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村上春樹の「海辺のカフカ」を思い出しながら語る

だいぶ前に村上春樹の「海辺のカフカ」という小説を読んだ。ノーベル賞候補となったこともある小説家村上春樹氏の代表作の一つである。

私は普段あまり本を読まないのだが、村上春樹氏の小説は比較的よく読んでいる。今までに読んだのは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「ノルウェイの森」「ねじまき鳥クロニクル」「1Q84」などだ。「アンダーグラウンド」も購入したが、まだ読み切れておらず積読状態になっている。

彼の作品を網羅的に読んでいるわけではないので、作品世界を体系的に語ることは難しいが、「海辺のカフカ」だけは、読んでから10年以上経った今でも時折思い出し、再読したくなることがある。それは、私がこの小説を特別に愛している証なのだろう。

中学生の頃に出会った「海辺のカフカ」

中学生の頃、作品紹介と印象的な題名に惹かれ、「海辺のカフカ」を手に取った。その題名からは、何か哲学的な深みや透明感のようなものを感じ、思春期特有の人生への漠然とした悩みを抱えていた当時の自分に、何かしらの指針を示してくれるのではないかと期待を寄せて読み始めたのを覚えている。

しかし、いざ読んでみると、少々大げさに言えば、破天荒なストーリー展開の連続で、題名から想像していた「哲学的な深み」や「透明感」を直接的に感じ取ることは正直難しかった。主人公が家出をして静かな図書館で平穏に過ごすかと思えば、唐突に戦争の話、暴力、「森」、ジョニーウォーカーなど、突飛とも思えるモチーフが次々と登場する。そして、主人公はその混沌とした状況を乗り越え、最終的には確かに「強く」なっていく。
しかし今になって、この作品をよく思い出す。それはこの作品が自分に何かしら大きな影響を与えているしるしなのだと思う。そして、読んだ当時は直接わからなかった「哲学的な深み」や「透明感」のようなものを、今は感じることができるのである。

今にして思うこと

月日を経て今振り返ってみれば、少し安直な表現かもしれないが、この小説はコーヒーのようなものだと感じる。現実世界が「一筋縄ではいかない」複雑さを持つことを自ら経験し、理解が深まったからこそ、「海辺のカフカ」の持つ、一見突飛で暴力的とも感じられる破天荒な物語展開が、今の自分の感性に馴染むようになったのだろう。

作中には印象的な一節がある。主人公が家出先の図書館で出会った管理人の大島さんが、マツダ・ロードスターで彼を山へ送り届けるシーンだ。その車内で、大島さんはシューベルトの曲を好んで流す。なぜならその曲は「不完全」だからだと彼は語る。どんなに訓練を積んだピアニストでも、この曲を完璧に弾くことはできない。弾く人の技量によらず、曲そのものに欠落があり、常に何かが足りない。しかしその不完全さこそが、人の心を惹きつける魅力なのだと。

この一節は、「海辺のカフカ」という作品全体の持つテーマを凝縮した、重要な場面だと感じる。まるでタイトルの意味を回収するかのように、物語の核心が描かれている。他にも「森」など、この物語には不完全さの象徴とも取れるモチーフが随所に登場する。

一言で表現するのは難しいが、「海辺のカフカ」の魅力とは、「不完全な世界を生き抜くための緊張感と、人生に対する真摯な態度の大切さ」を描いているところにあるのではないだろうか。その掴みどころのないメッセージを、読者に伝えようとしているのだと感じる。

もちろん、こうした感想だけでこの作品の魅力を語り尽くすことはできない。私の拙い文章はもとより、どんな優れた評論家でも、この小説の持つ豊饒さを完全に言い表すことは難しいだろう。それはまるで、シューベルトの曲のように、常に何かが欠けているようで、だからこそ味わい深いのだ。ただし、村上氏の作品が不完全だと言っているのではない。むしろ、不完全な世界をありのままに表出しているからこそ、私たちの心に響くのだと感じる。

ぜひ、実際に作品を手に取って読んでみてほしい。きっと、かけがえのない reading experience になるはずだ。


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