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2.足形付土版(垣ノ島遺跡)

2002年の夏、垣ノ島川の左岸で発掘していた作業員の佐藤さんが、「先生、何か足の跡みたいのがある」と伝えてきた。見ると、長幅さ15×10cmほどの楕円形の土版に人間の小さな足形が付いている。粘土が柔らかいうちに両足を揃えて指を押しつけたのだろう。踵の跡も僅かに見える。足の大きさは7cmほどだろうか、生後間もない赤ちゃんの足だ。土版の裏側を見ると小さな手の指の跡もある。「可愛いねえ」、土版の周りに集まった作業員が口々に言った。みんな顔が笑みに満ちている。
結果的に足形付土版は4つの土坑墓から計17点も出土した。土坑墓には合葬墓と単葬墓がある。合葬墓は、大きいもので5.4×4.7mの隅丸方形を呈しており、ここから10点の足形付土版が出土している。単葬墓は長軸1m前後の楕円形の土坑墓である。
出土した足形付土版には5つの共通点がある。
①土版には縄目紋様が丁寧に付けられていること。
②焼きが甘いため非常に脆いこと。
③紐を通すような小さな孔があること。
④早期末の墓から出土していること。
⑤土版(破損品も)は見事な石器と一緒に出土すること。
一方、土版には3つの相違点がある。
①孔が1つと2つのものがあること。
②小判形と分銅形の2種の形状があること。
③足の大きさにバラツキがあることである。

こうした情報から何が読み取れるのだろう。
共通点の①からは、足形を粘土板に写し取る行為が重要な意味を持っていたこと。②からは、土器焼きのように予め準備された焼き方ではなく、竪穴住居内の炉の火などで簡単に焼いていること。③からは、焼いた後に一定期間どこかに吊り下げていること。④からは、葬送儀礼に関するものでありこと。⑤からは、この足形付土版に対して特別の思いがあり、破損したものも大切にしていたこと。こうした情景が目に浮かぶのではないだろうか。
また、相違点の①と②は、一つの墓から孔の数や形状の異なる足形付土版が重なって出土していることから、時期による変化ではなく、男女など、他の要素によって区別されていた可能性が考えられる。③からは、足形を押した時点の年齢に幅があることが容易に分かるだろう。

土版を発見した当初は、赤ちゃんが生まれた記念、あるいは初めて立ったお祝いなどに儀式として足形を写し取ったのだろうと思っていたが、土版の共通点と相違点から総合的に判断すると、これらは亡くなった子どもの足形であると考えた方が論理的である。
おそらくは、子どもが亡くなった際、その子どもの足や手を紋様の付いた粘土板に押しつけ、住居内の炉の火などで炙る程度に焼いた後、暫く住居の中に吊しておき、その後に墓に入れたのだろう。
勿論、誰の埋葬に伴ったものかを実証することは難しい。ただ、土版の割れ口が著しく摩耗している状況から、墓に入れられる前に長い期間を経ていることが想定されるし、出土した墓が成人用であることから、亡くなった子ども本人の埋葬と考えることは難しい。親が死んだ時に子どもの形見とともに埋葬されたのだろうか。
不思議なのは、この風習が早期末から前期初頭の極限られた時期だけに行われ、しかも地域的には北海道南部の亀田半島と太平洋を挟んだ苫小牧-千歳の低地帯に限定されることだ。ここに、この足形付土版の発生を考える鍵があるのかも知れない。
こうした考えを遺物の整理作業中に述べたところ、作業員が再び足形付土版の前に集まってきて、誰かが「悲しいね」とつぶやいた。子どもを想う親の心はいつの世も同じなのだ。

足形付土版が出土した土坑墓
足形付土版の出土状況

3.アスファルト塊(豊崎N遺跡・磨光遺跡ほか)
https://note.com/jomon_jazz2501/n/n3a54c92eb543

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