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いとこのお姉ちゃん

私には仲のいいいとこのお姉ちゃんがいます。 父の姉の子で、上に私とは一回り(12歳)上の兄がいて、そして私より7歳上のお姉ちゃんです。
私の名付け親である義伯父は、私が1歳の時に亡くなり、父が2人の父親の様に良く面倒を見ていました。
ですから、私は一人っ子なのですが、小さい頃から良く遊んでもらっていました。
流石に兄の方は12歳も歳が離れていて、海水浴に一緒に行ったりした事ぐらいしか遊んでもらっていませんが、7歳違いのお姉ちゃんは、ままごとを一緒にしたり、人形遊びをしたり、家を行き来して、ご飯も一緒に食べたり、家族の様に過ごしたりしました。

父の会社の慰安旅行にも一緒に


添加物の入っているであろうな物を全然食べさせてくれなかった祖母と違い、ラーメンを初めて食べさせてくれたのはお姉ちゃんでした。
「出前一丁」のラーメンで、
「これが美味しいのよ。ゴマラー油が美味しくしてくれるのよ」と、調理してくれました。
「おばあちゃんには、秘密ね!」と、言って食べたラーメンは、特別美味しいものでした。
秘密』という言葉もとても魅力的でした。

1968年発売



お兄さんは、高校卒業後、横浜の方に就職して結婚もして住んでいました。
私が大学の頃、2人で夏休みに横浜に出かけて
お兄さんの家に滞在して、2人で横浜や鎌倉へも観光して周りました。
歳は離れていますけど、おっとりとしたお姉ちゃんは、私とは全然性格が違いますが、とても気が合うのです。

そうこうしていたら神奈川の方に、お姉ちゃんは嫁に行きました。
上の子のお産の時は、大分へ里帰り出産をしたのですが、下の子の時は、それが出来ず、伯母さんは仕事が休めず、フリーで仕事をしていた私が行って手伝いをする事になりました。
上の女の子は当時2歳でした。
行った次の日、突然お姉ちゃんは帝王切開での出産になりました。
残されて、まだ馴染んでいなかった上の子は、なんとなく解っていたのかすぐに仲良くなってくれました。泣きもせず、私にくっ付いて生活を始めました。
家の事も何一つ申し送りできないまま、家と上の子を任されてしまったのです。
当時、ご主人は「クリーニング」屋をしていて、その店の2階に住んでいました。
一日中働いていて、配達もしていました。
お昼には家に帰ってご飯を食べてまた、下の店に降りるといった具合でした。
市営アパートの一角にあった店は買い物には便利でしたし、上の子を連れて公園に行ったりできて不慣れながらも家事をこなしていました。
どうにかこなしはじめた3日目にお姉ちゃんが帰ってきました。
入院した産婦人科では、自然分娩は日帰り、帝王切開でも3日で退院というアメリカ式の変わった病院でした。(普通は、自然分娩は、6日、帝王切開は、8日間です)
もちろん抜糸もまだで、動ける状態ではありません。ですからその後、一週間ほどは、目が回るほどの忙しさで、お姉ちゃんの世話、新生児が泣き出した時の世話、上の子の世話、ご主人の世話、ご飯の支度、掃除、洗濯と、良く独身の私が出来たと思えるほどのハードな日々でした。
おまけに、お店が忙しい時は、クリーニングの受付もしていました。
結局、一ヶ月滞在して、無事ミッションを完了させて帰りました。

その子らももう結婚して、子供もいるのが不思議な感じです。

いとこのお姉ちゃんも、もうすぐ70歳だというのですが、まだ働いているとの事で、ゆっくりとした老後の再会ももう少し先になりそうです。
たまの電話で今は我慢です。



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