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【映画評】犬堂一心監督『メゾン・ド・ヒミコ』(2005)。

 確かに、これは、「オカマの手なんてきたなくて触れるわけないでしょ!!」と主人公の吉田沙織に口走らせてみたり、中学生らに「変態死すべし!! ホモ全滅!!」と落書きをさせてみたり、ゲイに対する差別にまつわるエピソードには事欠かない映画である。だから一見(特にナラティヴだけに注目するならば)、「世間一般」の男性ゲイに対する差別を取り上げ、そうすることによって観客それぞれに自省を促す映画のように映るかもしれない。 しかし、そのような叙述がいたって分かりやすくなされているのだとすれば、ゲイ差別を行う者をこそ告発しようという製作者側の「倫理的」態度は容易に見て取れるのであって、それをここで検証することもないだろう。「告発」すべきは、むしろ、この映画がほとんど無意識に垂れ流すミソジニーの方だ。
 そもそも、この映画が用意する二つの「舞台」そのものが女性を排除しようとする。吉田が働く「細川塗装」は、専務の細川(西島秀俊)の性交の相手を女性の容姿や身体的特徴で選別する場所としてしか機能していない。それ自体、細川相手の風俗店と変わりないのだが、他方の、吉田が実際の「風俗行き」を避けるためにたどりつくメゾン・ド・ヒミコにしても、そこはそこで男性ゲイ専用の老人ホームなのであり、女性としての彼女は、せいぜい「新しいアルバイト」としてしか認識されない。
 次にこの映画は女性の身体(とその運動体としてのダイナミズム)を視覚的に排除しようとする。本作は、老若の男たちの裸身についてはこれを肯定的に提示する(岸本や細川やルビー、山京大学のゲイの若者たちの裸身)。ところが、吉田の肌、裸身については ― 岸本や細川との性交渉シーンにおいてすら ― ひた隠しに隠そうとする。
 あるいは、ヒミコと岸本とのホモセクシャルな身体の触れ合いは、都合よく「老い」やら「死」やらのテマティックな仕掛け、さらには凝った装飾と絡ませつつ、崇高で精神的かつ宗教的なものとして提示するのに、吉田と岸本、吉田と細川との間で試みられるヘテロな性交渉となると、途端に男性の視点を代替したような細切れのカットの組み合わせによって、女性の身体を(裸は見せずとも男性観客を当て込んで)扇情的に映し出す。そのくせ、監督の犬童一心は、「女性の身体そのもの」が画面に顕現することについては、これを極度に恐れ、周到に回避するのである。
 それにしてもいったい、この映画は吉田沙織をどこに行かせようとしているのか。彼女は、ラスト・シーンになっても尚、「作業着」を着せられて、細川塗装とメゾン・ド・ヒミコの中間に立たされている。吉田はなぜ、細川塗装で、他の女子社員と交流を深めることを許されないのであろうか。あるいはなぜ、メゾン・ド・ヒミコのゲイたちは、女性を、自分たち同様に性的グラデーションを持つ存在として理解し、受け容れようとしないのだろうか。会社では細川に凌辱され、他方ではゲイの男たちにかたちばかりの「チュー」を迫られて、その間で、吉田はいつまで作業着で ― 女性としての身体性を露わにすることを禁じられながら ― 過ごすのだろうか。  ピキピキピッキー!! それは遂に、細川塗装とメゾン・ド・ヒミコの間に走る、いや、男女の間に走る無残な亀裂の音である。

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