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3.アスファルト塊(豊崎N遺跡・磨光B遺跡・豊崎B遺跡出土)

これは一体何だろう。。1993年の秋、私は調査事務所の中で豊崎N遺跡出土の小型の深鉢を手に取って眺めていた。口縁部を打ち欠いた土器の中には黒褐色の塊が充填されており、土器の口を越えて盛り上がっている。表面の状況は漆の樹液が乾燥したようにも見える。
作業員たちも集まってきて、頭をひねりながら一緒に考えていた。その時、私の手の中で土器がポロッと大きく割れた。「あー、先生が壊した」と一斉に非難の声。ちょっと、冷や汗が出た。

壊れたのはちょうど半分くらいだろうか、土器の側面が綺麗に取れてしまった。慌てて、取れた土器片を元に付けようとしたが指先がベトベトに。そして石油のような独特の臭い。露出した黒い塊は油脂光沢があり、指で押すと弾力がある。まさに道路工事したばかりのアスファルトのようだ。もしかしてと思い、小破片をスプーンの上に置き、下からライターの火であぶると、あっという間にぷすぷすと溶け、ポッと火が付いた。国内最大級のアスファルト塊発見の瞬間である。

縄文時代にアスファルトが接着剤として使われていたことは日本考古学の初期の段階から知られていたが、これまでは石鏃の柄や骨角製の銛の基部に付着している程度でであった。しかし、このアスファルトは742gと大きな塊であったため、まさかアスファルトだとは思いもしなかったのである。
北海道大学の小笠原正明教授に産地同定の分析を依頼した結果、秋田県の豊川油田(槻木)の成分と合致することが分かった。アスファルトは膠着性と耐水性に富む当時のハイテク材であったに違いない。縄文人が津軽海峡を渡って運んだのだろう。

アスファルトの発見はその後も続いた。1995年に磨光B遺跡を調査していた時のこと。遺跡は緩やかな斜面にあり、斜面下面に縄文後期後半の竪穴住居群、斜面上面の変換点から平坦部にかけて配石遺構が分布していた。両者の中間には柱穴が円形に並んだ掘建柱建物跡が何軒か見つかっていた。また掘建柱建物跡がある範囲からは、粒状の小さなアスファルト片がいくつか出土していた。
「よし、ここを丁寧にジョレンで精査しよう」と指示した。
1時間もした頃だろうか。
「アスファルトらしきものを引っ掻きました!」と報告が。

現場に駆けつけると、黒い塊が地面から顔を出している。
確かに上面は少し引っ掻かれたようだ。ちょっと残念な気持ちになったが、気を取り直して、その周辺から少しずつ掘り下げていくことにした。すると、直径約4mの円形状に柱穴が巡る掘立柱建物跡があり、そのほぼ中央に直径60cm、深さ25cmの小土坑が見つかった。その小土坑の上面には4カ所の浅い窪みがあり、その内の2カ所から球状のアスファルト塊が見つかったのである。
この小土坑の底には少量の炭化物と、アスファルトが流れた痕跡があることから、火の熱で溶かしながらアスファルトを使ったことが推測できる。これは、簡易な掘立柱建物のなかで行われたアスファルトの加工跡と考えて良いだろう。アスファルト塊は大小あり、大きい方が直径20cmで重量2,350g、小さい方が直径14cmで重量860gである。この時点で、国内最大のアスファルト塊となった。

磨光B遺跡のアスファルト出土遺構(小土坑の底部が焼けている)
小土坑から出土したアスファルト塊

ユニークなのは、2008年の豊崎B遺跡の発掘調査で見つかったアスファルト塊である。竪穴住居跡の出入口の床面に埋設していたもので、長さ14cm、幅10cm、厚さ5cmの楕円形を呈し、重さは約366gである。表面にアワビの貝殻痕が付いており、貝殻に入れて保管していたことが分かっている。
この周辺の海域にはアワビは生息していないので搬入経路を考えるうえでも興味深い。産地については弘前大学の氏家良博教授と上條信彦准教授に研究を依頼したところ、秋田県の豊川と駒形の天然アスファルトに近いとの結果が出ている。

現在のところ、縄文時代のアスファルト供給地として確認されているのは、国内では秋田県黒川産油地帯の潟上市豊川と能代産油地帯の能代市駒形、新潟県新津油田地帯の新潟市新津蒲ヶ沢大入の3カ所であり、国外ではサハリン・ヌトボが知られる。縄文時代のアスファルト研究はまだまだ途上であり、新たな産地も判明してくることと思うが、ヒスイや黒曜石と並び、縄文人の交流を考えるうえで欠かせない資料であることは間違いない。

アワビ貝の痕跡があるアスファルト塊(左上の貝殻は参考)

4.中空土偶(著保内野遺跡)https://editor.note.com/notes/n6ae56f2335e3/edit/

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