最近の自分を振り返って
一人で何も予定がない日に
今自分の置かれている精神的な状況を
タバコ吸いながら考えてる事を今日は書こうかなって思ってます。
こーゆー時の一人での考え事なんて
何も解決のしない哲学的な悩み事だけど
寂しいっていう感情って一般的にはネガティブな感情として捉えていて自分もよく孤独だなとか寂しいなっていう感情に陥ったりするから
こーゆーシリアスな感情て自分の弱さからくるものだと思ってだけど
赤ちゃんって親が離れれば泣いて抱き抱えれば泣き止む傾向があるってことは
赤ちゃんほど未熟で自分を守ってくれる存在がいないと大声で泣く事で寂しさと言う感情を周囲に伝えてる。
そー考えると寂しさは危険を予測する本能的な防御反応っていう捉え方もできるし
元々人間は他の生き物に比べて力もないし足も遅い訳だからより濃密で社会的な群れを構築して生き延びてきたと考えると寂しいという感情にそこまでシリアスに捉える事なく生きていける。
でも自分自身も今現在生きている人も思ってる寂しさっていうのは寂しさの本質の先の「欲」への寂しさなのかなって思う。
欲求って確か中学のどうとくの授業とかで習ったけど生理的欲求・安全的欲・社会的欲求・承認欲求・自己実現欲求がある。
多分自分たちが追い求めがちなのは精神的な欲求からくる社会的欲求と承認欲求なのかなって思う。
友人や家族とか好きな人とかに認めて貰いたい
尊敬されたいとかこの欲求が満たされない状態が続く事で孤独や不安感に陥ったり鬱になるケースがあると思う。
俺が孤独だなとか寂しいなって感じるのは
こーゆー所から来ているのかもしれない。
特に友達とかにも讃えられたり注目を浴びたり
好きな人からも強い愛情とか感じたりする事が少なかったし割と人よりもネガティブだと思うから
精神的な欲求に今更飢えてるのもあるが諦めている節があるんだと思う。
だからモデルを目指してる友人もよく孤独に感じると口にしてたけど
社会の不自由さや生きづらさ、若者はダメだとか、ネガティブな部分ばかりが目について若さゆえの独善的な考え方に陥っていたんだと思うんです。俺もそーだったし。
でも結局今考えると井の中の蛙というか。
学校辞めて新たな学校で新たな人達に出会って
みんな住んでる所や生きてきた価値観とかバラバラだけどその人達と過ごしていくうちにそーゆー気持ちは徐々に薄れていって、置かれている場所や環境が問題なのではなく、捉え方次第だと思えるようになっていって。
いい場所、いい人は東京でもいくらでも見つけられるのに、そこには目を向けず、自分の周りだけがすべてだと勝手に思っていて、そりゃ、つまらなくもなるわなって。
今でも刹那的でシニカルなところはあるから
好きな人たちと過ごす時間とか永遠続かない事の寂しさに陥る事はあるけど。
人の感情はたやすく揺れ動いて
目に映るものはみんなまやかしで
確かなものは何一つないってnanaのピロローグに書いてあったしw
一つのネガティブ感情や出来事で人間関係は
崩れていってしまうものだから人の縁ってのは
儚いものだしそれで落ち込んでもしょーがないと思う。
大好きだった子と別れた時とか生きてる感覚がなくどーなってもいい思って独善的な考え方に陥った時とか中学時代のメンヘラ元カノが川に行った理由もわかった気がしたけど
そー考える事によって自分を守っていたというか逃げていたのかなって思う。
いきなり重い話になるけど
俺の中学のサッカー部の後輩の死も、
俺の小中同級生であり
妹の親友の姉である彼女の死も、
死は尊いものであると考えれば
死はネガティブなものではあるけれど意味合いが反転するような感じがする。しかし
「死とは尊いものである」と考えることによって、死に値する生をどう高めていくかというスタンスに反転はしても、
ポジティブに振り切ったわけではない。
ネガティブではあるけどバッドとは捉えないってことが大事なのかなって。
あれもこれも上京して2年間。
まだまだ未熟だとは思う。だけど
あらゆる価値観から事象からたくさんのことを受け入れてきた結果だと思う。
人は成長するために苦労して生きている。
人間にはそれぞれ許容範囲があるからわざわざ人に押し付ける事は減ったし、
そうやって生も死も経験して
自分なりに理解しようと努めたことで去年よりは思い悩まず日々を過ごせるようになった。
日々の生活の中で心が揺れ動く時があっても
物理的な欲求や精神的な欲求の先の
自己超越を追い求める人間になりたいと思った。
文書無茶苦茶だし
多分読んだ人はこいつ何言ってるんだってなるけど寛大な心で読んでくれると嬉しいです。
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