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天災、疫病、事故、事件…そして環境禍(汚染・破壊) 緊急時対策

地震や台風、洪水や大雪、落雷や竜巻、そして津波、日本は自然災害(天災)が実に多い国です。
そのたびに多くの犠牲者が出てしまうのは、とても痛ましいことです。
幸い命を奪われなくとも、大怪我や疾病で健康状態を奪われたり、住環境を奪われたりと、日常生活に新たにかかる身体的・金銭的な負担・負荷が長期にわたって継続することも少なくありません。

天災は、企業経営の面でも、無視できない損失を引き起こします。
それだけに、予めの備えと心構えが欠かせません。

天災のほかにも、疫病、事故、事件、そして環境禍、企業経営の周囲には、外部要因によるリスク(不確かな幅)がたくさんあります。
人々の日常生活を支える企業経営者にとって、いずれも「起きてほしくないこと」ですね。
天災、疫病、事故、事件などをひっくるめて「インシデント」と呼ぶことがあります。日本語では「出来事」くらいが適当でしょうか。

インシデントは、単なる出来事なので、インシデントの発生だけに留まってくれれば、「実害」はまだ発生していません。
「実害」とは、たとえば、死亡、行方不明、怪我、疾病、身体障害、精神障害、インフラ被害、商品被害、営業停止、情報障害、信頼失墜などです。
もちろん、ひとたび「インシデント」が発生すれば、程度の軽重の違いはあるにしても、多くの場合、こうした「実害」が発生してしまいます。
しかし、ここでは、「あえて両者を分ける」ことを推奨しておきます。
この両者を混ぜてしまうと、リスク管理のうえで不都合な混乱が生じてしまうからです。

こうしたことを踏まえた上で、インシデント別に眺めていきましょう。

① 最初のインシデントは「天災」です。
天災というインシデントはいつ起こるか分かりません。コロナ禍などの疫病もこの類いです。
その「発生確率」は低くても、「どこかでいつかは必ず起きる」という性質を持っています。
そして、「インシデントそのものの発生確率」は(自分たちの努力で)下げることができません。
しかし、天災というインシデントが「誘発するインシデント」や「派生する悪影響」さらに「実害」の「発生を予防すること」や「範囲・程度を下げること」は可能です。
たとえば、「物流」ビジネスにおける「大雪」を例に見てみます。
「大雪」(インシデント)
 ⇒「大渋滞・立ち往生」(誘発されるインシデント)
 ⇒「大幅な遅延」(派生する悪影響①)
 ⇒「納期遅れなど」(派生する悪影響②)
 ⇒「金銭的な損失」や「信頼の失墜」や「腐敗・廃棄物の増加」(害悪)という一連の流れを予想することができます。
大雪が降れば、しばしば大渋滞が発生して、時として何日間もの立ち往生が発生することもありますね。
大雪は最近の気象情報では一応予報できるので、この予報を頼りに、大渋滞に巻き込まれないような工夫をして被害を緩和する余地があります。
ところが、一部の無責任な担当者は、「予報はハズレることもあるから、運を天に任せて、お祈りして、いつもの通りに運んじゃえ!」と油断しておきながら、予報通りに大雪になったら「運が悪かったねぇ~」と愚痴を言って、「工夫するチャンスを逃した自らの怠慢」を「天気」に転嫁することもあるでしょう。
仮に「どうしても、大雪・大渋滞というリスクがあっても、定刻に到着させる必要がある」という事情があるのなら、「その後の実害の発生」を覚悟の上で、品目や量を最小限にとどめた上で、あえて「計画の日時通りに配送する」という選択をすることがあっても、それはそれで仕方がないでしょう。
しかし、単なる怠慢(無謀)で大渋滞や立ち往生に巻き込まれてしまえば、必然的に損害は大きくなります。
さらにそうした(対策面で怠慢な)物流会社の数が増えてしまうと、大渋滞や立ち往生の時間や距離も拡大し、全体としての社会的損害も拡大します。
「配送ルートの変更」「配送手段の変更」「配送日程の変更」などで、たとえ多少の遅延やコストアップが発生したとしても、「大幅な遅延」や「腐敗・納期遅れ」「廃棄物の増加」「信頼の失墜」「金銭的な損失」を回避または緩和できるかもしれません。
ここで強調したいのは、事前の対策は「大雪が発生したこと」を前提として策定することです。発生確率の低さは、あえて考えないのです。

② 次に、「事故」というインシデントです。
事故もいつ起きるか分かりません。まったく起きないかもしれません。この点では前項の「天災」と同じです。
しかし、事故は「そのものの発生確率」を下げることが可能です。ここが「天災」と異なる点です。
事故は過失によって発生します。もし過失でなく故意ならば、それは事件(後述)です。
たとえば、火災(失火)は過失なので「事故」です。放火の原因は故意ですから「事件」です。
「発生確率を下げる工夫(対策)」が可能であるからには、まずはこれを追求することが第一です。「危なっかしい箇所を探すこと」から始まりますね。そうこうして、幸いにも発生確率をゼロにできれば、以下の対策は不要になりますので。
次に「発生してしまった後の対策立案と準備」です。
インシデントに次いで発生するであろう「悪影響」や「実害」を想定するところから始まります。
「起きてしまったインシデント」から「悪影響」や「実害」につながらないように、これらを断絶させるための手段を講じます。
予防対策(予め防ぐ対策)ですね。予防が可能なら、実害は発生しません。ハッピーエンドです。
仮に火災のように「両者の断絶」つまり「予防」が不可能な場合には、次善の策として「(実害の)緩和」の手段を講じます。
インシデントの種類によって対策は異なりますが、ひとつ大切なことを挙げるとすれば、「(事故が)発生してしまったこと」を前提とするということです(天災と場合と同様です)。
いつまでも発生確率に囚われていると、ついつい対策が疎(おろそ)かになってしまいます。
これはよく見かけるケースなので、気をつけなければなりません。

③ 次に、「事件」です。
事件は人の故意(悪意)によるものです。
毒物が間違って混入してしまった場合は「事故」ですが、誰かが毒物を食品にわざと混入させた場合、これは「事件」です。
「事件」もいつ起きるか分かりません。
全く起きないかもしれません。
「事件」というインシデントへの対応の難しさは、「その具体的な態様を予め想像することが簡単ではない」という点でしょう。
悪意を持って「実害を与えてやろう」という邪(よこしま)な動機なので、何をするか分かりません。
毒物を混入させるかもしれませんし、爆発物を仕掛けるかもしれませんし、装置の不具合を誘発させるかもしれません。
列挙し出すとキリがない、という暗澹たる気持ちにさせられます。
しかし、これも「発生確率」を下げることは可能です。
たとえば、毒物混入という「事件」には、毒物を故意に(わざと、悪意で)混入させる「人」が必ず存在します。
その「人」に悪意を発生させないように、人間関係の改善で対応できることがあります。
たとえば、「孤立させないこと」「仲良くなること」「仲間との絆を深めること」「自尊心を強化すること」「未来への希望を共有すること」「互いのミスを補完し合うこと」「互いの劣を補う優たること」などです。

④ 「環境禍」は、以上のインシデントとは性格が決定的に異なります。
その違いとは「環境禍はすでに発生している」という点です。「発生確率」は100%なのです。
そして、着実に進行しています。
そして、ぼちぼち進行していきます。急速ではないのです。
つまり、着実に悪くなっていきます。ストップしてくれません。
さらに、すでにその実害の兆候が現れています。
「ゆでガエル」の喩(たと)えがあります。水の中にいるカエルが、水の温度が少しずつ上がっても危険だと気づかずに、そのうちにお湯になって、カエルは茹で上がってしまって死に至る、という有名な怖いお話ですね。
また、「犯人性」も異なります。
「事故」の原因や「事件」の犯人は「単独」です(複数かもしれませんが、特定可能です)。
「環境禍」は「大多数あるいは全員」が犯人です。(大気汚染や水質汚濁は事故に分類した方が分かりやすいかもしれません。)
しかも、天災の発生確率を上げているという意味でも深刻です。たとえば、温暖化によって異常気象が加速されて「10年に一度の豪雨」が毎年のように発生していますし、あらゆるデータが今後のディストピアを予言しています。
さらに、経済的な損害も、多岐にわたり、着実に拡大しています。
こうした「環境禍」への対策は、たくさんあります。
しかし、あるにはあるのですが、コストがかかるので、対策の実行の段階になると、企業経営者の中には、逡巡する人もいます。これまで「無料のゴミ捨て場」として使い続けてきたからでしょう。
また、「犯人性」からも「自分だけがコストを負担するのは嫌だ」と思う経営者もいるのではないでしょうか。
さらに、「自分たちだけが頑張っても、大多数の企業がやらなければ、焼け石に水で、効果がないだろう」と考える人もいるでしょう。
それでも、「全く無視している」ようには見られたくないので、「できることは一応やってますよ」というポーズをとる人もいるはずです。

とはいえ、少なくとも「自分たちが直接発生させている環境負荷」に関しては、「責任」の一種です。企業活動による電力消費、資源消費、廃棄物増加などです。
「責任を果たすことは、信頼を裏切らないこと」と以前の回で書きましたが、この場合「誰からの信頼か」といえば、それは「顧客」でしょう。
顧客は、自分が購入した製品やサービスによって環境への負荷が増加しているとわかっていても、顧客自身はその負荷を下げる努力はできません。
顧客が「できる努力」があるとすれば、ただひとつ「買わない」ことです。
「買わない」という選択をされては困るのであれば、顧客に成り代わって、企業が環境負荷を下げることで責任を果たしていかねばなりません。
しかしこれには、コストがかかります。

(これも以前の回で書きましたが)お金だけの問題であれば、自動化社会が成熟すれば、貨幣はその役割を終えているので、長期的にはコストをかけても大丈夫です。
なので、「環境禍への対策」に限っては、政府や国連が「無尽蔵に貸与すれば良い」のではないでしょうかね。
もちろん、極端なインフレにならないように注意しながらではありますが。
それに「自動化社会が成熟」すれば「貨幣の役割を終えて負債は霧散する」という仮説が、残念ながら支持されていないので、そんなことを言っても甲斐のないことですが。

それから、困っている人がいると、そこにニーズが生まれ、企業活動からみればチャンスが生まれます。嫌な言い方ですが、そういうものです。
これも以前の回で書きましたが、「メンテナンス業務」に注目してしまうとコストアップにしか思えないのでしょうが、「イノベーション業務」のチャンスと位置づければ前向きのアイデアが生まれることもあるでしょう。

確かに、天災は、痛ましい結果をもたらします。
一方で、「手を差し伸べたい」という感情が自然に湧き上がってくることも事実です。
それだけに、倫理観、道徳面では、こうした天災のときこそが、事業活動の「襟を正す」チャンスなのかもしれません。

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