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年間第31主日ミサ:シェガレ神父の説教

C年間31主日 ルカ19,1-10 ザアカイ 2022 沼田教会

罪深い男と指差されていたザアカイの罪は税徴収の職業と関係があったでしょう。当時、ローマの占領軍と協力していた徴税人は、祖国を裏切る者として見なされて、税金を払えない人に暴力を加えたり、税の一部を自分のポケットに入れたりして一般の国民に嫌われていました。
ザアカイは徴税人の頭でした。日本で言えば暴力団の親分です。彼は大金持ちで、生活は何も困っていませんでした。だが誰からも悪者扱いにされることが寂しく、もっと皆と仲良く毎日を過ごしたいと思っていたと思います。彼は自分がダメで救いようがないと自信を失い、どうしたらいいかわからないと悩んでいました。そんなことを思った時に人を救う力があると言われ、これからこの道を通ることを耳にして、どんな人か見て見たいと思いました。だがイエスを囲む群衆が壁となって、背が低かったから何も見られなかった彼は、窮余の一策として木に登り、イエスを見ようとします。単なる好奇心ではなかったでしょう。自分の救いはこの人との出会いにかかっていると感じていたでしょう。だが、イエスを見ようとしたら、先にイエスに見られてしまい、イエスの眼差しが自分の方に向けられていることを感じました。「ザアカイ、今日あなたのところに泊まりたい」と。イエスの言葉には咎めや戒めはありません。職業をやめて、生活を改めなさいとも言っていません。「急いで降りてください。今日は是非あなたの家に泊まりたい」と言うだけです。初めて人から声をかけられたザアカイは今まで体験したことのない深い喜びを感じて、閉ざしていた自分の心を開いて「主よ、私の財産の半分を貧しい人々に施します」と答えます。ザアカイの回心を喜んだイエスは「今日救いがこの人の家を訪れた」といいます。
 現代ザアカイと同様に、罪の重荷を背負いながら、人生が行き詰まったことを感じている人はたくさんいると思います。競争社会の中で、良心に従って清く正しく生きることはほぼ不可能です。生き残りをかけて戦っている会社や企業は、いざとなると人間の尊厳を忘れて、組織や利益だけを優先して、雇われる人はいろいろ疑問を持っていても従わざるを得ません。私たちは罪を完全に避けようと生きても、さまざまな矛盾に対応できず、罪を犯してしまい、仕方がありません。 
 ザアカイのような、救いを求め、教会に行ってみたいと思う人が私たちの周りにいるかもしれない。しかし教会の中に知り合いがいないし、敷居が高いので、熱心にミサに与る信者はイエスを囲んでいた群衆と同様、壁となることもあります。教会に行くのを諦めて、ザアカイが登ったあのいちじく桑の木のような、イエスがよく見える「観察の場」を探している人がいるかもしれません。宗教に興味が出て、その関係のホームページを調べるとか、講座を聞きに行くとか、本を読んだりする人も結構いると思います。社会の中でイエスが見える「観察の場」の役割が大切です。昔は渋川教会に子供を幼稚園に送ることによって、聖堂に入らなくても、イエスと出会うチャンスがありました。現在日本でもさまざまな工夫があります。日本では信者だけではなく、非信者でも気楽に入れるカトリックカフェとか、カトリック喫茶店かという試みが行われます。十字架像が飾っていないが、信者が関わっているのでイエスの話が聞けるところです、これから教会の建物以外のこのような場の提供は大事かもしれません。私たちはイエスが見える「観察の場」、イエスの眼差しと愛が感じられる場所が作られたら、救いを求めるいろんな人がイエス様と出会え、救われると思います。

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