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年間第30主日ミサ:シェガレ神父の説教

C年間第30主日 ル18,9−14ファリザイ人と徴税人の祈り 2022

先週の日曜日は祈り時に根気がいるとイエスが主張していたが、今日は祈りの時の心の正しいあり方を教えます。そのためにイエスは二人の人の祈りの姿勢を比較しています。一人は自惚れの強いファリサイ派の人、二人目は遠く後ろに目立たない場所に立っている徴税人。
 自信満々のファリザイ派の人の祈りはあまりにも自己中心的でついていけません。自分は律法の掟をちゃんと守っていて、教会の維持費をきちんと払っているから、他の人よりましで、神に感謝するという彼の祈りは図々しく感じます。彼は、毎日酒を飲むわけでもないし、女と遊ばないし、献金して税金をきちんと払っている」自分を誇るばかりです。
 福音書のなかでファリザイ派の人は大抵悪者扱いにされるが、しかし彼らはそれだけではなかったと思います。彼らは庶民の人々の側に立ち、敬虔な人で、暴力を嫌っていました。だが彼らのいけなかったのは一つあって、いつも他者との比較でした。食事の前に手を洗ったり、安息日に仕事を辞めたりして、律法の掟をことごとく守っていたので、自分たちが清く正しくて、そうしない人は汚れた人だと思っていたため、イエスは彼らを批判していました。
 今日の譬え話は、私たちと関係がないこととは言えないでしょう。私たちも度々律法主義に似たような狭いイデオロギーに支配されていて、人と自分を比較し、自分たちが正しいと思うことはよくあるでしょう。
 遠慮という美徳を大切にする大抵の日本人は、自分が正しい人というより、普通人だと思う人が多く、無事に生きている恵みを与えてくださった神に感謝しています。他の人よりも自分が優れているということを心の中で思っていても、大っぴらにそれを誇り、神に感謝する人はいません。むしろ「出る釘は打たれる」という日本の諺のように、皆がはみ出し者にならないように気をつけて、普通人を演じて、無難な生き方を選びます。しかし普通人意識の裏には普通ではないと見られる人への差別があるかもしれません。それなら偽善者であるファリサイ派の人とは変わりがないでしょう。  
 ファリサイ派の傲慢と対照的に、遠く離れて立っている徴税人の祈りは全く違います。彼は何々をしたとか、しなかったとか、何々を守って、守らなかったとかを一切口にせず、ただ目を下げて胸を打って、罪人である私を哀れんで下さいと言い繰り返します。彼の謙遜は決して見せかけではなく、自惚れでも、自己嫌悪でもありません。彼はただ自分のありのままの姿を神の前にさらけ出していながら、ひたすら神の憐れみを願っています。彼の祈りは自信満々のファリサイ派の祈りとは違い、自分は罪人であるのを認めて、「主よ、どうか私を哀れんで下さい。」と祈っています。
 徴税人の祈りこそ神様に聞き入れられ、彼は「義とされて家に帰えった」と書いてあります。この儀は神の儀です。義とされた彼の自慢できる正しさは、神から与えられた正しさです。
 祈りはありのままの自分を神の前に差し出すことです。謙虚さが込められた祈りこそ、私たちの小ささが見えてくると同時に神の慈しみの深さが知らされます。これは今日の福音のメッセージではないでしょうか。このメッセージを受け止めながら、私たちがミサに参加し、祈りを続けたいと思います。

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