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【試訳】フランソワ=グザヴィエ・モリアによる『ターミネーター』(1984)論(François-Xavier Molia, 2018)

 これらの批判の一つ目(行き過ぎた、冷ややかな、よって最終的には不道徳な合理性)は、おそらく当時のハリウッド映画のなかで最も技術恐怖症的であるジェームズ・キャメロンの『ターミネーター』のなかでと輝きと共に表現される。脚本の複雑な発端は、近未来のなかで、過去(即ち1984年に)自分たちのそれぞれの密使を送る人間と機械の間の全体戦争の状況を設定する。つまり彼らの戦争の未来のリーダーの未来の母、サラ・コナーを守るための人間と、この潜在的母、ということは同時に来るべき息子を抹消するための機械(ザ・ターミネーター)である。人間の使者カイルは、サラに何があったかを、あるいはむしろ何が起こるかを説明する。つまり人間は、人間がそれ自身脅威であると評価しそれらを絶滅させるために核戦争を引き起こすコンピュータによる防衛網に、自分たちの保護を委ねた。生存者たちは後に、荒廃させられた地上を縦横に走る戦争の機械から逃れるために絶滅収容所に置かれ、さもなければ地中の奥深くに住まざるを得ず、この「歴史」の時代に位置するシークェンスがそれを教えるように、恐怖と悲惨の生活を送るところへ追いやられている。絶滅計画と収容所の言及はそこでまた柔軟性を欠いた論理の恐怖を強調するためにナチズムの参照を召喚する。この容赦ない思考法(ロジック)の宣言は、(『ブレードランナー』の「レプリカント」のように)人間の外見を持つと同時にそれらを身体的に凌駕するのが、(アーノルド・シュワルツェネッガーが顔立ちを貸している)ターミネーター自身、アンドロイドの殺し屋であるということだ。しかし、それをカイルが言うように、ターミネーターは痛みと恐怖と哀れみを知らない。「レプリカント」とは違って、彼の内面は、人間を絶滅させるために人間の共同体に侵入することを彼に許す合成された肉体のおかげで、皮相は別として、機械的であるところから離れない。懸念はよって人間と機械の間の存在論的なトラブルに由来するのではなくて、むしろ後者の自主性の強さ、自分自身の創造の危機にさらされた人間性の恐怖症のファンタスム、1940年代以来、そして核の時代の初め以来、数多くのアメリカの映画を育んだファンタスムにかかわるのである。
 しかしながら、この懸念は晴らされる。なぜならターミネーターは打ち負かされるからであり、人間の優位がそんな風に再確認されるからである。彼らの優位は人間と、映画が進むにつれて次第にますます非難される機械の間の性質の違いの上に正確に基礎を置く。ターミネーターはまず目を一つ、次いで火事のさなかに溶けてその人工のコーティングを失う。ドラマ的な緊張は、たとえそれが徐々に弱まっても、逆説的に殺人機械の盲目的な決定によって維持される。この映画の最後の諸シークェンスにおいて、ボディ・ビルダー、シュワルツェネッガーの完全な体形美を剥ぎ取られ、機械はもはや、ぎくしゃくした緩慢な足取りでマリオネットの不完全性を想起させる金属性の骸骨に過ぎない。そこではまた、人間性という幻想(化粧のレベルより深くに行くことは絶対にない幻想)が視覚的に無に帰される。我々は『ターミネーター』がある確かなやり方で、『ブレードランナー』よりずっと我々を安心させると評価することができる。つまり我々を脅かすのは、思考能力のある彼の主体性、そして我々に向ける審判のために邪魔しようとする人間性にとっての別の候補者ではなく、オーストリア訛りのナチの自動機械(オートマトン)なのである。それは我々に似ている主体ではない、それは永久に他なる客体なのである(Molia 58-60)。

Molia, François-Xavier, « De Blade Runner à Tim Burton : marionettes et répliques dans le cinema hollywoodien contemporain » in Laurence Schifano (dir.), La vie filmique des marionnettes, Presss universitaires de Paris Nanterre, 2018, pp. 53-68.

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