見出し画像

【映画評】サントーシュ・シヴァン監督『ナヴァラサ(Navarasa)』(2005)。

 古来インド映画は外部からの影響・圧力をうけ、つねに外からの視線にさらされてきた。とくに植民地期以降のインドは、オリエンタリスト的な「外からの視線」、その視線をうけながら再発見された「内なる伝統・民俗」、そしてインドのエリート指導者らの「内なる外の視線」が微妙にからみあいながら推移してきている。それとともに、インドはつねに西方からの影響をうけながら、それをのみこんで同化してきた歴史もある(杉本良男『インド映画への招待状』、青弓社、2002年、 13-14頁)。

 インド映画を「ボリウッド」の名の下に単一のイメージでとらえることはできない。インドの三大映画都市であるムンバイー(ボンベイ)、コルカタ(カルカッタ)、チェンナイ(マドラス)は、「植民地都市」時代、イギリスの影響下にそれぞれマラーティー語、ベンガル語、タミル語による伝統的芝居演劇をさらに発展させ、その伝統を基盤にそれぞれボリウッド、トリウッド、コリウッドと呼ばれるまでに映画産業を拡大・推進してきた(同書 25)。
 なるほど、インドの伝統的「娯楽映画」が「歌と踊りがふんだんに入ったメロドラマ」であり「楽しければどんな要素でも取り込むハイブリッドな性格」をもち(そこから「マサーラ・ムーヴィー」とも呼ばれる)、「原則としてハッピーエンドに終わる」といった共通項をもつことは確かであろう(同書 25-26)。しかし、だからといってそれ以外の部分の多様性を捨象してはなるまい。また、インドでは1950年代にサタジット・レイ(Satyajit Ray)監督が登場して以降、「芸術映画」も多数「制作」されてきた。さらに1960年代後半に入るとこれら二大ジャンルの中間をいく「ニュー・シネマ」が登場し、現在、インド映画は国際化、ハイブリッド化の度合いを強め「ますますその輪郭がわかりにくくなってきている」(同書 25-29)。
 『ナヴァラサ』は、チェンナイ=コリウッドで製作されたタミル語映画である。しかし、そのような地域性を保持しながらも、フィクション(少女シュエータが踊り出す「娯楽映画」的性格)、メタ・フィクション(インテリ監督による「カウンター・シネマ」的自己言及)、ドキュメンタリー(実際のアラバン寺院の祭りを映す「芸術性」)の境界を縦横に行きつ戻りつしてずらし続け、さらにムスリムとヒンドゥー教徒の対立やエイズといったグローバルな問題にも言及するこの作品は、まさに現在のインド映画の典型といえるかもしれない。
 そもそも「ナヴァ・ラサ(nava rasa)」とは「9つの味(感情)」(色気、勇気、笑い、悲しみ、驚き、恐怖、怒り、憎悪、平安)、を意味する、つまりはなんでもありのマサーラ・ムーヴィーの主要素としてよく取り上げられる言葉なのである(同書 59)。それをわざわざタイトルに掲げるこの映画が、既存のインド映画の換骨奪胎を試みていないわけがない。
 杉本が指摘する西洋と近代インドとの関わりのなかで形成されてきた3つの視線:「外からの視線」(マサーラ・ムーヴィーの自演)、「内なる伝統・民俗」(大衆演劇的要素、祭りの描写)とエリート監督のもつ「内なる外の視線」(ヒジュラを「性同一性障害」と名指す視点、メタ・フィクショナルな構造)を意識的に混淆させるハイブリッドな映画が、それ自体、対西洋的にかたちづくられてきた「ヒジュラ」という「メディア用語」で名指される人々を、しかし地域性にもとづいてリプレゼントとすること。このアイロニカルに同語反復的な関係のなかに「攪乱」の可能性を見て取ることができるかもしれない(しかし「少女」や「女性」の扱いについてはいま一つ…)。

〈参考文献〉
参考文献
石川武志「北インドと南インドの寺院―その精神風土と究極の相違」『ヒジュラ―インド第三の性』、青弓社、1995年。/國弘暁子「ヒジュラとセックス―去勢した者たちの情交のありかた」『セックスの人類学』(シリーズ来るべき人類学①)奥野克巳他編、春風社、2009年。/―――「インドの「ヒジュラ」―セクシュアル・マイノリティとしての歴史」『権力と身体』(ジェンダー史叢書第1巻)服藤早苗他編、明石書店、2011年。/杉本良男『インド映画への招待状』、青弓社、2002年。/山下博司・岡光信子『アジアのハリウッド―グローバリゼーションとインド映画』、東京堂出版、2010年。

「ヒジュラ」関連参考文献(追加)
ナンダ、セレナ『ヒジュラ―男でも女でもなく』蔦森樹/カルマ・シン共訳、青土社、1999年(Nanda,
Serena, Neither Man for Woman: The hijras of India, New York: Wadsworth, 1990)。
國弘暁子「ヒジュラ―ジェンダーと宗教の境界域」お茶の水女子大学ジェンダー研究センター年報
『ジェンダー研究』第8号、2005年、31-54頁。
―――「異装が意味するもの―インド、グジャラート州におけるヒジュラの衣装と模倣に関する考
察」『非文字資料研究の可能性―若手研究者研究成果論文集』、神奈川大学21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」研究推進会議、2008年、153-164。
―――『ヒンドゥー女神の帰依者ヒジュラ―宗教・ジェンダーの境界域の人類学』風響者、2009
年。

Carstairs, George Morrison, The Twice-Born: A study of community of high-caste Hindus,
Bloomington: Indiana University Press, 1985
(https://archive.org/details/twicebornstudyof00cars).
---, “Mother India” of the Intelligentsia: a reply to Opler’s review”, American Anthropologist 62
(1950), p. 504.
Opler, Morris E., “Review of The Twice-Born: A study of community of high-caste Hindus,
---, “The Hijra (hermaphrodites) of India and Indian National Character: A rejoinder”, American
Anthropologist 62 (1960), pp. 505-511.
Shah, A. M., “A Note on the Hijad’s of Gujarat”, American Anthropologist 63 (1961), pp.
1325-1330.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?