人文系人間は永遠の中二病?

 先日、大学時代からの旧知の仲である友人と都内で夕飯を共にした。二人ともちゃんと就職をして、仕事に追われる毎日を送っているのに、盛り上がる話題となると、ビジネスの話題でも最近の流行の話題でもなく、歴史の潮流がああだとか、ネオリベラリズムがどうのとか、もっと小難しく、壮大なテーマとなる。

 二人とも文学部の出身で、歴史学を専攻していた。

 友人と話していて、今までモヤモヤっとしていた「人文科学系」と「社会科学系」の違いがまた一つ見えてきたような気がする。

 あくまで個人の見解ではあるが、

 人文系の人間は、古今東西の社会の成り立ちや、世界情勢の趨勢、思潮などに関心が高い。社会の一員としてあくせく汗を流して働くのではなく、どこか社会から距離を置いて、社会を醒めた目で俯瞰してみるのが好きなのではないかと思う。

 これに対して社会科学系の人間は、現在の社会の状況や条件を所与のものとして考え、その中でいかに成功していくか、ありていに言えば「世渡り上手」になれるか、ということに興味・関心が強いように思う。スポーツやゲームのプレイヤーのような感覚で、社会に不満はあるとしても、社会の成り立ちや世界を変えることを考えるよりも、生業の方を重視する。

 社会で生きる人間としては、社会科学系の人間の方がずっと健康的だろう。これに対して、人文系は、どこか浮世離れした感じがある。

 人文系の人間は、言ってしまえば「世界」が好きなのだ。茶化して言うと人文系は「セカイ系」だ。人文系の人間は、永遠に中二病を患っているのかもしれない。

 人文系的な考え方は、世界の大きな流れを考える上では必要なものだが、毎日のパンを買うことにはほとんど寄与しない。そんなことを考えられる人は、時間、金銭双方にゆとりのある一部の人間に限られてしまう。

 かつては上流階級の高等遊民のようなごく少数の人間に限られていたようなこの学問が、教育が普及することによって経済学や法学などの実学と並列で扱われるようになり、社会に出ていく人間の中にも人文系の学問を学ぶ者が現れてきた。

 ただ、人文系は社会科学系とは違い実学ではないので、企業の求める即戦力とは異なる点がある。それもそのはず、彼らは社会のルール自体に興味がある人たちであり、プレイヤーとして働くという考え方に慣れていないからだ。

 人文系出身の人間が、社会科学系の思考が求められる社会に出た際に感じる違和感やひずみというのは、こういうところから来るのかもしれない。

 今、国策で大学の人文系のポスト削減が進行している。人文系人間にとって居心地の良い場所へ続く門はどんどんと狭くなっている。経済や法律といった、人間が決めたルールを当たり前のものとして受け入れ、企業の利潤の最大化のために献身する生き方は、今の社会を生きていくには必要な姿ではあるが、人文系の人間としては、どこかで違和感を覚えながら生きることになるのかもしれない。

 そう考えると、何だか、自分が仕事に抱いていたわだかまりが、少しではあるが氷解した気がしたのだった。



 

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