【映画評】ベネディクト・エルリングソン監督『馬々と人間たち』(Hross I Oss, 2013)。
アイスランドが舞台のオムニバス映画で、とはいえ相互に繋がっているそれぞれのエピソードの始まりを当地の純潔馬の瞳のアップが告げる(左図)。人と馬との密接な関わりを物語る各話において、人間の擬獣化、馬の擬人化が平行して進められ——本作のポスターがそれを象徴する(右図)——、最後は共同放牧地から集められた馬とその持ち主らが人馬の別なく入り乱れる場面で閉じられる。
だが、この最後の場面を(人同士だけでなく)「馬と人間の境界も曖昧に」し「馬も、人間も、この地に生きる同等の動物という混沌とした一体感」を表現する(斉藤博昭:パンフレット)などと理解してもいいものだろうか。というのも、本作では人間のエゴや生命維持のために、何頭かの馬が一方的に殺されてもいるからである。確かに人間も二人、死にはするが、それは完全に自業自得で、馬が人に命を奪われるのとは非対称だ。
ちなみに雪で立ち往生した人物が馬の腹を裂いてその中に潜り込み暖を取るシーンは、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』(1980)でハン・ソロがトーントーンの腹を裂き、そこに凍死しかけているルークを突っ込んでいたことを想起させる。最近では『レヴェナント:蘇えりし者』(2015)にも同じ様なシーンがあった。要はそういうことが——かつての北米フロンティアの様に——家畜との共生を続けている場所では、実際に起こり得るというわけだ。
話を元に戻そう。本作は「もしも馬が言葉を持ち、物語を語れるならば、人間をどのように描くのだろう」との監督の疑問から始まったという(小倉悠加:パンフレット)。つまりは単純な擬人化である。しかし、実際には馬は「見つめる」ことしかできない。本来、冒頭の馬の瞳(一つ目)はそれを象徴する。
映画が動物の視線を探る諸方法の中で最も重要なのは、動物の視線とカメラレンズの視線を溶け合わさせるときの方法だ。目にこだわることによって――それはしばしば一組ではなく一つ目だが——映画は効果的に動物をカメラ、非人間的な記録装置に変える(J・バート)。
本作では、登場人物たちもまた、双眼鏡やら望遠鏡やらで互いに他人とその馬を観察している。しかし、それは窃視症的「欲望」に基づく行為であって、ということは「主体」の「意思」や「心理」のなせる業(「他者」の「客体」化)なのであり、動物の言わば「カメラ・アイ」とは全く性質が異なるのものである。果たして、人間という動物が「主体」の位置から降りて、しかも「客体」ではない動物となり、人間以外の動物もまた「客体」の位置から脱する、その様な存在同士としての「人間と動物」がもつれ合う地平を、あのラスト・シーンは提示できていただろうか。いや、映画にそれが可能かどうかを問う方が、より誠実なのかも知れないが。
〈引用文献〉Jonathan Burt, Animals in Film, Reaktion Books, 2002.