law Office を訪ねた。もちろん、ジョージが外出中でサクラしかいないことは折り込みずみだ。
「あら、いらっしゃい。今日はジョージいないけど、お茶でも飲む?」
 おれはまず、昨日、ジョージに会って引っ越しの話を聞いたと言った。
「どうも、おめでとうございます」
「ありがとう。わざわざそれを言いに来てくれたの。本当はこっちから行かないといけないのに」
「いえ、そうじゃないんです。実は、今日は取り調べに来たんです。サクラさん、これからあなたを尋問します」
「えっ」
 いきなりこう入るというのは、昨夜の作戦会議で決まったことだ。サクラの表情は一瞬、こわばった。まあ、唐突にこんなことを言われれば、だれだって驚くだろう。
「いえ、単なる真似事ですよ。最近、若者の間でこういうゲームが流行っているんですよ」
 サクラの表情はゆるんだ。
「ふーん、若い人ってヘンなことしてるのね。いいわよ。おもしろそうじゃない。やりましょう。ところで刑事さん、私、どんな嫌疑をかけられているの? 罪状は何?」
 おれはこう言った。
「男を追いつめた罪です」
「……」
「あなたには黙秘権があります。行使しますか?」
「いえ、尋問を受けましょう。私は、自分は潔白だと信じていますから平気です」
「それじゃあ、はじめましょう」

供述調書
おれ「名前は中山サクラ。住所は東京都足立区千住○-△-□、本籍地は金沢市。生年月日は19△□年□月○日。間違いありませんね?」
サクラ「はい」
おれ「職業は弁護士ですね?」
サクラ「はい」
おれ「司法試験に合格したのは、いつですか?」
サクラ「4年生のときだから、19△□年かな」
おれ「大学はどちらでしたっけ?」
サクラ「京都大学です」
おれ「その大学を選んだ理由は?」
サクラ「東大よりも実家に近かったから」
おれ「あんた、やな奴ですね。そう思いません?」
サクラ「異議あり。そういうのはダメ。事実関係のみでいきましょう」
おれ「そうですね。すみません。それで、大学を卒業してからはどうしました?」
サクラ「司法研修に入りました」
おれ「そのときの同期のメンバーで、いまも付き合いのある人はいますか?」
サクラ「ええ、中山ジョージとは一緒に仕事をしています」
おれ「他には?」
サクラ「他には特に付き合いのある人はいないな」
おれ「ほー、それは不思議だ。なぜ、中山ジョージさんとの付き合いだけが残ったのか。うーん、疑惑を感じるなあ」
サクラ「……」
おれ「それでは、中山ジョージさんとの関係についてうかがいます。彼と初めて会ったときの印象は?」
サクラ「そんなこと言うの?」
おれ「そうです。ちゃんと答えないと家に帰れませんよ。第一印象は?」
サクラ「そうね、おっさんだなって思ったな」
おれ「おっさんですか」
サクラ「だって、当時、私は大学を卒業したばかりだったけど、彼はもういっぱしの社会人って感じだったから」
おれ「なるほど。じゃあ、頼りがいのある男性というとこですか」
サクラ「全然違います。単なるおっさん。刑事さん、勝手に作文しないでください」
おれ「そのころ、彼とは何度か旅行に行きましたね」
サクラ「旅行には行きましたけど、二人だけで行ったことは一度もありません。グループで行っただけです」
おれ「ここに関係者の証言があります。旅行の行き帰りの電車の中でのことですが、必ずあなたは中山ジョージの横に座っていたと。認めますか?」
サクラ「あのバカ、そんなこと言ってるの。どうしようもないわね」
おれ「事実を認めますか?」
サクラ「そんなこともあったかもしれないけど、覚えていません」
おれ「後楽園遊園地にも一緒に行きましたね?」
サクラ「ええ。でも、それも四、五人で行ったと思いますけど」
おれ「正確には六人です。しかし、ジェットコースターには二人で乗った。認めますか?」
サクラ「まあ、一人で乗るもんじゃないでしょうから、そうだったかもしれません」
おれ「それであなたは、三度目の急降下のときに、隣に座っていたジョージ氏の腕にしがみついた。認めますか?」
サクラ「私、恐がりだから」
おれ「中山ジョージのあのぶっとい腕にしがみついたことを認めるんですね?」
サクラ「ええ、そうなこともあったかもしれません。でも、あいつ、よくそんなことを覚えているわね」
おれ「なるほど。電車の中で横に座ったことは覚えていないが、腕にしがみついたことは覚えている、というわけか。このことが何を意味するかについては、専門家に鑑定を依頼します。次に行きます。研修期間が終わって、あなたは就職した」
サクラ「えっ、もうそこに話が飛ぶの?」
おれ「うん、だって、このころの話は、飲んだときさんざん聞いてるから。それで、あなたが最初に勤めた事務所はどこにありました?」
サクラ「麹町です」
おれ「そこには何年いましたか?」
サクラ「五年と八ヶ月」
おれ「主な仕事は?」
サクラ「企業関係の仕事が多かった。私、本当は刑事事件がやりたかったの。専攻も刑事訴訟法だったし。でも、麹町では一度もなかった。そのころ、ジョージは春日部で刑事事件をバンバンやってたのよ。それがちょっとうらやましくてね。それで、よく電話して話を聞いたわ」
おれ「ほー、よく電話があったというのはそういうことか」
サクラ「何?」
おれ「いえ、こっちのこと。あなたは優秀な弁護士で、将来を嘱望されていた。しかし、ある日、退職願いを出した。その理由は?」
サクラ「結婚準備です」
おれ「結婚について、質問してもよろしいですか?」
サクラ「本件と関係あるんですか?」
おれ「いや、たぶん、直接は関係ないと思う」
サクラ「じゃあ、よしましょう。もう、忘れたし」
おれ「わかりました。退職すると言ったとき、事務所のボスは何と言いましたか?」
サクラ「おめでとう、よかったねと言われました」
おれ「それだけですか?」
サクラ「ええと、辞めるのはいいけど、後任を探してくれと」
おれ「それで、どうしました」
サクラ「中山ジョージを推薦しました」
おれ「ほー、どうしてまた、ジョージ氏を?」
サクラ「他にいなかったのよ。ジョージ以外の同期の仲間は、みんな、ちゃんとしたところに勤めていたし」
おれ「ジョージは春日部でくすぶっていた」
サクラ「そう。だから声をかけたの。すごくよろこんでくれたわ」
おれ「しばらく一緒に仕事をしていましたね」
サクラ「ええ、いろいろ残務整理みたいなものがあったから」
おれ「ここに関係者の証言があります。中山サクラは非常によく中山ジョージの面倒をみていたと」
サクラ「当たり前じゃないの。私が推薦して入れたんだから。ヘンなことされたら私が困るもん」
おれ「仕事以外にも、いろいろ世話をやいていたということですが」
サクラ「たとえば?」
おれ「部屋を探してあげたり」
サクラ「ああ、たしかに、彼の部屋を決めたのは私だけど、ちょっとニュアンスが違うな」
おれ「どういうことですか」
サクラ「私、そのころ不動産屋さんの顧問をやっていたのよ。それで、そこに適当なところはないかって言っただけ」
おれ「うーん」
サクラ「どうかしたの、それが?」
おれ「いえ、こっちのこと。食器を買いそろえたというのは、どうですか?」
サクラ「それは本当。だってあの人、マグカップしかもってなかったのよ。それで、コーヒーもお味噌汁も、ごはんもラーメンもすませていたんだから、信じられる?」
おれ「あの人ならありうるな。それで、見るに見かねたというわけですか」
サクラ「まあ、そんな感じね」
おれ「カーテンはどうですか?」
サクラ「カーテンなんて買ってないわよ」
おれ「えっ、関係者の証言ではそうなんですけど」
サクラ「あれは、私がアパートを引き払うときにお古をあげたの。ちょうど同じサイズだったから。でも、それまでの数ヶ月、あの人、カーテンなしで生活していたのよね。ワイルドよね。尊敬しちゃうわ」
おれ「他に、何かあげたものはありますか?」
サクラ「ごみ箱をあげたかな。もってないって言うから」
おれ「ダメだ、話を変えましょう。あなたが北千住の事務所に来てからのことです。北千住に来たはじめのころ、あなたは何度かジョージ氏にお弁当を作ってきましたね」
サクラ「ええ」
おれ「そしてジョージ氏に、よかったら毎日あなたの分も作ってくるけどと言いましたね」
サクラ「ええ、言いました。それには二つ理由があります。まずひとつは、おかずの問題。私は、お昼はお弁当で、夜も家で食べるのが普通なんだけど、思っていたより外食が多かったんで、おかずがあまっちゃって。それで、どうせ一つ作るも二つ作るも手間は同じだからジョージに片づけてもらおうと思ったの。もうひとつは、あいつ、お昼を外で食べると必ずビールを飲むでしょう。それをやめさせようという意味もありまし た。でも、結局、お弁当を作るのはやめました」
おれ「どうしてやめたんですか?」
サクラ「ずっと狭い部屋に一緒にいるんだから、お昼ぐらい息抜きさせなくちゃと思って」
おれ「なるほど、まあ、とにかく、お弁当を作ったのは、主に冷蔵庫の整理が目的だったというわけですね」
サクラ「まあ、そういうことね。はっきり言うと」
おれ「うーん、聞いてみるもんだな。次に行きます。去年の十月、あなたはジョージ氏と一緒に新宿のデパートで買い物をしましたね」
サクラ「ええ、たぶん」
おれ「何を買いましたか?」
サクラ「玄関マットやテーブルクロスだったと思うけど」
おれ「いや、それだけじゃない。スリッパも買った。男女ペアのものを。認めますか? 」
サクラ「ええ、事務所用にいいかと思って。安かったし」
おれ「そのスリッパが、新婚さん応援フェアというコーナーにあったことは覚えていますか?」
サクラ「そうだったかもしれないけど……」
おれ「あなたはそのコーナーのデコレーションを見てこう言った。私たち新婚には見えないでしょうね。どちらかというと熟年カップルね、と。これは恋人宣言ですか?」
サクラ「ええっ、そんなことないわよ。ただ、そう見えるだろうなと言っただけです」
おれ「だろうな。次に行きます。先日、何人かの弁護士仲間と一緒に、あなたとジョージ氏はカラオケに行きましたね」
サクラ「はい、行きました」
おれ「そのとき、何を歌ったか覚えていますか?」
サクラ「歌う曲は、だいたいいつも決まっているけど」
おれ「あなたは中森明菜のセカンドラブを歌った。しかも、そのイントロが流れはじめたとき、ジョージ、ちゃんと聞いててよ、と言った。罪な発言ですね。離婚歴のある女性がセカンドラブを訴える。これは罪だ。そう思いませんか?」
サクラ「セカンドラブを歌ったのは、前の人が難破船を歌って、場がものすごく暗くなったから。ちょっと和ませようと思ったのよ。ジョージに聞いててと言ったのは、その前に私が歌ったとき、あいつがキーが合ってないとか難癖をつけたから。それ以上の意味はありません。はい、次」
おれ「よし。次のは決定的です。去年のクリスマス、あなたとジョージ氏は銀座のレストランで食事をしましたね」
サクラ「ええ」
おれ「あなたが誘ったのですか?」
サクラ「そうです。前にそのお店にいったとき、アンケートに答えたのよ。そうしたら、食事券が当たったの。それでジョージを誘って一緒に行きました」
おれ「クリスマスディナーというのは、一般的に恋人同士がするものですよね。そういう認識はありましたか?」
サクラ「そんなことはないんじゃないですか。それは、思想信条の問題でしょう」
おれ「食事の後、二人で銀座の街を散歩しましたね」
サクラ「ええ、きれいだったから」
おれ「そのとき、あなたは宝石屋の前で立ち止まりましたね」
サクラ「よく覚えてないな」
おれ「いや、あなたは立ち止まった。そして、プラチナの指輪をじっと見た。そして、ジョージ氏にこう言った。欲しいな、こんな指輪がもらえるんなら、もう一度結婚してもいいかな、と」
サクラ「はいはい、言いました。たしかにそう言いました」
おれ「その真意は?」
サクラ「ああ、バカらしい」
おれ「質問に答えなさい」
サクラ「特別な意味なんてないわよ。そう思っただけのこと。別に、ジョージに買ってくれって言ったわけじゃないでしょう。はい、次」
おれ「いや、もうないです。ネタ切れ」
 取り調べは終わった。ジョージの集めた状況証拠はことごとく否定された。
「これで私の嫌疑は晴れたの?」
「証拠不十分ですね。起訴は難しいな」
「私は潔白。でも、けっこう面白かったわ」
 サクラは笑っていた。勝者の笑みだ。
 しかし、おれは納得していなかった。たしかに、これといった供述は得られなかった。それどころか、むしろジョージには不利なものばかりだった。しかし、それでもやっぱりこの人はジョージのことを愛している。その確信は強まるばかりだった。
「ちょっと、聞いていい?」
「どうぞ」
「あなた、ジョージに頼まれたの?」
「いえ、僕の単独犯行です。ジョージさんは関係ありません」
「いったい、私から何が聞き出したかったの?」
「自白させたかったんです。ジョージを愛していると」
「ふーん、自白ね」
「ジョージさんはあなたを愛している。これはたしかだ。証人になってもいい」
「それなら、ジョージに自首させればいいじゃない」
 おれは、来た、来た、来た!と思った。そして、こう言った。
「ジョージさんが自首したら、逮捕しますか?」

 取り調べの顛末はワープロでまとめ、その夜、ファックスでジョージに送った。数時間後、ジョージから電話があった。
「おーい、逮捕されたぞ。ありがとう。本当にありがとう」
「そうですか、逮捕されましたか。おめでとうございます」
「本当にありがとう。これで一生、刑務所暮らしだよ。ははは」
「よかったですね。それで、ジョージさん、罪状は何だったんですか?」
「それがな、女を待たせた罪だって」
 いま、上野の二人の事務所には、有名な職人が彫ったという「中山司法事務所」の表札がかかっている。

 了

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