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親だから親の会をするのではない

「親の会」を始めてみた

当時、大学を卒業したての20代前半の私が、
仲間と一緒にフリースクールを作ると同時に、
不登校の「親の会」を始めた。

ただただ、みんなで泣く親の会ではなく、
子どもと親自身が前を向いて生きていくことを応援するような
そんな親の会を作りたかった。

子育て経験もない、社会人経験もない、自分自身が不登校だったわけでもない。ただ「子ども」の気持ちには寄り添えるかもしれない。
こんな私だけでは、参加する親も不安だろうなと思ったので、子どもの不登校経験をもつ方にアドバイザーとして入っていただいた。

親でなければ親の会をする資格はないのか?

親でもなく20代前半の私は、10年間くらい、親でもない自分が
親の会を主催してもいいのか、とても悩んだ。

悩みながら親の会をやって、途中から「親じゃないからいいこと」もある
ことがわかった。

①親としての悩み苦しんだ過去がないので、感情移入しすぎたり、自分の過去の経験に引っ張られることなく、参加者一人一人の話を冷静に聞くことができること。

②「親の会」の参加者は親だけれども、苦しんでいる存在は親だけでなく、子どもであり、不登校の当事者は「子」だ。
だから、子どもの思いや苦しみを代弁する人が必要であること。

③親だったとしても、それぞれの家庭に多様な物語と歴史があり、「理解しえない」側面があること。これは親だろうが親でなかろうが同じことという意味。

④「親の会」は感情の共有の場にもなり、時に際限なく時間が過ぎていくことがある。そういう意味では、感情の波に飲み込まれることなく、時間のコントロールが必要であること。そして、相互に傷つけあわないルールとマナーがあり、参加者の安心安全を作り出すことが求められていること。=ファシリテーターが必要。

他にもいいことがあるかもしれない。
でも、一方で傷つくことも多かった。
参加者は全員親。
私はファシリテーターと子の思いの代弁者に徹していた。

そしたら、
「じょに~は親に厳しい」
「親でもないのに」
と陰口を言われることもあった。

今は、親じゃないから言えることもあったと思える。
そして、親になって、ついつい感情の波に飲み込まれそうになり、親が親の会を主催することの難しさをいまさらながら感じてもいる。

私は「親の会」が大好きだ

それにしても私は親の会が大好きだ。
みんなで経験のシェアをして、お互いを応援し、お互いの子の成長を喜び合う。
そして、女性が家庭や会社や社会で、自分の思いを押し込めて、
「自分さえ我慢すれば」「私のせいで子どもが」と
自分の人生を横において尽くしてきた女性の姿がよく見えるようになった。

女性の活躍を社会が求めるのなら、
子育てや家事労働や介護を男女問わず、そして家庭内にとどめない
社会の空気感も必要だと感じる。

社会はすぐには変わらないから、だから、子育てをし家事をし仕事をする親を、時には自分自身を犠牲にしながら生きている親を応援したい。
私もきっと、子どものためなら、自分は犠牲になってもいい、と思うだろう。でも、この考え方を採用しても、「不登校」という現象は、よくならない代表格だ。親が自分をあきらめず活き活きと生きる姿を子どもに見せることが、子どもの背中を押すこともある。

親子の子どもの成長の折々で味わう葛藤を、せめて親の会では受け止め、応援し、みんなで知恵をしぼって、共に肩の力を抜いて、味わえるような、
そんな場が、たくさんできたらいいのに、と心の底から思う。

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