読書感想文「みんな元気。」舞城王太郎

なんこれ?
前衛芸術?何が言いたいん?
途中から必死で読むのをやめようとする心を諫めつつ何とか全部読み切った。

口語とか擬音表現はまぁOK。時系列がぐちゃぐちゃなのもまだOK。
だけど、突然のグロ描写とか、シームレスに意味不明な文章を入れてくるのは、なんだか脳が受け付けない。

何とか、何かの比喩なのかもしれない。
この作者が言いたいことはこういうことかもしれないと、推測してみるものの、その思考すら辞めてしまいたくなるほどの荒唐無稽な展開に、苛立ちさえ覚えた。

例えるなら、フワちゃんを見ている気分。
(しっかりTVを見ているわけではないが…)

なんか暴走キャラや無礼な態度が今の時代の最先端なんだと理解できた振りをしないとダサいと言われているような感覚。

意味がある様で無いようで、仮に意味があったとしても、読み取れていないのは感覚が鈍いからだ。とでも言われているような感じ。

意味など無いさと言われて、その意味の無さを称賛しなければいけないかのような…

うん。全然好みじゃない。

背表紙のあらすじの最後に「愛と選択の短編集」と書かれているが、苦し紛れの売り込み文句に聞こえる。

この短編集の主題を探そうとすれば、そうなるだろう。
そりゃそういう展開で終わったから。でもそれまでの過程はどうだろうか?
「他人の首を切ること」と「選ぶこと」は一緒のことであり、不可逆的で、取り返しのつかないことで、選択とは何かを切り捨てることでそれほどクリティカルなものだという比喩だとして、なぜ他人の首を切るという残虐な表現にしないといけないのか、その展開に必然性が無い。


理解不能なものへの対処法


必然性が物語に必要無いのなだから、どんな表現でもいいじゃないか。
と言われたとして、「あ、はい。そうなんですね」としか感じられない。

ラリってる物語展開は、限りなく透明に近いブルーでもあったが、あちらの方がまだ理解できた。

理解するということは、ある程度自身の身体・精神感覚に近いものでないと難しいのだろう。Aと提示されれば、Bとなる。とある程度の予測に沿っていなければ「納得」が出来ない。

考えるな、感じろ。という言葉は理解不能なことに対する対処法としてよく使用される言葉だが、この物語を「感じて読む」ことは非常に困難だ。

作者の意図を読み取ろうという読書の仕方をする限り、物語や描写の必然性の無さがその読み方を阻む。

つまり、私はこういった荒唐無稽系の物語に対してどういう態度で臨めばよいのだろうか。

1.最後まで流し読み、雰囲気を味わう
2.最後まで、じっくり読み自分なりの解釈をする
3.少し読み進め、無理なら本を置く

この3パターンになると思う。

本を読んだ感想や解釈など、人の数だけあるだろうから解釈があっているかの正解探しには意味がないのだが、荒唐無稽系の話は「納得」をさせてはくれない。自己満足の「納得」すらさせてくれない作品は、心に残らない。

結局私は、私の心を納得させてくれる体の良い物語を探しているに過ぎない。私が読書に求めているものはその程度のものでしかないのかもしれない。

だから、3つ目の「無理なら本を置く」これを選べるようになりたいのだが、未練がましく最後まで読んでしまう。

きっと読書経験が浅いのだろう。
経験を積めば、「みんな元気。」の様な作品も楽しめるようになるのだろう。

と、ドMで結論を先延ばしにする選択をしてしまう。
現在の私はこんな程度だ。

最後に

あらすじにも触れず、読んでいる際の自分の心の振り返りに終始した。
もしこの文章を読んでいる人がいたら、相性の悪い本と出合ってしまったときにどんな反応と対処をしているだろうか。

とは言え、舞城王太郎先生の本はこれだけではない、時間を置き、他の作品を読んでからでも、ブックオフ送りにするのは遅くないだろう。

相性が悪かった。ただそれだけだ。

次行きます。

次に読む本→「みんな元気。」→「き」→「虐殺器官」伊藤計劃



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