休職日記〜適応障害という名前〜

 適応障害っていう名前、(社会に)適応することに障害をもっているとすれば、それはもう社会不適合というのを言い換えているだけではないだろうか。野生動物の場合それは死に至っているのではないだろうか。しかし、人間というのは優しいらしく私は今も生きている。

 どうも私の生き方は現代社会に寄り添うことが難しい。社会というのは基本週5,6で働き、なんらかのシフトに組み込まれ、チーム単位で行動することが多い。組織で行動する場合、自分は信頼を勝ち取るのが難しい。なんらかの仕事を任された場合、基本的にそれなりに踏ん張ってこなしたとしても、一度つまづくと適応障害という名のもとに長期療養を要する。いついなくなるか分からない人材を組織は人数としてカウントしにくい。野球で言うなら投げてみないとその日の調子が分からない投手。競馬ならベットしにくい馬であるだろう。そして、積み上げてきた信頼も長期休暇を取ったことで振り出しに戻る。

 もちろん、味方になってくれる人もいる。休暇から戻ってくることを期待して待ってくれている。それでも、本人にとってこの生き方は大変辛い。どこで転ぶか分からないからローンも組めない。いや、みなの人生もどこで転ぶか分からないのであるが、なぜか長期のローンで家を買ったりしている。そういう人たちとは何か持っているものが根本的に違う気がする。

 巷では旅行支援割というのが始まるらしい。こういうニュースを見ると、再度社会と適応できてないと認識させられる。旅行に行くお金がないからと言うのではない。得するから旅行に行こうという思考回路にならないのだ。自分としては旅行というのは行きたい場所があって、初めて腰をあげる、もしくは行くあてもなくふらふらと旅をする、というのが性に合っている。要するにその時の気分だ。得するから旅行に行くというのは、自分の中では行動と目的が逆転しているような感覚に陥る。そうやって行った旅行は、頭ではお得だからと納得させようとしてもあんまり楽しめる結果にならない。おそらくこういう時にラッキーだと思って、ふらっと旅行にいけちゃう人が社会をサバイブしやすいのだと思う。元ある思考がポジティブなのだと思う。そして、誰かを誘い出すきっかけにもなるから総じて社会を円滑に回すありがたい存在だ。

 また、ライブのチケットを取る時も周りとの差を感じる。ある友人は抽選に当たりやすくするために、その場だけチケット販売サイトにプレミアム会員として登録し、当選したあとに退会するという方法を取っていた。またある人はLINEグループでチケットを協力して取るお願いをしていた。なにか自分にはそういう情熱がない。そこまでして是が非でも見に行きたいということがない。なんとなく抽選に応募して当たったら見に行くか、ぐらいのものだ。ただし、友人たちのやり方は人をエスコートするときに役立つ。例えば、だれかにライブに誘われたとして、良い席を取ってくれていたら嬉しいものだ。それが、社会であれば使えるやつと認定される。彼らはもしかするとそれを情熱と思っていないかもしれない。自分の欲求が社会に活かされているだけかもしれない。そういう光景を見ていると、やっぱり社会に適応できていないなと嘆きたくなる。

 そもそも、なにも考えずにヘラヘラ生きていけたのは中学生ぐらいまでだ。高校生ぐらいからなにか周りと温度差があるように感じていた。ズレているように感じた。なぜか教師にも目を付けられ説教を食らいがちだった。その時は病名も分からなかったが腸過敏性症候群になり、長時間のバスの移動などが怖くなり、よく眠りで誤魔化すようになったりもした。その辺りから根暗になっていった感じがする。それでもいじめにも合わず、遊んでくれる友人がいたことは幸いだったかもしれない。

 今になって考えると、そのような感じで生きてきて社会に出たら急にうまくいく方がおかしい。自分には居場所が見つかっていないだけとも思ったが、どうやらそれだけでもないように感じる。

 むしろよくこのスタンスで30歳まで生きてこれたなとも思う。いま壮大にズッコケているが……。ある人は40歳を過ぎると色々吹っ切れるという。この先のらりくらり40代までいったらまた違う世界が見えるのだろうか。——もう少し粘ってみるか。

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