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黒ヘル戦記 第二話 ランボーみたいな人

『情況』2020年春号に掲載された反体制ハードボイルド小説

第二話 ランボーみたいな人
1983年3月、町田移転阻止闘争は内部崩壊によって敗北した。この戦いを牽引した男は、その後も大きな葛藤を抱え続けることになる。その葛藤は2017年に没した元赤軍派議長、塩見孝也氏が抱えていたものと同じだった。


「ランボー、任務終了だ。もう終わったんだ」
「何も終わっちゃいない。何も。勝手に終わりにしないでくれ」
 映画『ランボー』より

 1

 東京郊外、武蔵野の土と緑の残るK市に来たのは五年ぶりだった。前にここに来た時は市議会議員選挙の真っ最中で、私がK市の地を踏んだのも、市議会議員候補として選挙戦を戦っていた元赤軍派議長の塩見孝也氏を応援するためだった。
 選挙の後、塩見さんは体調を崩して入院。そして、二年後には鬼籍に入られた。それで、私とK市の縁も切れたと思っていたのだが、「塩見先生を偲んで一杯やりましょう」という手紙が届き、また来ることになった。手紙をくれたのは、晩年の塩見さんの飲み友達だったF川さんである。
 少し時間があったので、K駅から都立K高校のあたりまで歩いてみた。
 午後の五時、買い物客で賑わっているはずの商店街にもほとんど人影がない。前に来た時よりも人口が少なくなったような気がする。五年前、塩見さんは「わいが市議会議員になったら、この町はもっと元気になるでえ」と言っていたが、この寂しい光景を見たら何と言っただろうか。
 F川さんは偲ぶ会の会場として、「塩見先生とよく行った」というMを指定した。Mは駅前の商店街にある大衆食堂で、F川さんの説明はこうだった。
「Mはテレビドラマの『昭和回想シーン』のロケ地としてよく使われる店で、地元では有名です。最近は観光名所のようになっていて、若い人や外国人もよく来ます」
 暖簾をくぐり、引き戸を開けて、なるほど、と思った。Mは昭和式大衆食堂の見本のような店だった。黒ずんだ床の上に安っぽい合板のテーブルと安っぽいパイプ椅子が並んでいる。壁のあちこちにマジックインキで書かれたメニューが貼られている。そして、地震対策なのか、太い鉄パイプが天井を支えるように立っている。たしかに、昔はこんな大衆食堂があちこちにあった。子供の頃、私が住んでいた町の駅前にも、私の高校があった町の駅前にも。
 Mでは客も昭和になりきっていた。そんなジャンパー、まだ売ってたの?と思うようなドカジャンを着たおっさん、そんなパーマ、どこでかけるの?と思うような昔のホステスさん風のパーマをかけたおばさん、また、学生運動に挫折して今はストリップ劇場で照明係をやっていますといった雰囲気の顔色の悪い男など、昭和の時代からタイムスリップしてきたんじゃないかと思うような人たちで賑わっていた。F川さんは「MはK市一の観光名所」と言っていたが、K市の観光課か地域振興課が昭和のドラマを専門にしている芸能プロダクションと契約して役者を派遣してもらっているんじゃないかと思うくらいの、見事な昭和っぷりである。
 F川さんは約束の時間ちょうどに現れた。
「お待たせしました。塩見先生の選挙の時は大変お世話になりました」
 F川さんはそう言って、私の前の席に腰を下ろした。胸に「F川運輸」という刺繍の入った緑色のフリーツを着ていた。
「実は、先生が心臓の病気で倒れた後、私も体調を崩しましてね。それで、ずっと引き籠もっていたんですが、やっとよくなりました」
 F川さんは塩見さんよりも一回り年下の一九五三年生まれ。六十代の後半になるわけだが、歳よりもずいぶん老けて見えた。五年前に会った時はその逆で、「六十代ですよ」と言われたときには驚いたほど若く見えたのだが、F川さんもあの選挙で燃え尽きてしまったのか。
「どうですか。年季の入った店でしょう。塩見先生と飲むときはたいていここでした。先生は飾らない人でしたからね。こういう店でよかったんです。もちろん、お金がなかったというのもあったんでしょうけど」
 F川さんは目を細めて店内を見回した。
「ハハハ、ここは変わりませんね。実は、ここに来るのは久しぶりなんですが、先生と来ていた頃と全然変わらない。テーブルの高さが揃っていないのも、椅子の型がマチマチなのも変わらない。そりゃそうですね。昭和の時代から変わらないというのがこの店の売りですから、二、三年で変わったらおかしいですね。しかし、本当に変わらない。今すぐにでも塩見先生が入ってきそうだ」
 F川さんは店の入口に目をやった。今は亡き塩見先生の姿を探すように。そして、手の甲を目に当てた。涙を押さえるように。

 2

 F川さんが塩見さんと知り合ったのは、F川さんが隣のH市からK市に引っ越してきた十年前。近所の人に、あそこに偉い先生が住んでいるから挨拶をしておくといいと言われ、蕎麦をもって挨拶に行ったのが二人の交友の始まりだったという。それから、朝の散歩を一緒にするようになり、一緒に飲みに行くようにもなる。
「週に一回はやっていましたね。夕方になると電話がかかってくるんですよ。どうや、と。それで、私もいろいろ声をかけて、仲間を集めて、みんなでワイワイやりました。みんな大喜びですよ。だって、塩見先生は革命家ですよ。世界革命を目指している人ですよ。そんな人が親しくしてくれるんです。一緒に飲んでくれるんです。そんなありがたいことがありますか。先生と過ごした時間は、本当に私の宝物です。どんな話をしたか。そうですね。何でもありでしたね。マルクスとか共産主義とか、そういうのはみんなチンプンカンプンですから、もっと大衆的なというか、野球の話、サッカーの話、塩見先生が観た映画の話、塩見先生が読んだ本の話。そんなところですか。昨日のナイターは観たか。あれはなあ、継投ミスや、とか、そんな風に先生が話していくんです。私らはみんな聞き役です。聞き役に徹していました。ちょっとでも反論すると大変なことになりますからね。ハハハ。あっ、マルクスの話をするときもありましたよ。先生の昔のお仲間とか、マスコミの人とかが来た時は、マルクスとかレーニンとか、あと、ゲバラですかね、そういう人たちの話もしていました。激しかったですよ。口角泡を飛ばして、おまえの考えは間違っているーとやっていました。どっちが正しいかなんて私らにはわかりません。でも、迫力ではいつも塩見先生が勝っていましたね。本人もいつも言っていましたよ。今日はわいの勝ちやな、とね。あの人はそういう人なんですよ。プレイヤーであり、審判でもある。自分が審判なんだから、負けるわけがない。どんなに劣勢でも、わいの勝ちやな、で終わる。
 いい気なもんだと思ったこともありますよ。ハハハ。でも、ああいうのをポジティブシンキングっていうんでしょうね。ある人が言っていました。あの人はどんな悲惨な状況に置かれても、それを自分に都合よく解釈する強靱な精神力を持っていると。私もそう思いました。あの精神力はハンパじゃないですよ。
 だって、獄中二十年ですよ。塩見先生は二十年も監獄に入れられていた。なのに、あの笑顔です。一点の曇りもない笑顔。慈愛に満ちた笑顔。普通、二十年も監獄に入れられたら暗い人間になりますよ。笑顔なんて消えてなくなります。だけど、あの人は違った。獄中二十年という酷い目に遭っても笑顔を失わなかった。国家権力もあの人からは笑顔を奪えなかったんです。すごい人ですよ。人間はあそこまで強くなれるんです。私はあの人を世界遺産だと思っています。
 そうそう、仲間の一人は先生の笑顔を奇跡の笑顔と呼んでいました。こんなこと言うと変な風に思われるかもしれませんけど、先生と一緒にいると本当に奇跡が起きるんですよ。たとえばですね、夕方、先生から電話がかかってくるでしょう。どうや、と。それで、みんなでこの店で待つんです。入口のほうを気にしながら。そして、先生が入って来る。先生はたいてい少し遅れて来るんですけど、ガラガラっと戸を開けて入って来る。すると、店の中がパーッと明るくなるんです。もちろん、他の客や店員は塩見先生がどういう人かなんて知りません。でも、みんなわかるんです。あの人は特別な人だと。それはわかるんです。そして、ワクワクしてくるんです。塩見先生が同じ空間にいるというだけで、みんなワクワクしてくるんですよ。さっきまで泣いていたやつも笑顔になる。さっきまで怒鳴り声をあげていたやつも笑顔になる。塩見先生はそういう不思議な力をもつ人でした。先生はよく若い人も連れてきましたけど、みんな言っていました。あの笑顔を見ると癒されると。頑張って生きていこうという気になると。それもわかります。だって、あの先生も頑張って生きていましたから。
 塩見先生は一九七〇年に逮捕され、一九八九年の十二月に出てきたわけですが、戸惑ったと思います。世の中、ガラっと変わっていて、戸惑ったと思います。赤軍派という組織を代表して監獄に入ったのに、娑婆に出てきたときには組織はない。二十年も獄中で戦っていたのに、娑婆は平和そのもの。戸惑ったと思います。
 ランボーって映画はご存じですよね。シルヴェスター・スタローンのやつです。ベトナム帰還兵が大暴れするやつです。私はランボーを観て、塩見先生の心の痛みを理解しました。ランボーは心に深い傷を負っていたわけですが、塩見先生も同じです。深い傷を負っていた。にもかかわらず、いつもニコニコされていた。その笑顔に癒し効果があるのは当たり前です。私も何度、あの笑顔に救われたことか」

 3

 しかし、世界遺産の笑顔も曇ることがあったという。
「連合赤軍の話になると笑顔は消えました。普段の飲み会では、地元の人間だけで飲んでいるときは連合赤軍の話が出るようなことはありません。みんなそっち方面には興味がなかったというか、あまりにも遠い世界のことなんでピンとこなかったんです。だけど、革命関係の方やマスコミ関係の方が来ると必ず連合赤軍の話になりました。避けては通れないことなんでしょうね。その時は笑顔なんてありません。先生は暗い顔をしていました。それで、店全体が暗くなりました。天照大神が天岩戸に隠れたときもこうだったのかと思うくらい、店全体が暗くなった。そりゃそうですよね。リンチ殺人事件の被害者は先生の同志。そして、加害者も先生の同志。同志が死んだ、同志が殺されたというだけでも辛い話なのに、殺した方も同志だったというのですから目も当てられない。笑顔なんて吹っ飛びますよ。塩見先生の笑顔は国家権力でも奪えなかったわけですが、同志の死、同志の罪というものは、国家権力が科すどんな罰よりも重いものなんでしょう」
 F川さんは手に持っていたコップをテーブルに置いて、ふうと溜息をついた。深く重い溜息だった。そして、コップをじっと見ながらこう言った。
「しかし、責任問題というのはどうなんでしょう。浅間山荘事件が起きたのは一九七二年の二月です。塩見先生は一九七〇年三月の時点で逮捕されていますから、事件が起きた時は監獄の中です。また、連合赤軍と赤軍派は違う組織です。会社でいうと連合赤軍は新会社です。もちろん、メンバーの半分は塩見先生のお弟子さんですから無関係とはいえません。でも、連合赤軍という組織がやったことに塩見先生が責任を取る必要はない。私はそう思います。塩見先生に責任はないと。しかし、革命関係の人たちはそうは思っていないようでした。すべて塩見の責任だと言っていました。塩見の武装闘争路線があの事件を引き起こした、塩見の理論が間違っていた、塩見の指導が間違っていたとね。そんな風に言われて、先生はずいぶん苦しんでおられました。先生が帰られた後、残った仲間とよく話しました。塩見先生は、我々のような人民大衆には想像もつかないような重いものを背負っておられる。しかし、我々大衆の前ではいつもニコニコされている。革命の指導者は大衆にしょぼくれた顔を見せたらあかん、大衆の前ではニコニコしていなければならんと思っておられるのだろう。本当に偉い人だ。天皇陛下のようなお方だ。そんな風にみんなで話し合いました」
 F川さんは「塩見先生に責任はない」と言った。たしかに、連合赤軍が起こした事件に関して、塩見さんが刑事責任を問われることはなかった。が、少なからぬ人たちが、塩見の責任だと言っているのも事実である。
 責任問題について塩見さん本人はどう考えていたのか。F川さんはこんな話を聞かせてくれた。
「忘れもしません。あれは選挙の年の二月、雪の降る日のことでした。先生から電話があったんです。相談したいことがあると。それで、私は駅前のファミレスに行きました」
 F川さんが来ると、塩見さんはこう言ったという。
「実は、こんどの市議会議員選挙に出馬しようと思っているんや。が、それを決める前にケリをつけなあかん問題がある。連赤問題や。連赤問題についてのわいの立場をはっきりさせなあかん。わいの責任を明らかにしなきゃならん。今、それをやっておかないと、候補者同士の討論会やなんかでつつかれる。それで、いろいろ考えておるんやが、なかなか整理がつかんのや」
 塩見さんにこう投げかけられて、F川さんはこう答えたという。
「先生に責任はありません。先生は監獄の中にいたんですから関係ありません。塩見責任論は先生を陥れる陰謀です。そんなものは粉砕しましょう。私も一緒に戦います。先生、ランボーみたいに大暴れしましょう」
 F川さんのこの熱い申し出に塩見さんは穏やかな声でこう応えたという。
「F川さん、落ち着いてください。あなたも過激になりましたね」
 塩見さんはそう言って笑顔を見せると、次の瞬間、ふっと真顔になって、自問自答するようにこう言ったという。
「おかしなもんや。塩見の責任だーと言われると、それは違うだろうと思う。しかし、おまえのせいじゃない、おまえには責任はないと言われると、いや、わいの責任やと言いたくなる。おかしなもんや。選挙の前にケリをつけようと思っていたけど、無理やな。この気持ちは、死ぬまで整理はつかんやろな」
 F川さんは、「この日の塩見先生の言葉は一番大事な宝物です」と言っていた。敬愛する塩見先生の胸の内を見ることができて感動した、その日の夜は興奮して眠れなかったと言っていた。
「二〇一七年十一月、塩見先生は永眠されました。訃報を聞いたとき、私は悲しくて悲しくてどうしようもなかったんですが、こうも思いました。あー、これで先生は連赤問題から解放された、もう悩まなくていいんだ、もう苦しまなくていいんだと。先生は本当に苦しんでいたんです。それなのにニコニコしていた。あの笑顔の裏にどんだけの苦しみがあったのか、それを思うと私はもう胸が張り裂けそうになって……」

 F川さんの話を聞いて、寺岡修一という人を思い出した。二十年前、四十歳を少し越えた頃の寺岡が同じことを言っていたからだ。
「おまえのせいだと言われると、それは違うだろうと思う。だけど、おまえのせいじゃないと言われると、いや、おれのせいだと言いたくなる。これって、なんなんだろうね」
 寺岡にそう言われた時は、それがなんなのかわからなかったが、塩見さんも同じことを言っていたのなら、こういう心理も珍しいものではないのかもしれない。
 寺岡修一は私の大学の先輩で、やはり、世界革命を目指す革命家だった。そして、寺岡も「ランボーみたいな人」と呼ばれていた。

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