愛と自己責任の原則

愛や救済を説くはずの宗教において 自己責任を説くのは何か冷たいように感じないでしょうか。
私は 長くそのような思いが ありました。

ですから 幸福の科学の教えのなかで なかなか馴染めないものがありました。

幸福の科学の教えの中にも どちらかと言えば自助論的な教えが多かったように思います。
愛 知 反省 発展の4つが 四正道として 教えられ 最初に 愛の教えの大切さが 説かれているのに 何故  自助の精神や自己責任の教えが 
説かれるのかと。

愛についても

私は 何か 他の存在から与えられるものだと思ってきた 

そうではなくて

 幸福の科学で仏が教えるのは
自分から他に与えるものだと 何度も説かれているのに

その愛の方向性の間違いにもついても
言葉だけを聞いて
本当のところを 理解できずにいたのだと 思うのです。


宗教のなかには大きく2つの流れがあるようなのです。

心の挑戦のなかで 説かれたのは


神人隔絶型の宗教
神人合一型の宗教


前者は キリスト教に代表される神の前に小さき自分を知って謙虚になる 心を教えられます。

後者は 仏教にみられる人間が仏に近づいていくことを教えられます。

仏の教えは 人間であったものが神になっていくという思想であり
この世での魂修行をして 人を導き救済したものがあの世に還ってから高級霊となり仏と同じ力を持つようになるのだと教えているのです。

ただ それは 日本の習俗として言われるよう「死ねばみんな仏になる」という考えは間違いなのです。

そんな安易なものではありません。
それだけの魂の修行をしたら 
 ということが前提になりますし、

そのために八正道という反省するの教えや
六波羅密多という修行などの教えが説かれているのでしょう。

自己責任の原則というのは

撒かぬ種は生えぬ
撒いた藻のは自分が刈り取らねばならないという
縁起の思想と関係しています。

自分が選びとっていった結果が 来世で現れるというのが 縁起の法則です。

この縁起の法則から 逃れることはできないというのです。

自分を取り巻く環境や 人間関係が悪いということは確かにあって 人生が苦しいということは現象としては確かにあるのですが、

それをすべて取り去ってしまえば問題が解決するかと言えばそうではなくて 
そこから何かを学びとるためにその環境があるのだと 考えなければならないのだと思います。

自分で自分の人生を変えていく力があること
自らのうちの内在する力に目覚めいくためには
この自己責任の教えは 大切なものになってくると思います。

この教えがないと
外部環境に左右され
漂うだけの人生になってしまいます。

ただ それが 苦しむ他者に対する

 「それは自己責任でしょ」
と突き放すような冷たさになってくると
また  また間違いが大きくなってくるとも思うのです。

あくまでも 自分に対して厳しく 自分を律する為に使いたいものです。

小さな子供に対しても こんな歌で先生は教えられています。

自助論でいこうよ

自分に出来る小さなことを 見つけていきたいものです。




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