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【短編小説】声

 うららかな日々が続く春。ある朝、公雄はいつものように散歩に勤しんでいた。これといって趣味のない彼は、毎日一度の散歩だけが生きがいである。妻に先立たれ、実の娘、亜理紗に頼るばかりに彼女との距離は微妙なものとなってしまった。それゆえ実の子にこれ以上苦労をかけまいと、公雄は日々、外出するようにしているのである。それもこれも家に居たきりにならぬためだ。
 今日もいそいそといつもの散歩コースを歩く。目の前の青の信号が点滅し、まもなく赤に変わろうとしている。この信号は一度変わったら、容易に青にならない厄介な信号である。公雄は急ぎ、歩みを早め、そそくさと横断歩道を渡ろうとした。その時である。
「いらっしゃいませ」
 ふと、公雄を呼び止める者がいた。誰だろう? 彼は慌ててあたりを見回すが、その場に人らしい人はいない。

――空耳か。それともわしもついに耄碌したか
                    
 公雄は自分の聴力が落ちたことに寂しさと不甲斐なさを憶えつつも、見知らぬ声に呼び止められたことに奇妙な歓びを感じていた。こんなことは公雄の日常には久しくない。少しばかり気分の上がった彼は、呼び止められた声が誰なのか、少年のように突き止めようと考える。
 その時だった。
「いらっしゃいませ」
 再び、あの声が公雄の少し後方から聴こえてくる。やはり、はっきりと若い女性の声である。決して空耳ではない。しかし、この度改めて聴いてわかったのは、声の主が呼びかけていたのは公雄にではなく、彼の後ろに偶然いたご婦人に、ということであった。
 そうである。声の主は自販機だったのだ。そういえば近頃、昼の情報番組で人工知能を持った自販機があると、公雄は聴いたことがある。その記憶からすると、自販機はどうもその時ごとに通り過ぎた人間をセンサーで感知し、いつも声をかけていたようなのだ。

 このことが少しわかると、公雄は突然、好奇心が降って湧いた。煙草を全く吸わない自分は、久しく自販機など使っていないけれど、そういえば、母さんは昔からコーヒーが好きだった。それもジョージアが好きだった。そう思って、暖かい記憶とともにズボンから小銭を取り出す。自販機のなかに少しずつ入れてみることにする。果たしてどうなることだろうか?
 すると、今度は自販機が公雄に「春ですね。少しづつ暖かくなってきましたね」と見事なまでに語りかけるのである。彼はすっかり嬉しくなってしまった。というのも、公雄はひとつの会社を不器用に勤め上げること四十年余り。一生懸命に働いたにしてはもはや、誰にも感謝されることもなく、今は家でアラフォ―になった娘、亜理紗と二人ぐらしである。社会との生き生きとした交流も、退職してすでに五年経った今となってはほとんど皆無に等しく、こういった人間的な触れ合いも絶えて久しかったからだ。
 公雄は最後に「ガチャリ」と、ボタンを押した地点から真下に落ちたジョージアを、素早く自販機から抜き取ろうとする。すると、自販機は女性の声で朗らかに「ありがとうございました」と彼に語りかける。

――幾年ぶりだろうか! こんな若い女性と話したのは!

 そのことで公雄はすっかり興奮した。
 頭のなかだけは血気盛んな青年時代に、いきなり戻ったようであり、結果、ポケットにあったわずかばかりの金のすべてをことごとく、自販機に投入しようとした。都合五本、コーヒーのジョージアを連続して買ったところで、金は全てなくなった。それにしても、と彼は感心する! こんな心地よい最新式の機械が、どこにでもある田舎の路上に備え付けられていたなんて!
 数日のつきあいを経た後にわかったことだが、この自販機の機構はなかなかに凝っていて、ひとくちに若い女性といっても、いろんなバリエーションのアナウンスがあるようである。
 例えば、息をぜいぜいと切らした前で、この自販機の前で立てば「大丈夫ですか? 少しジョージア飲んで、休んでいきましょう」と呼び止められるし、何も買わずにじっと、商品の缶を見つめているだけでいると、「どうしましたか? そんなに見られると照れてしまいます」などと、爺さん泣かせな可愛い言葉も掛けてくれるのだ。
 ただ、お金を投じるとガチャリと商品だけが出てくるといったような無愛想なものではなく、人工知能の働きによって、人とちゃんとコミュニケーションできる自販機のようなのである。こんなもの。昔はなかった。二十一世紀の新しき発明とはこのようなものなのか!
 公雄はこの癒し系自販機にすっかり夢中になった。

 それからというもの、公雄は自販機にお金を投ずるのは一度に五回までと固く心に決めた。散歩の際にも一日八百円ほどだけしか、外に持ち歩かないことにした。そして毎日、この自販機の前に通い出すようになった。
 そうした習慣ができてからわかったことだが、この自販機遊びは老人がキャバレークラブや風俗に無理して通うよりも、よほどその生理に叶っているようだった。彼が求めているのはもはや、射精ではない。精子の放出欲。そんなものは初めて処理してからもう、六十有余年。付き合い方は心得ている。そんなことより、心の潤いが心底欲しいだけだからである。彼はこう思った。
 それというのも、公雄は妻を早くに亡くしてからすでに七年が経ち、歳のせいもあって生々しい女性との交流が、実のところ苦手だったからである。しかしながらそれでいて、何もかもすっかりと枯れてしまったというのではなく、女性を拒みつつも求めるといったジレンマは常に心に葛藤として抱えていた。

――そうだ。これだ! これである! こういうものをわしは待っていたのだ!

 今や公雄は、すっかり満ち足りた。
 それからは毎日、娘、亜理紗の目を盗んでは散歩と称し、一日、二回、多い時には朝昼夕の三回。この自販機の前に通いつめるようになった。
 彼にとって毎日の散歩はもはや、梅を観たり、犬を眺めたりといった同じ年頃の御老人にありがちなありきたりなものではない。現役の「女」に逢うために日々、外を歩くのだ。そして、その「女」は逢えば逢うほど、どういうわけか、昔、愛した妻、「和子」の出逢ったばかりの頃に思えてならなくなってくるのだ。どうかどなたか教えてほしい。こんな愉しい悦楽は他にあるだろうか?
 いつしか、公雄はこの自販機と対面することが中毒のようになり、悦ばしき依存症となった。そのうち、この機械を亡くなった妻がわりと本気で思い込むようになり、ついに、今では喜んで進んで惚けてしまったのか。自販機を妻の名と同じ、「和子」と呼びかけるようになった。
 この機械は国道沿いの、比較的人通りのある交差点すぐそばに置かれていたのであるが、誰もいない時などを見計らって、「和子や。また、来たよ」などと語りかけるのが、彼にとってすっかり日々の習わしとなったのである。
 果たしてこの自販機を制作したスタッフは、確かに、当初はこうした効果を少しばかり購買客に与えることを狙って、自販機に声と人工知能を搭載することにしたようだったのだったが、このようなコアなファンがつくとはどうも想定外だったらしく、スタッフのひとりが、偶然、公雄が自販機に語りかけ、ついには頬ずりまでして、帰っていく様子を目撃してしまってからは、罪つくりなものを創造してしまったと、自身、悪魔の化身になったように思えたようである。
 自販機はというと、公雄が毎日、トチ狂ったように素早くコインを投入するのに、すっかり戸惑ってしまったらしく、そのうちアナウンスがかなり乱れてきた。そしていつの頃からか、彼自身一日に現金を入れるのは五回までという上限も、守れなくなってしまい、自販機の方でも公雄の相手をするのに、戸惑ってしまっていた。
「春ですね」「夏ですね」「秋ですね」「冬ですね」    
 いつしか、まだ、一目逢ってからひと月も経っていないというのに、季節は一年ひと巡りした。

 さて、ある日のことである。公雄はきょうも亜理紗に怪しまれながらも、ホクホク顏で家を出ると、そのまま、「和子」のもとに駆け参じようとした。すると、今日は珍しく先客が来ている。しかも、その男は熱っぽく「和子」を見つめては、なかなかお金を投入しようとせず、妙にそわそわしていて気色が悪い。
 彼はイライラとしつつも、しょうがなしに、別の男が「和子」に銭を入れる、のを身悶えしながら待っていた。
 すると、公雄はそこでこの男の奇妙な行動を目撃する。その男は「和子」との不思議な対話のやりとりを続けている。この彼の方こそが、和子にとって上客であったらしく、彼は一万円札をまずしかと、和子に「投入」してからは、たて続けに五回ボタンを押した。どうも厭な予感が走った。すると、和子は、「ありがとうございました」「ありがとうございました」「ありがとうございました」「ありがとうございました」といった次に、なんと、「もう、胸いっぱいです!」と叫んだのである。
「喜んでお金を投じているのに、最近どうもそっけないのは、この男のせいか!」
 公雄はその時、すぐに直感した。
「何をしてるんだ!」と、たちまち彼はその男に突っかかっていった。男はというと、うっとりと陶酔した眼で「和子」を見つめていたが、公雄に呼び止められると、自身が不審者のようであることにまるで自覚があったらしく、ジュース缶も拾わずに、慌ててその場から逃げ去ろうとする。
「おい、待て!」と七十過ぎの公雄は、同じくその歳ぐらいであろうこの老人を追いかけ、およそ十メートルもいかないうちに、ふん捕まえた。
「和子に何をしていた!」
 すかさず彼はこの男を問い糺そうとする。観るとやはりというか、人生に苦労してきたのであろう哀愁漂う老人が、「和子」からはき出されたジュースの飲み過ぎで歯も溶けたのであろうか。「フガフガ」と前歯のない口で必死に抗弁しようとしているのである。
 公雄はこの様子を観てさすがに可哀想に思って、彼を掴んだその手を緩めようとした。何だか、その時、わが身を観ているようで、どうにもこうにも堪らない気持ちになったからである。彼のことを赦そうという気にだんだんとなった。
 その時である! 男は「燿子が金をクレとせがむから」ととっさに小さな声でこう呟いたのだ。
 実は公雄は先までこの老人をいい歳だというのに、まだ夢を見て詐欺にあっているとすっかり憐れんでいたのだが、ふと我に返ると、この男にそんな女っ気などあるはずがない。はたと思い直し、この時、「もしや」と気になってしまった。そこで彼はすっかり疑心暗鬼になって「燿子とは誰だ!」とこの老人に呼び掛けた。
 すると、老人は「燿子は燿子じゃよ。そこにいるじゃろ。燿子」と不敵にニヤッと笑った。その時、公雄がはっとあたりを見ると周囲は薄暗く誰もいなかった。その代わりに彼ら人間たちを照らし出す光り輝く自販機「和子」がそこにあった。
 こうして、不特定多数の人間に声をかける自販機を「愛しき人」と思いこむふたりの老人が、偶然、吸い込まれるように知り合った。ふたりの老人が見せた反応は、まだ男として現役、とでもいえる激しい嫉妬の炎を互いに対して、メラメラと燃やすというものである。
 諍いの口火を切ったのは、公雄の方だった。彼は「馬鹿! 燿子でなくて、和子、だろ!」とこの男を叱責し、殴りつけてやろうとしたが、その時である。
 と、ここで「どうしましたか!」と、歩行者の通報を受けた警官がふたりの前に現れ、職務質問をした。公雄はなんとか、この状況を説明しようと思ったが、ふと、頭を上げると、すぐ前方に、「和子」の姿があるではないか。

――なんだか、彼女に見つめられている気がする。彼女の前で僕たちの秘事について、口を割るわけにはいかない。

 と、公雄は警官の前で黙秘し、この悔しさを自重して腹に収めることに決める。
 すると、すっかり困ってしまった警官はそこで、この自販機を「燿子」と呼び掛けたもうひとりの老人の方に、ことの次第を尋ねた。
 男は「彼女と話していただけだ」だとか、「愛を営んで何が悪い」などと穏やかな声でありながら、一方的に話している。妙に落ち着き払って釈明しているところが、この男の病いの深さ、あるいは現代社会におけるある種の老人の孤独を誰の眼にも明らかなほどに現わしていて、その姿はすっかり一線を越えてしまった自販機愛好者の痴態といったようで鬼気迫るものがあった。

――このひと月の間にわしはいくら貢いだだろうか?

 公雄はこの老人の姿をみて、ようやく我に返った気がした。この老人はとても、知的かつ端正な容貌をしていてーおそらく前職はきっと自然科学者か何かなのだろうー彼とて老人をこれ以上、問い糺す気にはなれなかった。まるっきり冷静になって、この場は引き続き大人しくすることに決めた。
 警官は言った。  
「きちんと、ひとりで自宅に帰れますか」
 男は全く応答がなかった。
 そこで、この警官は「こちら〇×町△□……。応援宜しくお願いします」と、手にしていた無線機で別のパトカーに連絡すると、燿子、と時折呟くこの老人を保護して、街のどこかへ去って行った。
 こうして公雄はひとりこの場に残されたのである。あの男も随分と可哀想なことだし、和子とあの男との関係はもう、忘れようと思った。しかし、すべてを赦そうと思おうにも、今度は目の前にいる「和子」に対して猛然と腹が立ってきた。公雄はそこで理不尽にも怒りの矛先を彼女に向けようとする。
「「和子」に他の別の男がいたなんて! なぜだ? なぜだ? なぜだ? 和子、答えろ!」
 それから公雄は和子を揺さぶったり、薄くなった頭部で頭突きをくらわしたりした。そして、最後に小銭をいれながら、ドスドスドスドス! と、ボタンを激しく叩いた。
「ありがとうございます」「ありがとうございます」「ありがとうございます」と三度繰り返して、四度目に「あなた、ごめんね」と自販機の和子は泣き出すように、声を出した。そして、そのあとガラガラガラと、ジョージアを一気に吐き出した。
 あまりに一度に吐き出したため、すぐにコーヒー缶は受け取り口から一杯になった。その様子を見て、公雄も胸が張り裂けそうで一杯になり「ごめんな。ごめんな。ほんと、ごめんな」と、不格好な有様で、彼より図体の大きい金属体の和子を抱きしめた。
「何をしてる?」
 と、公雄はそこで再び別の警察官にその様子を見咎められた。当初は「お爺さん。どうしたの」と優しく諭されるだけだったが、様々な押し問答があった結果、今度こそ彼は問答無用で自宅までパトカーで送り返されることになった。家では通報の連絡を受けた娘が庭先のところで今か今かと待っている。
「よくお父さんを見守ってあげてくださいね」と警官達は、公雄を娘に引き取らせると、
「では、これで」と軽く敬礼して帰っていった。

 さて、話は公雄の家に移る。
 警官達が帰っていったところで、亜理紗は「お父さんどこへいっていたの!」と、鬼の形相で公雄に問い糺してきた。
 亜理紗はよほど父のことを心配していたらしく、この子にしては珍しいのだが、父に見咎められることも憚らずに、目の前でさめざめと泣いた。
 その様子にすっかり我に返って、酔いが醒めたような気分になった公雄は、「母さんのところだ」と、きっぱり短く答えた。
「どういうこと?」と亜理紗は再度怪訝そうに尋ねてきた。「母さんは死んだわ。とっくの昔に死んだわ」と、公雄の頭の具合を心配しているのか。もっと泣いた。
「おやおや、心配かけてすまん、もう大丈夫だ」
「大丈夫だって何よ! 父さん、私のことを観てる。たったひとりの家族よ! ねえ、私のことを観てる?」
「観ているよ」
「じゃあ、亜理紗はどこにいる? ちゃんとここにいる?」
 そう言うと、亜理紗は公雄の手をしっかりと握り、その手を彼女の頬に静かにあてた。たちまち彼女の生きた血潮が、入念に塗られたコーセのリキッドファンデーションごしに、どくどくと伝わってきた。実の娘とはいえ、生身の女の息吹がぎゅっと手のひらごしに伝わり、彼はびくっと思考がしばらく停止する。
「ねえ、どこにいる? 私、どこにいる?」
 亜理紗は放心した公雄を心配そうにずっと見続けている。

――ああ、亜理紗、嬉しいよ、亜理紗。わしはもう、誰も求めない。お前のためにもちゃんとわしは生きないといけない。だから「和子」に勢い飲み込まれて完全に耄碌してしまう前に、ちゃんと言わないといけない

「亜理紗や、亜理紗。わしが思ったことをすべて口がきける時間は残念ながらもはや限られている。人は皆、「本当の話」を語らずに皆、あの世へと突然、旅立ってしまうのだ。母さんがそうだったようにな。亜理紗。だから、わしがすっかり惚けてしまう前に、「本当の話」を今、ここで忘れずにしよう。この一か月。今まで黙っていて悪かった。わしはしばらくの間、母さんの「声」に導かれて、ふたりでずっと繁殖していたのだ。わしは母さんを買った。毎回、金で買った。そして、母さんはわしと繁殖し、わしとの子供をたくさん身籠った。皆、わしのいうことを聴く良い子ばかりだ。悪い子はひとりもいない。だから本当のお前は二階にいる。ほかの兄弟たちと一緒にわしの部屋の箪笥のなかにいる。そこに、わしと母さん。ふたりで制作した作品がたくさんいるよ。亜理紗や。亜理紗。本当のお前自身もそのなかのひとりなんだ。思い出すんだ。亜理紗。思い出すんだよ」
 亜理紗は公雄のその言葉を聴いて、まず異様なものを感じた。言ってることも少し奇妙というか、支離滅裂でよくわからない。しかしながら、いくらおかしいと人の耳に感じられることでも、当人にとっては、真実、ということがあることぐらいはよく分かっている。
 そこで、父の手を急いで振りほどくや否や、言うがままの場所を探索すると、その数、百数十缶以上は軽くあっただろうか。果たして、缶の蓋が全く開けられていないジョージアが、そこにあったはずの棄てられた衣服の代わりに、たくさん敷き詰められていた。
 亜理紗はそれを観て呆然とする。父がついに惚けたのかと背筋に冷たいものが走る。公雄は何も言わなくなった亜理紗の背中に向かって、こう優しく語りかけた。
「母さんはな。コーヒーのジョージアがことのほか、好きだった。毎日三本飲むのが日課だった。そのロゴマークは幼き日のお前もまた部屋で観ただろう?」
「……」
「母さんの身体を心配して、ジョージアを取るか。わしを取るか。と昔よく喧嘩したもんだ。結果、母さんはわしら家族を取って、ジョージアを毎日三本飲むことは潔く捨てた。だから今、わしが母さんの代わりにたくさん買いこんでいるんだよ」
「お父さん、コーヒー飲めないでしょ!」
 次の瞬間、亜理紗が鋭く叫んだ。彼女は隣の自室へと戻り、おそらくは海外旅行用の大きなスーツケースを取り出してきて、缶の開けられていないジョージアをひたすら、そのなかに詰め込んでいった。そして、最後に一階へと戻って、浴室へと入り。そこで、いつから付き合っていたのかは定かではないが、見知らぬ男を突然、携帯電話で家に呼んで、大量にある缶を潰し始めた。浴室からは亜理紗の気合いの入った金切り声が聴こえてくる。どうやら公雄が言うところの家族をすべてスポイルしているようらしい。彼は慌てて階下へと戻る。

「お義父さん。お邪魔してます」
「や! お前は誰だ?」                    
「お義父さん」
「何だ?」
「僕はジョージア好きですよ。また、申しつけてくれたら、僕がお義父さんのぶんも買ってきましょう。僕。そういうこと好きですから」
 彼はそう言うと、公雄の前で、「カキッ」とジョージアの蓋を開けて、見目も爽やかに、その場でごくごくと飲み干した。
 公雄は義理の息子に確実になるであろうこの男に、そう思いがけずに優しく言われて「あっ」となった。嬉しいのか悲しいのか、様々に去来した感情が混濁して、全く分からなくなった。ただ、わかっていることは、この男の出現により、この「家」は、間違いなく彼らに乗っ取られようとしていることだ。その証拠に見ろ! 百数十缶以上あった「和子」の分身は、すべて、燃えないゴミに廃棄されるよう、まとめられ、縛られ、力強いまだ若い肉体を持つ男の手により、押し潰されてしまった。公雄と和子がふたりで始めた生活。公雄と和子が占めてしかるべきこの家の場所は、この男の出現により、ほどなく消え去ろうとしている。彼が娘にお似合いの、見たところ非の打ちどころのない年下の好青年であるだけに公雄は余計に彼が憎い。実の娘がどこの馬の骨だか知れぬ別の男に心囚われることは、世知辛い人生において、どうにもならないことではあるけれども、今や和子たる母さんと亜理紗を除いては公雄にはもはや、肉親はいないのだ。彼は哀しみのあまりに叫んだ。
「亜理紗。遅かったの! ばってん。お前のことが好きばい。ばり好いとうよ!」
 亜理紗は公雄のその言葉を聴くと、頭に「クエスチョンマーク」が直ちに浮かんだようだ。
「は?」という怪訝そうな顔をその刹那、彼女は公雄の前で見せた。そして、その表情を公雄は見逃さなかった。少なくとも彼にはそう思えた。
 公雄は今や、すっかり退行して、つい生まれ育った博多訛りに戻ってしまった。言葉さえもはや、彼の自由にはならないようだった。亜理紗はパートナーとなるであろう男の車のトランクに、ジョージアの束を縛り上げてから載せるよう指示すると、公雄に二階でもうゆっくりと休むように伝えた。まだ若い彼らは夜のドライブにいくらしい。以下は、家にただ独り残された公雄老人の心の声である。

――ああ、この家はもうすっかり世代代わりだ。わしらの愛と追憶の日々が遠ざかって行く。わしの亜理紗もついでに奪われてゆく。鮭のように産卵した「和子」代わりのジョージアも、この家から放逐されてゆく。この家に遺るものはもはや、もう何もない。何もない。生きたものはなにもない。それでは、いっそのことこの家のすべてを、あの非の打ちどころもない爽やかな男にくれてやろうではないか。亜理紗もそのうち、あの男に懐柔されて、わしのことを大切にしなくなるに違いない。はあっ。はあっ。息切れがする。わしには見える。見えるぞっ。その残酷な未来が! 母さん助けてくれ。こんな時、こんな時、どうすれば……彼らがわしを尊重しない未来が確実に待ち受けているというのならば……。そうだ。そうだ。これがわしにできるせめてもの反抗。よしっ。

「死のう」とこの時、初めて公雄は死を意識した。
                                  (了)(原稿用紙30枚)
         
        

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